第七話
控室で、僕は泣いている。僕は5歳、忘れもしない、あのコンクールの日のことだ。
そのとき僕は父さんに何かこっぴどく叱られて、出番前にめちゃめちゃの精神状態だった。控室には出番を終えた子供やこれから舞台に立つ子供たちが順番に行き来していて、ざわざわと落ち着かない。舞台で演奏されているセレナーデが聞こえていたけど、それも僕の心を慰めなかった。いつもなら、音楽に触れていれば、僕は無心でいられるのに、今日に限ってダメだった。
そうこうするうちにどんどん僕の出番が近づく、僕は絶望的な気持ちだった。
父さんはもう出て行ってしまった。僕がダメな子だから。僕が父さんの思う通りに弾けないから。
コンクールで散々な成績だったら、父さんはまた怒るかな。父さんに見放されたら僕はどうやって生きていこう。ピアノももう、やめさせられるかも。
それはいやだな、だって僕には、これしかないんだもの。
僕が父さんを喜ばせられるのは、じょうずに弾けたときだけなんだもの。
泣いていたらどんどん落ち込んできて、がんじがらめになって、身動きもできなくなっていく。
呼吸もうまくできなくなってきて、どうしよう、しぬのかな、なんて思った時だった。
誰かが、僕に近づいてきた。
やわらかな掌が、そっと背中に触れる。
顔を上げると控室には彼と僕しかいなくて、何度か瞬いているうちに、それがあいつだと気が付いた。
コンクールで一度競演したことがある、11歳の彼は、心配そうに僕をのぞき込んで、何度も背中を撫でた。何度も何度も、なだめるように、落ち着けるように、息がしやすくなるように。
「お前の演奏、俺はすきだよ」
「思うように弾けばいい、お前はそれでいいんだよ」
「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。お前のこと、ちゃんと俺が見てるから」
優しい掌と、気遣うような言葉が僕の心に染み入って、僕は彼を見上げて言った。
「ほんとうに? ぼくのこと、みていてくれる?」
「うん、見てるよ」
「いつまで? いつまでみていてくれる?」
「ずっとだ。お前が舞台に立つ限り」
「ほんとうに? ほんとうにずっと?」
「うん。約束する。ずっとお前を見てるから」
「やくそく、わすれないでね、おにいちゃん」
あいつは急きこむように言う僕を落ち着かせて、舞台に送り出した。昔から、困ってるやつを見捨てられないお人好しなんだ。
それで、舞台に立った僕は、なんだか解き放たれたようなきもちで―――もう、好き勝手やった。
羽が生えたみたいに心が軽かったし、ただ楽しかった。
あんなに楽しかったのは初めてだったって、言ってもいいくらい。
その結果、コンクール満場一致の優勝とトロフィーを手に入れ、僕の輝かしくも陰惨な人生がスタートした。
ちなみにあいつは準優勝だ。今やあいつは売れっ子俳優、僕はしがないジゴロだけれど。
人生何があるかわからない。クソ面白くもない僕の教訓だ。
…あいつは忘れているだろうけど。
もう1週間も経つというのに、未だに寝室は別だし、鍵を開けて、何なら扉を開け放っておいてやっているのにやつの侵入の形跡はない。
ある月明かりの晩、いたずら心を起こした僕は忍び足で寝室を抜け出し、あいつの部屋に入り込んだ。
きちんと整ったベッドに、窓いっぱいの月光が差す。
ベッドサイドのランプは消されている。あいつはもう、寝入ったろうか。
乱れ一つない部屋の様子に鼻白む思いで、こっそりとベッドに近づき、カバーをめくる。
空いたスペースに潜り込んで裸足の足先を絡ませると、前髪の被さった寝ぼけ眼がぼんやりとこちらを向いた。
「なんだおまえか」
「ご挨拶だね、夜這いだよ夜這い。もちょっと驚くとかしろよ」
「いま何時だ。…ふざけるには遅すぎる、おまえも寝ろ」
なんだかいつもよりぽやぽやしている。滅多に見られない無防備な彼の様子にムズムズと面白くなってきた僕は向けられた背中に抱き着いて頬を寄せる。
「さむいよーあたためてよー」
「…服に手を入れるな。足も入れるな」
「いいじゃないか、語り合おうよ、おにいちゃん?」
暗くて彼の顔色は見えない。けれど掌に触れた胸に鼓動がどくどくと脈打っていて、そのあまりの激しさに、戸惑った僕は手を離す。
「なんだか悪いことしてる気分」
「おまえがいいことをしたためしがあったか?」
引き抜かれた腕を追うように彼が振り向く。前髪がおりているとなんだか子供っぽく見える、10代の彼を思い出す。
「君の話をしてよ、離れてからのこと」
「…どこから話すか」
「なんで俳優になったの。ピアノはもうやっていないの」
「…やっていない、時間がない。…私には才能もなかったし」
「そんなことはないだろう、現にこの間だって…よかったとおもうよ、僕はすきだな」
「それはどうも」
「もしかして照れてる? へへへ、カワイイやつめ」
「おまえは何なんだ…」
「俳優はたのしい? ピアノより?」
「…考えたことがない。…私にとっては、手段でしかなかったから」
「手段? なんの?」
「…お前をさがすための」
「口説き文句はいいからさ、本当のことをおしえてよ。じゃあ君の奥さんの話をしよう。えっと、前付き合ってた人とは別の人だよね? なんで別れたの。あ、いやなら言わなくてもいいけど」
「…お前に会ったから」
「…」
「…」
「…寝ぼけてる?」
「聞いておいてそれか…」
「じゃあさ、今の奥さんてどんな人なの。どうやって知り合ったの。映画関係の人?」
「…親の紹介で。彼女の父親は、著名なプロデューサーだった」
「へえーすっげえ。それってもしかして、コネ的なヤツ? 君もやるねえ」
「…今の私があるのは彼女のおかげだ。感謝はしている」
「はあーおあついことで。じゃあそんな奥さんに、今の僕らを見られたら相当ヤバイってことだねえ。後悔してないかい? 泥沼に足踏み入れた気分はドウデスカ?」
「後悔はしていない、こうするしかなかった。彼女には話した。離婚のことも…」
「ちょっと待って」
「うん?」
「いま離婚って言った?」
「言ったが」
「…マジで言ってる?」
「…大マジだ」




