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婚約破棄されたので、隣国で薬師として静かに暮らします

作者: 伊田木 鈴
掲載日:2026/03/21

夜会の喧騒が、まるで遠い世界の音のように聞こえていた。


 シャンデリアの光が無数の宝石に反射して、広間を琥珀色に染めている。貴族たちは優雅にワルツを踊り、笑い声が天井まで届いていた。


 その輝きの中心に、私——レティシア・フォン・ヴァイスベルク——は立っていた。


 正確には、立たされていた。



「——よって、本日をもって、レティシアとの婚約を破棄する」



 王太子アルバート殿下の声が広間に響き渡った。


 周囲がざわめく。扇の陰でひそひそと囁く声。同情、好奇、あるいは嘲り。それらが入り混じった視線が、私の全身に突き刺さる。


 隣に立つ殿下は、まっすぐ前を見ていた。私のほうを見もしない。


 代わりに、殿下の腕にしなだれかかるようにして立っているのは、男爵令嬢のエミリア・セラフィーナ。金色の巻き毛に碧眼、薄絹のドレスからのぞく白い肌。華やかで、誰もが目を奪われる美貌。


「殿下、あの、私のせいで申し訳ございません……」


 エミリアが殿下の袖を掴みながら、涙ぐんだ声で言った。


 ——私のせいで。


 その言葉の裏にある、計算し尽くされた構図が見えた。でも、それを指摘したところで何も変わらない。


「理由をお聞きしてもよろしいですか」


 私は、自分でも驚くほど平静な声で言った。


「退屈なんだよ、お前は」


 殿下がようやく私を見た。その瞳には、苛立ちとも侮蔑ともつかない感情が浮かんでいた。


「社交の場で薬草の話ばかり。ドレスより実験着を好み、舞踏会より薬房にこもる。公爵令嬢としての自覚が足りない」


「……そうですか」


「それだけか?」


「ええ。それだけです」


 私は深く一礼した。


 広間が静まり返った。罵倒も、懇願も、涙もない。ただ一礼して背を向ける私に、貴族たちは戸惑いの表情を浮かべていた。


 殿下が何か言おうとしたのが気配でわかった。でも私は振り返らなかった。


 ——退屈な女で結構。


 この国に私の居場所がないのなら、自分で見つけるだけだ。



   ◇ ◇ ◇



 婚約破棄から三日後。


 私は、最低限の荷物と大量の薬学書を馬車に詰め込み、隣国ルクセリアへ向かっていた。


 父は何も言わなかった。ただ、餞別にと母の形見の薬草図鑑を手渡してくれた。


「お前の才能を、正しく見る者がいる場所で生きろ」


 それだけ。


 ヴァイスベルク公爵家は代々、王国の薬学を支えてきた名門だ。私はその血を最も濃く受け継いだ——と、少なくとも自分では思っている。


 希少薬草の配合。禁忌に近い万能薬の調合。王国でそれができるのは、私だけだった。


 でも、殿下にとってそれは「退屈」だった。


 馬車の窓から、母国の山並みが遠ざかっていく。不思議と涙は出なかった。



 ルクセリアの王都に着いたのは、五日後の朝だった。


 石畳の通りは清潔で、花売りの声が響いていた。母国とは空気が違う。重苦しい貴族社会の圧ではなく、商人や職人が活気づく自由な気配。


 私は、路地裏の小さな空き店舗を借りた。薬屋を開くには十分な広さだ。


「薬師レティシア」


 手書きの看板を掲げた日、最初の客が来た。


「あの、子どもが三日も熱が下がらなくて……町の医師にはお手上げだと言われたんです」


 若い母親が、赤ん坊を抱いてすがるような目で立っていた。


 熱の原因はすぐにわかった。これは単なる風邪ではない。マナ熱だ。魔力の多い土地特有の、乳幼児に起きる体内魔力の暴走。


 一般の医師には診断すら難しい。でも、ヴァイスベルク家の薬学書には治療法が記されている。


「大丈夫です。明日には熱が引きます」


 私は調合した解熱薬を母親に手渡した。


 翌日、母親は涙を流しながら戻ってきた。


「熱が……本当に下がりました。先生、ありがとうございます!」


 ——先生。


 誰にもそう呼ばれたことがなかった。王国では「変わり者の公爵令嬢」としか見てもらえなかった私が、ここでは「先生」だった。


 噂は広まるのが速かった。


 一週間で客は倍になり、一か月後には朝から行列ができるようになった。難病を抱えた患者が遠方から訪ねてくることも増えた。


 ——私の薬学は、退屈なんかじゃない。


 誰かの命を救える力だ。



   ◇ ◇ ◇



 転機は、ルクセリアに疫病が広がった時だった。


 港町から上陸した原因不明の病。高熱、全身の発疹、そして——三日以内に意識を失い、七日で命を落とす。


 町の医師団は手も足も出なかった。


 私は店を閉め、薬房にこもった。


 三日三晩、眠らずに症状を分析し、薬草を組み合わせた。これは——古代の疫病だ。千年前の記録にだけ残る「星蝕熱」。通常の薬では効かない。


 だが、母の形見の薬草図鑑に、一つだけ記述があった。


 「月下蓮」の花弁を主剤とし、「銀糸苔」で中和する万能薬——調合の成功例は歴史上、数えるほどしかない。


 失敗すれば猛毒になる。


 手が震えた。でも、町には日に日に患者が増えている。昨日笑顔で薬を買いに来てくれた花売りの少女も、今朝倒れたと聞いた。


 ——私にしかできないなら、私がやる。


 四日目の夜明け。


 薬は完成した。


 淡い銀色に光る液体を見た瞬間、成功を確信した。この色、この粘度、図鑑の記述どおりだ。


 最初の投与は、あの花売りの少女にした。


 半日後、少女の目が開いた。


「……せんせ?」


「おはよう。もう大丈夫よ」


 少女が私の手を握った。小さくて、温かい手。その温もりが、全身に染み渡るようだった。


 万能薬は量産体制に入り、一週間で疫病は終息した。



「——レティシア殿」


 疫病が収まった翌日、店を訪ねてきたのは、ルクセリア公爵ライナス・フォン・ルクセリアだった。


 銀髪に灰色の瞳。穏やかだが、知性を感じさせる眼差し。


「国を救っていただいた。王に代わり、感謝を申し上げる」


「当然のことをしただけです」


「当然、か」


 ライナス殿下は——いや、ライナス様は、静かに笑った。


「婚約を破棄された薬師が、拾われた先の国を救う。あなたを手放した者は、どれほどの愚か者だろう」


「……殿下」


「公爵で構いません。私はあなたの才能ではなく、あなた自身に敬意を払いたい」


 薬草の匂いが染みついた実験着姿の私を、ライナス様はまっすぐ見つめていた。


 ——ああ。


 これが、「見てもらえる」ということか。



   ◇ ◇ ◇



 それから半年が過ぎた。


 私はルクセリア王立薬学院の主任薬師に任命され、後進の育成にも携わるようになった。ライナス様とは、薬学の話を何時間でもできた。彼は学者肌で、私の「退屈な」薬草の話に目を輝かせて聞き入った。


 穏やかで、満ち足りた日々だった。


 そんなある日——。



「レティシア先生! 大変です!」


 弟子のマリアが、息を切らせて駆け込んできた。


「隣国——アルバート王太子の国で、疫病が発生したそうです。星蝕熱と同じ症状だと」


 ——来た。


 正直に言えば、予感はあった。港町を経由する病だ。交易路を考えれば、次は母国に上陸する。


「彼らは自分たちで薬を作れないのですか?」


 マリアの問いに、私は静かに首を振った。


「作れません。万能薬の調合法を知っているのは、この大陸で私だけですから」


 ——かつて、「退屈」と切り捨てられた知識。


 数日後、続報が届いた。


 アルバート殿下が、ルクセリアに正式な救援要請を出したという。しかもその書状には、こう記されていたらしい。



『薬師レティシア・フォン・ヴァイスベルクの派遣を切に願う』



 笑ってしまった。


 本当に、声を出して笑ってしまった。


 あの夜、広間で「退屈な女」と切り捨てた相手に、今度は国を挙げて頭を下げている。殿下のプライドの高さを考えれば、この書状を書くだけでどれほどの屈辱だっただろう。


 ——でも。


「レティシア。どうする?」


 ライナス様が、書状を手に私の判断を待っていた。


 命令ではなく、問いかけ。私の意思を尊重してくれている。


「薬は提供します」


「……だが?」


「私は行きません」


 ライナス様が、小さく頷いた。


「妥当な判断だ」


「万能薬の調合手順書を同封します。優秀な薬師がいれば、手順書どおりに作れるはずです。ただ——」


「ただ?」


「殿下の国には、その『優秀な薬師』がいないかもしれませんね」


 私の言葉に、ライナス様は一瞬だけ目を伏せた。それから、どこか悲しげに微笑んだ。


「才能を軽んじた報いだな」



 結果は、予想どおりだった。


 アルバート殿下の国には、万能薬を正確に調合できる薬師がいなかった。


 手順書を送ったが、三度の調合がすべて失敗。猛毒と化した液体が廃棄され、貴重な月下蓮の備蓄は底をついた。


 疫病は王都にまで広がり、貴族たちが次々と倒れた。


 エミリア・セラフィーナも罹患したと聞いた。


 アルバート殿下は二度目の書状を送ってきた。今度は「派遣」ではなく「帰還」を求める内容だった。



『レティシアは我が国の公爵家の令嬢である。国の危機に際し、帰国は義務である』



 ——義務。


 半年前に追い出した相手に、「義務」。


 私は返書を書いた。



『婚約破棄の際、殿下は私に「公爵令嬢としての自覚が足りない」と仰いました。その言葉に従い、私はすでに公爵令嬢としての立場を返上しております。現在はルクセリア王立薬学院の主任薬師であり、貴国に対する義務はございません。


 なお、万能薬の調合に必要な薬学教育は、通常十年を要します。


 かしこ』



 弟子のマリアが、この返書を読んで「先生、かっこいいです」と目を輝かせていた。


 ——かっこいいかどうかはわからない。ただ、事実を述べただけだ。



 三度目の書状は来なかった。代わりに届いたのは、殿下の側近からの私信だった。


『殿下は書状を書こうとされましたが、途中で筆を折られました。「あの女に三度も頭を下げるくらいなら死んだほうがましだ」と。しかし、民は日に日に倒れていきます。どうか——』


 哀れだと思った。プライドだけが残って、それすら守れなくなっていく。


 最終的に、ルクセリアが人道支援として私の調合した万能薬を提供し、アルバート殿下の国の疫病は収まった。


 だが、その代償は大きかった。


 殿下の国は莫大な借款をルクセリアに負い、外交上の立場は大きく後退した。王太子としての殿下の権威は地に落ち、廃嫡の噂まで流れていると聞く。


 エミリアは回復したが、殿下のもとを去ったらしい。落ち目の王太子にしがみつく理由がなくなったのだろう。


 ——予想通りだった。最初から、あの子が見ていたのは「王太子」という肩書きだけだったのだ。



   ◇ ◇ ◇



 春の午後。


 薬学院の中庭で、私は薬草の手入れをしていた。


 銀糸苔が良い具合に育っている。月下蓮の苗も、今年は花をつけそうだ。


「レティシア」


 ライナス様が、中庭の入口に立っていた。手には紅茶のカップが二つ。


「休憩にしないか。朝からずっと薬房にこもっていただろう」


「……バレてましたか」


「中庭の土がついた実験着で隠すのは無理がある」


 私は手袋を外して、ライナス様の隣に座った。


 紅茶を一口飲む。ほんのりと甘い。薬草茶をベースにした、私好みの配合。いつの間に覚えたのだろう。


「ライナス様」


「ん?」


「私、退屈ですか?」


 ずっと聞きたかった。聞くのが怖かった質問。


 ライナス様は、紅茶のカップを置いて、私のほうを向いた。


「昨日、星蝕熱の変異株について三時間語ってくれただろう」


「……すみません、つい」


「あの三時間が、今週で一番楽しかった」


 ——ああ。


 涙が、ぽたりと落ちた。


 紅茶に波紋が広がる。


「どうした?」


「いえ、なんでもないです。薬草の灰汁が目に入っただけです」


「嘘が下手だな」


「薬師ですから。嘘より薬を作るほうが得意です」


 ライナス様が笑った。


 私も、つられて笑った。


 春風が中庭の薬草を揺らし、甘い香りが二人の間を通り抜けていく。


 ——退屈な女で結構。


 この人の隣でなら、いくらでも退屈な話をしよう。



 これは、「退屈な女」が見つけた、静かで温かい幸福の話。



(了)

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