たそがれ
徹夜での麻雀を終えて、みんなを部屋から追い出したのは、午後一時を過ぎた頃だった。
ぼんやりと、寝転がりながら天井を見つめているうちに、少しウトウトとしてきた。
そんな状態で、眠るでもなく起きるでもなくしていると、玄関の方でチャイムが鳴る音を聞いたような気がした。
気のせいかと思って、しばらく放っておくと、また、今度は、はっきりとチャイムが聞こえた。
「はいはい…」
急いで玄関に向かい、半分寝ぼけている頭を少しでも覚まそうと両手で髪を掻き上げた。
鍵を外し、ドアを開けた途端、僕は見てはいけない人をそこに見てしまった。
まさに『幽霊』というべき存在だった人が、そこに立っていたのだった。
「久しぶり…」
そう言うのが精一杯だった。
なぜなら、そこに立っていたのは、二年前、僕が夢中になって、それこそ、身も心もすべて投げ出してもいいとさえ思った女性だったからだ。
「手紙来たものだから…。近くに来たついでだし……」
そう言って彼女は、僕が出した転居ハガキをちらつかせた。
瞬間、僕は胸が熱くなるのを感じた。未練はあったけど、もう一生会うこともなく、ふたりの人生の交わりは、とうの昔に過ぎ去ってしまったと思っていた。
「とりあえず、あがって」
彼女を部屋に招き入れた僕は、徹夜明けの間抜けな顔を洗うことにした。
ざらつく無精ひげの感触を、指先で感じながらカミソリをあてる。
「飯でも食いに行こうか」
そう言いながら、僕はこの夢のような現実に、かなり動揺していた。
確かに、この二年間、彼女のことを忘れようと努力してきた。しかし悲しいかな、二年という時間は僕にとって、あまりにも短すぎたのだった。
僕はタフな人間ではない。かといって、陰々滅々と内に籠もるタイプでもない。
では、なぜ彼女のことを忘れることができなかったのか?
それは、わからない。きっと一生かかっても、その答えは見つからないだろう。
僕が愛した女性とは、そういう人だったのだ。
一抹の不安を拭い去ることはできなかったが、僕は彼女に対して、少しは客観的に接することができるようになった。この状況も、決して無条件では喜べないものだという警告が、頭の隅に点っていた。
三〇分後、僕は彼女の運転する車に乗って、初秋の一三四号線の夕焼けを見ていた。
「憶えてる?初めてデートした場所」
彼女は、昔を懐かしむようなことを言った。
「憶えてる。江ノ島でしょ」
海岸に目をやると、ピーク後の海の家が、廃墟のようにたたずんでいた。
「ご飯食べたところ、憶えてる?」
「一三四号のデニーズ」
「今日は私がおごるわ」
黄昏が、本格的な夜に変わろうとする頃、僕らはファミリーレストランに着いた。
シーズンを過ぎたからか、この時間にしては店内は比較的すいていた。
町の灯と、漁り火とが、遠い水平線の彼方に、きらめく稜線を彩っていた。
手を伸ばせば掴み取れるのではないかという気がする。
「こうしている間にもね、私の帰りを待ってくれてる人がいるの」
食後の紅茶を啜っている僕に、彼女は語りかけてきた。
「弁天橋、二人で渡っちゃったからかな」
江ノ島には、弁天橋という橋がある。
これは江ノ島へ渡るための橋なのだが、この橋には恋人たちにとってあまり好ましくないジンクスがある。
それは、二人一緒になってこの橋を渡ると、龍神の化身である弁天が嫉妬して、二人の仲を裂いてしまうというものだ。
「遅くなったら、まずいんじゃないの?」
僕は努めて冷静に言った。
意識してないと、カップが震えてしまいそうだったからだ。
遠い日の恋心は、今もまだ、心の中で燻っている。
完全燃焼できなかったからだ。周りが冷えて、黒く固まっても、芯の部分では熾火がまだ残っている。そう、いまだに僕は彼女が好きなのだった。
「私ね、彼のこと愛してないの。私は生活のために、好きでもない男と一緒に生活しているの」
そういって、泣き出す彼女を、僕はただ見ているしかなかった。
なにが彼女をそうさせたのか。少なくとも、最初に出会った頃は、そうではなかった。 彼女は悪女志願だったけれど、本当の部分ではそれになりきれない純粋な少女だったのだ。
「そうやって、自分を卑下するのはよせよ」
そうなだめてしまう自分が、とても愚かに思えた。
お互いに過ごした時間は、決して短くないと言うことを、会話の中で感じていた。
「十二時までには帰らなくちゃ…」
少し、足下をふらつかせながら、僕と彼女は車に乗り込んだ。
「運転、変わるよ」
「お願い」
少なくても、彼女よりかは、僕の方が酔いが回ってない。
帰りの運転は僕がすることとなった。
胃の底に重いものを感じながら、交通量の少なくなった国道を、もときた方へと走らせた。
さすがに、お互い話すことはなかった。
ただ、全開の窓から入る風が、悲しいジンタを奏でているような気がした。
(十二時までには帰らなくちゃ…って、シンデレラじゃんか)
三十分後、僕は、彼女と彼が住む家の玄関に立っていた。
彼女は、名残惜しそうに、何度も何度も僕の顔を見た。
そういうつもりではなかったが、玄関越しに、かすかに感じる生活の匂いを嗅ぎ取って、僕は急に現実の世界に引き戻されるのを感じた。朝食の味噌汁が入った鍋や、おそろいの茶碗…。見てはいけないものだと思った。
「もう遅いから、家に帰るよ」
電車も終わっている時刻に、見知らぬ男が上がり込むのは具合が悪かろうと、僕は彼女に別れを告げた。
「ちょっと待って」
「?」
「ねえ、私のこと、嫌いになった?」
「……」
「ねえ、キスして」
「!」
「わたし、勢いとかで言ってるんじゃないのよ。信じて!」
いけないことだと思いつつも、僕は彼女の唇に、唇を重ねてしまった。
彼女は夢中になって、僕にしがみついてきた。
酒の勢いがあるのだろう。しかし、しらふでもこういうことをしかねない。
僕たちは、何かにとりつかれたように、お互いの思いを唇越しに確かめあった。
頭の中が白く霞んでゆく。
熱病にかかったように、体が熱かった。
「私を信じて…」
涙でむせ返る、切れ切れの声で、彼女は訴えた。
「信じるよ」
「もう、だめなのよ。わたし、もう我慢できないのよ」
僕は愚かだったと思う。
何度も同じ過ちを繰り返してしまう。
でも、このとき、まだわからなかった。僕が決定的に、取り返しがつかない過ちを犯してしまっていたことを。
大通りに出て、タクシーを拾うのに、結局一時間もかかってしまった。
取り乱した彼女を、何とかなだめすかして、あわただしすぎる一日を振り返る余裕ができたのは、明け方の頃だった。
熱いシャワーを浴びて、横になったのは午前六時。雀の鳴く声が靄のかかった街を飛び交っていた。
(目が覚めたら、全部夢だった…。そう、それがいい……)
もう、彼女のことで苦しみたくなかった。
目が覚めると、人の気配がした。
どこから入ってきたのか、彼女はクローゼットを背にして、僕の寝起きを見つめていた。
「どこから入ったの?」
「窓」
そういうと、彼女は寝てしまった。
時計の針を見ると、午前十時を少し回ったところだった。
やがて昼になった頃、彼女は起き出した。
「ゴハン食べようか」
少し遅目の昼食を済ませ、他愛ない話をして、彼女は帰っていった。
僕は彼女を止めることができなかった。
いや、止められなかったのだ。
数日後、彼女から電話があった。
現在の彼と別れて、一人でやり直すということだった。
『私はあの日、少なくとも二回は決心したわ』
『あのとき、私を止めてくれれば、私はなにもかも捨てて、あなたについていくつもりだったのに!』
すべては遅かった。僕はまた同じ過ちを犯してしまったのだ。
後に残ったのは、癒えることのない大きな傷だけだった。
何年経てば、僕は成長するのだろうか。
『夢や理想を、いつまでも追いかけていてはいけないのよ』
彼女が最後にいった言葉が、何度もリフレインしていた。
〜End〜