第五話
その翌日、荷物をまとめる暇もなく、僕はトスカーナに発った。荷物といってもトランク一つに下着類を詰め込んだだけの簡素なものだ。季節は初夏、なんなら半裸で過ごしても、何ら問題はない。
街の中心部から外れた小高い丘の上に、その別荘はあった。
埃っぽい外気にオリーブの植え込みが連なり、焼け付く日差しに際立つ白壁の、もとは修道院だったというその建物は、改築を繰り返され富裕層の住まいと化して長いようで、調度も設備も申し分ない、壮麗なものだった。
玄関ホールに下がるばかでかいシャンデリアは何キロあるだろうか、すわヴェルサイユ宮殿かと見まごうロココ調の部屋があれば、ヴィクトリア朝時代の重厚なオーク材で飾られた部屋もある。
調度に関して彼の手は加えられていないらしいが、部屋部屋を行き来するたび感嘆する僕に彼は愉快そうな視線を送っていた。
あいつ自身も、浮かれているフシがあるのだろう。あてがわれた部屋にトランクを放り込んで川遊びに誘う僕に、彼はすぐさま了承した。
低木の沈丁花が揺れる川辺は強い日差しにきらきらとゆらめき、人魚の棲家かと見まごうようなうつくしさだ。
川辺でパンツもシャツも脱ぎ捨てて水に足を浸すと、ひやりとした感覚が体の芯をしびれさせる。
そわそわと落ち着きなく目をそらしている彼を尻目に腰まで水につかると、きもちのよい静けさがシンと抜けていくようだ。
「君もおいでよ、観客は誰もいないよ。僕らだけの聖域だ」
八重歯を剝きだすように笑って彼を振り返ると、一瞬で覚悟を固めたように、彼もがばりと上着を脱いで、肌をむき出しにする。
青褪めたみたいに血色の悪い僕とは違って、健康的な小麦色に日焼けした彼のたくましい胸が露になって、すぐに水に浸かる。
そういえば彼の裸を見るのは15年ぶりくらい、だろうか。青年らしい引き締まった身体は、すっかり大人の男のものに変わっている。病的に痩せて背ばかり伸びた僕とは違う、均整の取れた身体つきだ。なんだかドキマギしてしまって、さりげなく距離を離すと水の中で彼に捕まる。
呼気が近い、濡れたまつ毛が瞬いて、夢のなかにいるみたいだ。
ゆらゆらと揺れながら、時間も忘れて、僕らはただ見つめあっていた。
口づけを交わすにはちょうどよいシチュエーションだったけれど、彼はただ僕を引き寄せて、抱きしめただけだった。
水の中で、どくどくと、彼の心臓の音がする。
あるいは、僕の音か。
どちらでもいい、どちらでも構わない。
過去と今がひとつになって、僕はあの日の兄貴みたいだった彼に抱きしめられていて、彼の心に触れたようで、僕はなんだか、泣きたくなった。
水から上がると、滑稽な格好に笑い合いながら叢で着替えて、濡れた頭のままであたりを散策する。
さわさわと気持ちの良い風が吹いて、湿った肌を乾かしてくれる。丈の高い草に隠れて手をつないで、僕たちは疲れるほど歩いた。
肩まで伸びた髪を掻き上げて雫を垂らすと、彼がまぶしそうに僕を見て言う。
「また髪を、伸ばしてくれないか。子供の頃のように」
「ええー、どうしようかな。けっこう面倒なんだぜ、手入れとかなんとか」
「お前がいいなら、私にケアさせてほしい」
「そんなこと言ったって、君はいつもはいないだろ。使用人だって僕にはいないし」
「お前がそのつもりなら、ここに住んでくれてもいい」
「いきなり重めの本音が出たな。うーん、まあ考えておくよ」
気を持たせるようにニヤリと笑ってやると、なんとか彼は引き下がる。愛人しぐさが、なんだか板についてきたみたいだ。
「それにしても君も物好きだなあ、今に始まったことじゃないけど。僕はもう紅顔の美少年なんてトシでもないんだぜ」
「いくつになっても、お前は美しいよ」
「真面目に言うなよ、この二股不倫色男がよ。ランスロットもびっくりだよ」
「お前はギネヴィアというより、ウンディーネだな」
「告白してきたくせに素知らぬ顔で別の女と結婚した男を殺しに来るの? いやだな、僕はそんな猟奇的じゃないよ」
「お前に殺されるなら本望だが」
手入れもしていない、ぱさついた金髪に指を通して、彼はうっとりと囁く。悪いことなんてしたことありません、みたいな顔で、たらしめいた口説き文句ばかり言う唇を、つねってやりたい。
けどやらない、僕は猟奇的ではないからだ。
彼の愛とやらに、簡単に絆されるバカな男じゃないからだ。
彼を振り回して、ぶん回して、それで金を出させるだけ出させて、それでまあ、彼が飽きて僕のもとを去るまでは、いい暮らしをさせてもらおう。
僕は猟奇的ではないけれど根っからのクズなので、罪悪感はあまりなかった。
多分これも長続きしない。ほんのちょっとの間だけのことだ。
彼もきっといなくなる、僕は知っているんだ。
バスルームにシャボンの泡が浮かんで、ぱちんと弾ける。
ウトウトしていた僕ははっとして、猫足型の浴槽からふいと首を起こした。
ゆっくりと時間をかけて僕の髪を洗っていた彼は、今は…なんだろう? トリートメントかな? 濡れた僕の頭に何か塗りこんでいるようだ。
ぬくまった肌は寒くはないが、泡風呂からつま先だけ出したこの姿勢もそろそろ正したい。首を動かそうとすると、彼の指先が、神経質に僕の頭の位置を直した。
「いやいつまでやってるのさ、時間かかりすぎだろう、僕もうくたびれたよ」
「よく寝ていたようだが」
「丁寧なのはいいけどね、それは何? 俳優の仲間内では流行ってるの? 女優さんとかが付けるようなやつ? 僕に付けても無駄だよ、すぐにくしゃくしゃになるからさ」
「それでもいい、お前はそのままで」
丁寧な指先が何度も僕の頭皮を行き来して、また眠気に誘われる。
何が楽しいのか、いくら時間をかけてもそれが幸せだと言わんばかりに、あいつは僕を手入れする。形を確かめるように頭を撫でられて、ずっと昔、父さんに撫でられた記憶が蘇った。禄でもない記憶だ。僕が父さんの望み通り、従順ないい子でいられたほんの僅かな時期の。
捩じれてしまった僕のかたちを正すように、元あったかたちに戻すように、彼は丁寧に触れる。
丁寧に、傷つけないように、大切な宝物みたいに。子供の頃手に入れた綺麗なガラス玉を宝箱の奥にしまい込むように。ふわふわのウサギにおそるおそる触れた日のように。
捩じれてしまった僕は、そんなふうに扱われるのに慣れていないので、ひたすら困惑するばかりだ。でも僕は、そんなふうに扱われるのが多分嬉しくて、それでいやだなあ、と思う。
離れられなくなったらどうしてくれる。誰が責任とってくれるっていうんだ?




