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ウンディーネは月夜に遊ぶ  作者: 咲佐きさ


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8/10

第八話

※今後の展開のため、時代および年齢設定を改定しました。

 青天の霹靂、その3日後、やつの奥さんが別宅に怒鳴り込んできた。

 ——訂正しよう、彼女の名誉のために。彼女はとても理知的だった。食卓で畏まる僕らを前に、理路整然と、やつの今までのキャリア、地位、財産、社会的名声、名誉、それらすべてを擲ってまで男に走るとは正気なのかと、滾々と問い詰めた。ルージュを塗った赤い唇が白い肌に映えて美しい、目の覚めるようなブロンド美女はスキのないかっちりとしたスーツ姿で、ピンと背筋を伸ばして座り、凛として品もあり、彼の奥さんとして申し分ない女性だった。…そういえばこの男、前の彼女もブロンド娘だった気がする。好みがわかりやすすぎる。マジで、ドヌーヴなんてタイプど真ん中じゃあないか。ほんとに何もなかったのかな?

 なんて思考が脇に逸れがちな僕を残して、彼らは平行線の会話を続ける。

 彼女の話を聞く限り、どうやらこいつはバカンス前に一方的に離婚届を突き付けて家を飛び出してきたらしい。…バカなのか。もう少し賢いと思っていたんだけど、これじゃあ拗れるに決まってる。

 彼女からしたら、ある日男娼にたぶらかされた夫が急に家を出るだの別れるだのと、気狂いめいたことを言い出したわけで。正気を疑うのも無理はない。

「また明日、落ち着いて話しましょう」

 と彼女は言って、部屋を出て行った。最後まで彼女は冷静だった、ヒステリックに喚きたてることも泣き落としにかかることもなく。

 賢くて、立派な女性だ。そして多分、まだやつのことが好きなんだろう。

 勝ち目のない勝負には挑まないタイプの僕は、難しい顔で何やら考え込んだあいつを残して、彼女の後を追った。


 夕暮れ時、赤く染まるポプラの木立を歩く彼女を捕まえる。

「ちょっと、話があるんだけど、いいかな」

 少し駆けただけで息を切らす貧弱な僕に向き直り、彼女は長いまつ毛を伏せて頷いた。日の光の下で見ても鮮やかな美女だ。なんとも彼がウラヤマシイ、かつ憎らしい、こんな美人を泣かせるなんてふてえ野郎だ。

「さっき話してたことなんだけど、ええと、何から言ったらいいかな。僕とあいつとは、貴女が考えてるような関係じゃないから。あいつは僕に指一本触れていないし、寝室も別だし、あの、ほんとに、あいつが愛してるのは貴女だから」

 無表情のまま、彼女は僕を見上げる。緑の瞳に夕暮れが映って綺麗だ。

「あいつは僕に同情して、慈善事業? みたいなカンジで、僕を助けてくれただけなんだ。お人好しでさ、騙されやすくてウケるよな。それに僕もさ、あいつが職を失うのは困るっていうか、…金ヅルがいなくなったら、ジゴロは上がったりだよ。あいつと一緒に泥船に乗るつもりなんてないし。金がないなら、あいつとつるんでても意味ないし。だからさ、手切れ金? てやつでさ、手を打たないかい。僕はもう二度とあいつには会わないからさ、貴女にとってもそのほうがいいだろう? 汚い男娼につきまとわれたら、あいつのキャリアに傷がつくんだろ? 公開前の映画がスキャンダルでお蔵入りなんてことになったら、賠償金ていくらくらいかかるんだろうね?」

 話しているうちに脳が火照って来て、言うつもりのないことまで言っていた。うーん、なかなか役者な僕だ。俳優を目指してもいいかもしれない。

「…あなた、お幾つ?」

 彼女はごろつき相手にも冷静だった。

「24」

 としょうじきに答えると、重ねて彼女は聞いた。

「あのひととは、いつから?」

「…半年くらいかな」

 咄嗟に嘘をついたのは、なぜだかわからない。あいつと僕との思い出を、今のクソみたいな僕で、汚したくなかったからかも。

「去年の夏にね、離婚を切り出されたの。その時は、理由は聞かせてもらえなかった。ただ私に謝るだけで。…もうあなたに、会っていたのかしらね」

 彼女はきっぱりとした様子で僕を見上げて、気丈にも涙を堪えて言葉を続ける。

「知っていました。あの人が男しか愛せないって、結婚前からね。でもそれは、私と結婚したくない口実か、気の迷いだと思ってた。だからそれでもいいって、私は言ったの。それでもいいって思えるくらい、あの人は魅力的だったから。…それは今もね、あなたもよくご存知でしょう」

 彼女は見たこともないような金額の小切手を切って、僕の掌に押し付けた。

「もう二度と会わないで、それがあのひとを守ることになるの」



 事務所からクビを宣告された帰り道、バスの中で父さんは無言だった。スポンサーからの誘いを断った後、酒に煙草に女にギャンブルに僕の尽くしてきた悪徳の悉くをすっぱ抜かれ、というかだいぶ盛られて広められ、まだまだ才能に満ち溢れていた僕は、再起不能を宣告された。

 芸能界ってのは、そういうところだ。一瞬の油断が命取りになる。

 多額の負債を負わされて、部屋に閉じこもった父さんはその晩首を括った。

 母さんは悲鳴を上げて失神し、僕と姉さんがふたりがかりで天井の梁から父さんを下ろした。冷たくなった父さんはいやな臭いがして、見開いた眼で僕を責めてた。何も言わない姉さんも同じだ。ただ僕を見ていた。僕の愚かしさを非難するまなざしで。

 お前のせいだ、って嘲笑う声がする。そうだ、何もかも僕が壊した。いつもそうだ。どんなに大切なものも、ウッカリ落として粉々にしてしまう。あいつのことだって。

 だから、そうなる前に離れられるなら、その方がいいに決まってる。

 


 歩き続けていたら、川辺まで来ていた。きらきらと星の光を映して流れる水面が綺麗で、僕は草むらに腰かける。

 渡る風が少し肌寒い、どこか近くで虫の声がする。湿った土に足を伸ばして、僕はゆっくり横たわった。

 青黒い空に、降るような星空だ。街灯がないせいだろう。月の光は見えない。どこかに隠れてしまった。

 胸ポケットの小切手を取り出す。ゼロの数を数えて、これで何年くらい暮らせるかな、なんて考える。10年くらいはいけるかもしれない。無駄遣いしなければ。ただ息をして食べてクソして寝て。毎日毎日それの繰り返しで。

 僕ってなんで生きてたんだっけ。

 さらさらと水の流れる音がする。ウンディーネは水の精だ。熱烈に求愛する男に応えて水から上がり、男と暮らすようになるけど、彼女の奇矯さにウンザリした男は彼女を捨てて、元カノとよりを戻して、それで彼女は、男を殺す。

 さんざんな筋立てだ。救いの一つもありゃしない。

 僕は起き上がり、サンダルを脱ぎ捨て、水面に足を浸す。

 冷たい水が足先に染みる。ぶるりと悪寒が走るが、構いやしない、ざぶざぶと水に入っていく。流れが速くて、何度も足を取られそうになる。腰まで浸かった頃、僕は僕の名を呼ぶ声を聴いた。

「ルー、何をしてる、バカな真似はよせ」

 いつものあいつの声だ、僕を引きずり戻す声だ。

 耳のいい僕には、彼の声が震えているのがわかる。

 駆け回ってきたんだろう、息が切れているのもわかる。

 だから僕は振り返らなかった。

「なんで来たんだよ、台無しじゃないか。一世一代の、僕の覚悟がさあ」

「文句は後でいくらでも聞く、から、水から上がれ」

「いやだね。君に指図される筋合いじゃない」

「強情を張るな、こんなときに」

「強情じゃないよ、前から思ってたんだ。邪魔しないでくれよな」

 あくまで戻るつもりのない僕を引き留めようとしたのか、ざぶんと大きな音を立てて、水に入った彼が近づく。

「ルー、そこは危ない、手を、」

 こんなときまで必死になって、僕を救おうと伸ばされる手に、僕はもう我慢ができなくなった。何もかも吐き出してしまおうと、彼の手をはねのけて叫んだ。

「僕にさわるな! 優しくするな!」

 顔を上げると、一心にこちらを見つめる、彼の目が見えた。

 行き場をなくした腕が、僕のほうに伸ばされたまま、固まっている。

 汗だくになって駆けてきたのだろう、ぐしゃぐしゃの髪と、汚れた上着と、腰まで水に浸かったせいでずぶ濡れになった半身が見える。

 僕のために汗を流して、汚れてくれる君を見て、それで僕は、もうダメだ、とおもう。

 このまま彼の優しさに縋ればまた同じことの繰り返しだ。断ち切らなきゃいけない。

 あいつが大切にしなきゃいけないのは、僕じゃあないんだから。

 そう思ったら、するすると言葉が出ていた。

 ずっと彼に言えなかったこと、隠そうとしていたこと、全部全部、何もかも。

 斬りつけられたように胸がじくじく痛くて、また涙が出た。

 月がなくてよかった。たぶん、彼には見えないだろうから。

 もうこれで全部、オシマイにするんだから。

「もう嫌なんだよ、苦しいんだよ。いつも誰かのものだったくせに。僕だけのものでいてくれたことなんて、一度もなかったくせに!」

 驚愕したように見開かれた彼の目に、水面の反射が映る。

 それ以上見ていられなくなって、僕は水に倒れこんだ。


 星の光も届かない水の中は暗い。冷たさに息が止まり、ごうごうと耳元でひどくうるさい音がする。

 ウンディーネになれない意気地なしの僕は、結局、水底の泡になって消えるくらいがせいぜいだ。

これで罪滅ぼしになるなんて思いはしないけど。父さんも母さんも姉さんも、僕を許してくれるかな?

 水死体って、クラゲみたいに、ぶよぶよにふやけてひどく醜い姿になるんだ。

 そうしたらさすがにあいつも、僕のことなんか思い出したくもなくなるだろう。

 あいつの生活は元通り、奥さんも喜んでハッピー・エンドだ。もっと早くこうすればよかった。僕が臆病だったせいで、決心がつかなかったせいで、いろんな人を傷つけた。

 あいつを諦められなかったせいで。

 ぐるぐると記憶が渦巻いて、あいつの怒った顔とか、呆れた顔とか、…笑った顔とかが、瞼の裏で瞬く。

 そのままだんだん意識が薄れて、僕は濁流に呑まれていった。



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