第六話
別荘の広間には、グランドピアノがあった。弾いてみるかと問われて、僕は首を横に振って、彼に演奏を強請った。
月明かりに照らされた幻想的な広間で、彼は「8年ぶりだ」とかなんとか言いながら、椅子に腰かけ、息を整えて。
ベートーヴェンの「月光」と、ドビュッシーの「月の光」を弾いた。ベタすぎるけど、彼の大きな掌の下で、奏でられる音はなんだかやけにウキウキと浮わついていて、僕は思わず笑ってしまった。
「君はいつも感情が演奏に乗りすぎる、悪いくせだね」
「三小節目を間違えた。練習すればもう少しマトモに弾ける」
「そういうのはいいんだけどさ、負けず嫌いだなあ、相変わらず」
「お前の弾いた『月の光』は、もっと神秘的で荘厳だった」
「いつの話だよ、適当に言ってるだろ」
「忘れるわけがない、覚えている、ひとつ残らず」
一語一句、聞き洩らされまいとするように、彼は断言する。
…君はいつから、僕のことが好きだったの?
思わず聞いてしまいそうになって、僕は唇を引き結んだ。
翌日は何時間も川辺に釣り糸を垂らして、彼と僕とでどっちが多く釣れるか競争をした。結果は彼の圧勝だった。いや、言い訳じゃないけど、彼は経験者で僕は初めてだったのだからこの結果は当然だろう。僕は途中で退屈してしまって、釣り竿を放っておいて草むらに横たわってずいぶん長く昼寝をした。
日が暮れても目覚めない僕を彼は背負って、今日の成果とともに帰宅し、ハウスメイドは3匹の川魚を捌いてフライにして晩飯に出してくれた。
その次の日は朝市にでかけた。彼は飾り気のない白のシャツにジーンズ、サングラス一つの軽装で涼しい顔をしていたけれど、バレるんじゃないかって僕の方がヒヤヒヤした。
僕は大して服も持ってきていなかったので、彼に借りた少し大きめのシャツに袖を通して、腰のあたりがずり落ちるズボンはベルトで締めあげた。
身長は大して変わらないのに筋肉の付き方が違うせいで、軽装でも様になる彼と並ぶと僕の貧相さは隠しようもない。けど仕方がない、昨日今日の筋トレで長年培ったこの貧弱ボディがどうにかなるわけもなく、そもそもこいつと比べること自体が無謀なのだ。
近所の農園で採れた野菜だとか、果物だとかが並ぶ朝市は早朝から結構な人だかりだった。
活気のある呼び込みや近所の主婦と店主の陽気なやりとり、瑞々しい果実のきらめきに人いきれ、どこからか香るオリーブオイルの匂い。
目が覚めるような明るさに瞬いて、隣の彼を見やれば悪戯っぽい笑顔で、果物屋の店主と交渉を始める。
相場も良くわからないけれど、代金を払う彼を尻目に手に入れた桃のなまなましい肌触りが不思議な感じだ。甘い香りが掌に染み付くようで、うっとりと顔を寄せる僕を果物屋の親父さんは笑って見送る。
他にもいくつか果物を買って、ハウスメイドに頼まれた野菜も買って、荷物を下げた彼と歩いて帰る。
熟れた桃の皮は指先で簡単に剥ける。
現れた血色の良い肌みたいな果肉に齧り付くと、じゅわりと甘い汁が口いっぱいに広がって、芳醇な香りが鼻腔に満ちる。ぽたぽたと肘まで滴る果実の汁に苦戦していると、あいつは「子供のようだな」なんて言いやがった。
「そんなこと言うなら君も食べてみろよ、結構難しいんだぜこれ。ほらあーん」
「また食いかけを…」
「いいだろ、君と僕の仲じゃあないか。こっち側ならまだ大丈夫だから」
「何がだいじょう…」
ぐちぐちとうるさい口に桃を押し当て塞いでやる。渋々といった様子で噛みつく彼の犬歯が白くまぶしい。野性的にかみ砕かれる果肉が断末魔の涙をこぼすようで、それが彼の顎まで滴ってひどくセクシーで、僕は目が離せない。
「垂れてるよ、そこ」
手がふさがっているせいか、無造作に赤い舌でべろりと舐める。滅多に見られないお行儀の悪いしぐさも様になっている。本当に、美形というのは得だ。何をしても彼の生来の気品は損なわれないのだから。憎たらしい男である。憎たらしいついでに脅かしてやろうと、ふざけて顔を近づけるとばね仕掛けの人形みたいに彼は飛びのいた。
「何をする」
「何って何。顎が汚れてるから、舐めてキレイにしてあげようと思ったんだけど?」
「朝から、お前、な、何を言ってる」
珍しくどもっている。動転しまくってるのが一目でわかる。なんだこれ、メチャクチャ面白いぞ。
「だって僕、君に飼われたペットだろう? ご主人様あ、舐めてあげるからこっち来いだワン」
「馬鹿、ふざけるのも大概に、」
「ふざけてないだワーン。クンクン、いい匂いがするワーン。うふふふ、おいしそうだワーン」
「笑ってるだろうが! こら、やめろ!」
「ハハ、アハハ、逃げるなよォ、だらしないぞう、僕って君の愛人なんだろ?」
「公衆の面前ではしたない真似はやめろ!」
「おやじみたいなこと言うなよ、君いくつ? 童貞ってわけじゃあないんだろう? 恥ずかしがるなんてウブなんでちゅね~」
「今度はなんなんだ!」
彼に絡みついていたら家に着いていた。迎えに出てきたハウスメイドに生暖かい目で見られて結構恥ずかしかったのは内緒だ。




