第2話 受付嬢が震えた理由
沈黙というものには、いくつか種類がある。
気まずい沈黙。怒りを含んだ沈黙。考え込む沈黙。そして今、俺の前にあるのは——完全に予想外の事態が起きたときの沈黙だった。
門番の兵士は、口を半開きにしたまま固まっている。後ろに並んでいた人々も、俺と兵士を交互に見て、誰一人として声を出さない。
……やったか。
いや、まだだ。まだ「並べ」と怒鳴られて終わる可能性はある。俺は余計なことを言った一般市民として追い払われ、列の最後尾に戻される。それが一番平和だ。
そう思っていたのに。
「……二列に、する?」
兵士が、恐る恐る聞いてきた。
疑問形なのがいけない。判断を相手に委ねている。組織で一番遅くなるやつだ。
「はい。確認担当と通行証発行担当を分けた方が早いです。あと、書類をここで事前配布してください。文字が読めない人用に、印をつける欄も——」
あ、だめだ。口が止まらない。
俺は慌てて咳払いをしたが、もう遅い。兵士の背後にいた別の兵士が、「なるほど……」と真顔で頷いている。周囲の市民からも、ざわざわとした空気が広がった。
「それなら……あ、俺は通行証を押す役に回る!」
「じゃあ俺は確認を……!」
兵士たちが勝手に動き出した。
え、待って。俺、許可出してない。というか、なんで素直に従ってるんだ。俺、ただの通行人なんだが。
だが《最適化》は容赦がない。
視界の端に、結果予測が浮かぶ。
——処理速度、約三倍。
——混乱、一時的。
——クレーム、発生率低。
最悪じゃない。むしろ、最善だ。
数分後。
列は本当に二列になっていた。しかも、ちゃんと流れている。さっきまで全く進まなかった行列が、目に見えて減っていく。
「早い……」
「さっきまで一時間以上待つって言われてたのに」
市民たちの声が、少しずつ明るくなる。兵士の一人が俺を見て、敬礼まがいの動作をした。
「助かった! 名前を聞いても?」
あ、だめだ。その質問はだめだ。
「いえ、名乗るほどの者じゃ——」
「では、記録だけでも!」
記録? 何の記録だ。まさか報告書か? いや、この世界に報告書文化があるとは思えないが、嫌な予感しかしない。
俺は話を切り上げるように、さっと門をくぐった。
……なんとか逃げ切った。
城壁の内側は、想像以上に「町」だった。石畳の道、木造と石造りが混ざった建物、屋台、子どもたちの声。匂いは、土と香辛料と、焼き肉。
生きてる感じがする。
少しだけ、胸が軽くなった。
だが、安心する暇はなかった。
《最適化》が、次の「やるべきこと」を提示してくる。
——身分証の取得。
——金銭の確保。
——安全な拠点。
はいはい、分かってる。まずはギルドだろ。異世界テンプレ的に。
人の流れを見れば、すぐにそれらしい建物は見つかった。剣と盾の紋章。でかい扉。出入りする冒険者たち。たぶん、ここだ。
中に入った瞬間、空気が変わった。
酒の匂い。汗。鉄。怒号。笑い声。情報と欲望がごちゃ混ぜになった、あまりにも分かりやすい「拠点」。
そして、受付カウンター。
そこに立っていた女性が、俺の視界に入った瞬間——《最適化》が、変な反応をした。
——注意:常識値、高。
——対応:簡潔に。
……人に対して「常識値」ってなんだ。
受付嬢は、薄い茶色の髪を後ろでまとめ、きっちりした制服を着ている。背筋が伸びていて、目は真面目そうだ。ギルドの中では珍しいタイプだな。
「いらっしゃいませ。冒険者登録でしょうか?」
声も落ち着いている。安心する。
「はい。登録を」
「では、こちらの用紙にご記入を。字は書けますか?」
「はい」
紙とペンを渡された。用紙を見る。
……項目が多い。
名前、年齢、出身、得意武器、魔力量、志望ランク、信仰神、保証人——。
《最適化》が警告を出す。
——入力過多。
——本質情報、三項目のみ。
俺は、受付嬢に顔を上げた。
「これ、全部必要ですか?」
「はい。規則ですので」
規則。出た。
だが、彼女の言い方は事務的で、悪意はない。ただ「そういうもの」として受け入れているだけだ。
「……もし、ここを簡略化したら、登録数は増えますか?」
彼女の眉が、ぴくりと動いた。
「え?」
「文字が書けない人や、魔力量が測れない人、保証人がいない人。この用紙で弾かれてませんか?」
一瞬、受付嬢は言葉を失った。
周囲の冒険者たちが、こちらを見る。
「……それは……」
彼女は視線を落とし、用紙を見た。
「確かに……登録途中で諦める方は、少なくありません」
だよな。
「仮登録にして、最低限の情報だけ先に取ればいいと思います。能力や信仰は後からでもいい。まずは人を入れる」
言い終えた瞬間、やってしまった感覚がした。
俺、また改善提案してる。
だが、《最適化》は冷静だ。
——成功率、高。
——副作用:注目。
受付嬢は、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「……少々、お待ちください」
奥へ引っ込んでいく。
あぁ、これは怒られるやつだ。上の人が出てきて、「規則だから」で終わるパターン。
そう思っていたのに。
数分後、彼女は戻ってきた。顔色が、さっきと違う。
「……上に確認しました」
ごくりと、喉が鳴る。
「仮登録、可能だそうです」
え。
「本日から、試験的に」
ええ?
周囲がざわついた。
「え、今の話で?」
「そんなこと、今まで——」
受付嬢は、俺を見た。
その目が、少しだけ震えている。
「……ありがとうございます」
その言葉に、俺は完全に困惑した。
礼を言われるようなことをした覚えはない。ただ、無駄を減らしただけだ。
「……いえ。普通のことです」
そう言った瞬間、彼女の目が、さらに大きく見開かれた。
——やばい。
《最適化》が、はっきりと告げる。
——評価、急上昇。
——誤解、発生。
受付嬢は、深く息を吸い、背筋を正した。
「失礼しました。改めて。ギルド受付のリリア・フェルツと申します」
名乗られた。
これは、完全にフラグだ。
「……アルトです」
最低限だけ名乗る。
リリアは、俺の名前を用紙に書き込んだ。その手が、わずかに震えている。
「アルト様……いえ、アルトさん」
様、つけかけた。
やめてくれ。それはやめてくれ。
俺は、内心で頭を抱えた。
(この世界、やっぱりバグってる)
だが同時に、思ってしまった。
——もし、この「普通」が通る世界なら。
——少しは、楽に生きられるかもしれない。
リリアが、仮登録証を差し出す。
「こちらが、仮の冒険者証です」
木札一枚。簡素だが、確かに「居場所」の証明だ。
受け取った瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
だが、その背後で。
数人の冒険者が、ひそひそと囁いている。
「なあ……あの新人」
「門の行列、あいつが変えたらしいぞ」
「ギルドの登録も……」
やめろ。聞こえてる。
《最適化》が、最後に一言、余計な予測を出した。
——この人物、注目対象に指定。
——波及、不可避。
俺は、深いため息をついた。
どうやらこの異世界では、「普通」でいることが、一番難しいらしい。




