第九話
どこかで、僕を呼ぶ声がする。何度も何度も、必死にしがみつくように、僕に呼びかける声は、大好きな、おにいちゃんの声だ。
「いかないでくれ、おねがいだ、…おまえがいないと、俺は生きていけない、ああ神様」
「この子を、つれていかないで」
ジャック・ブレルのハスキーな歌声が聞こえる。僕はバーの奥まった席にいて、ぼんやりと、がらんとした店内を眺めてる。
扉が開いて、あいつが駆けこんでくる。少しためらって、それから一直線に、僕のもとに来る。
その長身を見上げていると、彼は、膝が汚れるのも構わずに僕の前に跪いて、手を差し出した。
いつでも僕を引き上げて、抱きしめてくれる、力強い手だ。
僕はそれを拒めない。
拒めるわけがない、だって、あいつだけが、僕をたった一人、信じていてくれた。
暗闇で、たったひとつ灯ったお月様みたいに、僕を照らしていてくれた。
だから離れていても、ひとりぼっちでも――僕は生きていられたんだった。
こみあげてくる吐き気に耐えられず僕は咽せて、ずいぶん水を吐いた。藻みたいなものまで口から出てきた。ぐしょ濡れで、涙も止められなくて、散々な僕をあいつは抱きしめて、何度も背中を撫でた。
吐き出すものがなくなると、悪態がとめどなく口をついて出る。僕はあいつの腕の中で、「死に損なった」とか「君のせいだ」とか「クソバカ不倫野郎」とか言っていた。あいつはそれにいちいち応えて、「責任はとる」と大真面目に宣った。
「セキニンって、…」
「やっと会えたんだ、離れることなどできない」
ずぶ濡れの前髪が額を隠して、一途な瞳で見つめる。滴る水滴も綺麗で、映画のワンシーンみたいで、僕は思わず見惚れてしまった。まったく美形は得だ、シャクに障るぜ。
「役立たずの、ボロ雑巾みたいな僕でも?」
僕が聞くと、
「だらしのない、手のかかる子供みたいなお前でも」
と彼が応える。
「舞台に立たなくとも、二度とピアノが弾けなくなっても」
熱っぽい彼の声が掠れ、僕の肩に置かれた手に力が籠る。
「お前の、傍にいたい」
僕はまた涙が溢れて、しゃくりあげる。彼の顔が近づいて、こつんと額同士を合わせる。宝物を見るように見つめる彼の目が僕をまたくしゃくしゃにして、僕はセデュにとびついた。
口づけると、寒さに震えた歯がガチガチとぶつかる。それでさっきまで吐いていたことを思い出して、慌てて飛びのこうとする僕を、今度はセデュが押さえつける。
川の水と、泥と藻に塗れ、なんかすっぱい臭いの僕を、羽交い絞めにした彼は今度はゆっくり顔を傾け、ちゃんとしたキスをした。
あいつの唇は思いのほかやわらかくて、初めてした時みたいに、僕は頭がぼうっとなった。
唇から熱を伝えるように、凍えた僕を温めるように、僕の背骨がふにゃふにゃになるまでキスをして、それがひどくきもちよくて、横たわった僕はセデュの頭ごしに星空を眺めて、それで、…。
ガバリと起き上がった僕は彼につかみかかり、必死に叫んでいた。
「紙とペン! 今すぐ、ない!? ああもうこれでいいや、」
胸ポケットからぐしょ濡れの小切手を引っ張り出し、裏返して地面に叩きつける。呆然と差し出されたセデュのペンを奪い取って濡れた紙面にぐずぐずの五線譜を引き、屈みこんでオタマジャクシを書きつける。
「ダメだ、滲んでうまく書けない、ねえ、紙! ちゃんとした紙ちょうだい! 早くしないと逃げ出しちゃう」
「今すぐ戻ろう」
勘のいいセデュは即座に応じて、僕の手を引いて立たせる。駆けだそうと踏み出すと、ジンと痺れた足が変な方向に捩れた。
「いってえ、足吊った足吊った!」
「背に乗れ、走るぞ」
喚く僕を背負って、セデュは夜空の叢を駆ける。
重いだろうに、濡れた裸足で、疲れも感じさせない速さで橋を渡る。僕は彼の背でぴょんぴょん跳ねながら、湧き上がるイメージをひとつも取りこぼさないようにセデュにきつくしがみついた。
迎えに出たハウスメイドへの対応もそこそこに広間に駆け込むと、グランドピアノの重い蓋を開ける。一瞬指が震えたけれど、息を整えて指を落とす。
溢れ出す音楽は誰にも止められない。僕にさえも。
すっかり乾いた指先が躍って、音がはじけて夜に遊ぶ。セデュはピアノの脇のテーブルでそれを書きつけ、時々僕に文句を言った。
「早すぎる、ダメだ、今のフレーズをもう一度」
「わからない? こうだよこう、アハハ、たのしいねえ」
僕らを探してくれていたらしい彼の奥さんは、ランプもつけずに戯れあう僕らを異様な物でも見るような目で見ていた。
部屋中スコアで埋め尽くして、気の済むまで出し切って、気が付いたら夜が明けていた。楽しすぎて、時間が経つのもきづかなかった。
「完成だ、君のおかげだ! 戻ってきたよ、僕の音楽!」
興奮しすぎて眠気も起きない僕はセデュに抱きついて歓声を上げた。ぼろぼろの小切手はなくしてしまったけれど、それももういい。僕は有頂天になっていて、他の何も目に入らなかった。確かに僕らは気狂いなんだろう。感無量といった様子で僕を抱きしめ返すセデュの笑顔が、朝焼けの光に滲んだ。




