第四話
翌日、あいつのベッドでぐっすり眠った僕を起こしに来たあいつは、早朝だというのに乱れ一つないスーツ姿で、セールスマンのようないで立ちだった。
ぽかんとする僕が昨日のシャツのまま寝ていたことに気づくと不機嫌そうに何か考えていたが、朝飯もそこそこに僕を街へ連れ出した。
連れていかれたのは銀行で、ぼんやり僕が待っている間に口座をひとつ作った彼は、銀行から出ると口座番号の書かれた紙片を差し出した。
「生活費はここに入れる。引き出して使え。カードはお前の住所に郵送させる」
「えーと、現金のほうがありがたいんだけれども?」
「お前の金遣いの荒さは知っているからな。なくなったらまた連絡を寄越せ」
「君のカードを、僕が持っていていいの?」
「これはお前のために作った」
「なんだか、愛人みたいだな。なんてね、ハハ…」
「…」
「いや無言になるなよ」
「私は、そのつもりだ」
「うん?」
「お前の面倒を見る、お前がまた自活できるようになるまで」
「それってさ、奥さんは知ってたりするの?」
「何故だ」
「なぜって、…」
「これは私の問題だ、彼女は関係ない」
「そういうわけには、いかないだろう、やっぱり…」
思いつめたふうに、紙片を握らせる彼は、真剣なまなざしで、「お前のものだ」と繰り返す。
「受け取ってくれ、…私のために」
反則だろうと思う。こいつにこんなに熱っぽくささやかれて、頷かない女がいるだろうか。いや僕は男だけれども。どちらかというとクズ寄りの、男だけれども。
そんなクズ寄りの僕は、彼のありがたーい申し出を断ることなど、できるはずもなかったのだった。
「じゃあ…キスでもしとく?」
と聞くと、嫌そうな顔をしてぷいと横を向く。わかりやすい拒絶反応に、僕は安心する。こうしてこいつと僕の、愛人契約が始まった。
「お前のことが好きだった、ずっと昔から」
耳元で囁かれて、ぞわぞわと鳥肌が立つ。これは、…あれかな、悪寒というやつだ。昔から知っている、親しかったお兄ちゃん的存在に、性的な目で見られていたと知って、愕然として、絶望? …して、それで出てきた過剰な防衛本能的な、あれだ。
「どういうつもりでそんなこと言うの? 僕をかわいそうだと思ってる? からかってるつもりなの?」
僕は笑いながら怒っていた。そんな人だと思わなかった、僕の苦しいさまを見て、同情してくれとは言わないけれど、そんな、つけこむようなことをする人だったなんて。
見損なった。
僕はそう言ったと思う。笑いながら。多分。よく覚えていないけれど。
「聞かなかったことにしてやるよ。嬉しいだろう? 彼女サンとお幸せにね」
そんなことも言ったかもしれない。多分。笑いながら僕は、すごく怒っていたから。
怒っていた? 僕は怒っていたんだっけ?
もうよく覚えていない。あまりに昔のことで、僕はコドモで、いっぱいいっぱいで、絶望の入口に立っていて、まだまだこれからどんな不幸が舞い込むかなんて、想像もできていなかった頃だ。
ただ、あいつの、見開かれた瞳だけだ。
僕を詰るような、行き場のない思いにがんじがらめにされたみたいなあの目だけ。
目覚めると、埃まみれのベッドで、僕は汗みずくで、カーテンのない窓から月の光だけが静かに足元を照らしていた。
僕はあの時あいつに、本当はなんと言いたかったんだっけ。
あいつのヒモ?になったおかげで、僕はずいぶん余裕のある生活を送れるようになった。…と言いたいところだけれど、まあ、冒頭の僕の様子を見ればそれが嘘だってことはすぐバレるだろう。バレる嘘はつきたくない。というか、そもそも嘘をつきたくない。なるべくなら。
お金の使い方の上手くない僕は相変わらず、入ったその日に派手に散在してあいつに無心して、そんなことを繰り返して約半年、遂にとんでもないことが起こった。
あいつと音信不通になったのである。これは由々しきことだ。何しろ僕には収入のアテがない。自慢じゃないけど、いやホントに自慢にならないけど、家賃も水道代も後回しにしていたものだから退居させられる一歩手前にまでなった。
ハリウッドから帰ってきたあいつにやっと連絡がついて、僕の生活態度を見直させるため乗り込んできたあいつから滾々とお説教を食らって、怒ったあいつは父さんみたいで、売り言葉に買い言葉で僕もなんだかヒートアップしてしまって、いや僕が主に悪いんだけれども、ついつい口を滑らせて、奥さんに知らせてやるぞ、なんて脅迫めいたことを口走ってしまい、…。
考えてみたら、善意で困窮した僕の面倒を見てくれると言い出した彼に対して、僕は何をやっているんだろう。
「フフーン男を囲ってるなんて奥さんに知られたらどうなるかな!? 離婚かな、それとも職を失うかな!? フランスじゃあ大して打撃はないだろうが、世界基準じゃそうもいかないぜ! 君のこれまで積み上げたキャリアもパアだ、ざまあみろ! 何がハリウッドだ、笑わせるなよ!?」
そのハリウッド俳優に食わせてもらっている分際で、僕は堂々と宣った。酒もちょっと入っていた。言い訳にならないけど。人間のクズはここまで落ちられるのである。勉強になるだろう。
「もう僕に構うなよ、放っておいてくれよ、僕のすることにつべこべ言うなら全部奥さんにバラすからな。でも金だけは頂戴、マジで、僕もう、どうやって生きていいのかわかんないんだよ」
最後は泣き落としだった。もう何が何やら、自分でもわからない。あいつは呆れたような顔で僕を見ていたけれど、しばらく何も言わなくて、僕に近づきもしなくて、やっぱりそろそろ見放されても仕方がないな、というか、未だに見放されない理由がわからねえや、と思っていたころ、ようやっとあいつは言った。
「お前は、このままでいいのか」
いいわけがない。
「余計なおせっかいだろう、それはわかっている。お前の生き方に口を出す権利は私には、…いやあるな。結構あるな」
ごもっとも。
「お前が嫌でないなら、この家を出て、私と暮らそう。ゆっくり休養すれば、お前もその、また何か作りたくなるはずだ」
…。
「トスカーナに別宅がある、そこでしばらく過ごさないか。幸い、大きい仕事がひとつ終わったばかりだ。私も共に休める。お前はその、…放っておくと、とんでもないことをしでかすから…」
「ちょっと待って、今なんて?」
「お前は放っておくとまたバカなことをしでかすから」
「おいおいおいさっきより悪化してる! 酷くなってるじゃないかそれ悪口だよね!? ていうか別宅って何!? は!? なんの話をしてるの!?」
「お前と私の話を」
「いやっ…そういうことじゃなくて! なんで僕が君と!? は!?」
「面倒を見ると言っただろう」
大まじめだった。いつもの、ピンと背筋の伸びた、理知的でクールでセクシーな色男だった。
その色男は、僕を熱っぽく見つめて言うんだ。
「まだ囲われる覚悟はできていないか」
できているわけがないだろう。
だって君は既婚者で、僕の幼馴染で、…大昔僕にフラれて、再会しても、僕にキスのひとつもしなかったのに。
半年間も、ただの慈善事業みたいに、僕を救い上げてそのまま、何の成果もなせない僕を、放っておいたのに。
「…僕のこと馬鹿にしてる?」
「なぜそうなる」
「だって君は、別に僕のことなんて、…」
続きは口にできなかった。なぜかはわからないけど、多分、自分がただみじめになるだけだったからだろう。
「お前が嫌なら、何もしない」
彼は念押しするように言って、僕の掌を包み込んだ。
「傍にいさせてくれ」
僕はじわじわこみあげてくるものに必死で抗って、きっと唇を引き結んだ。
真摯な瞳が僕を映して、やけに澄んだその色が、あいつの真剣さを語っていた。
僕はけれども冷静に淡々と、というよりむしろ反射的に、「嫌だ」と言っていた。
姦淫はイケナイとか、ドイツ系の僕の祖先から刷り込まれたからじゃない。
奥さんに悪いからとか、そういう気持ちもその時はすっぽ抜けていた。
愛妻家で知られる彼が、堂々と僕を口説くようなカスなのも、ちょっと引っかかるけどどうでもいいことだ。
僕は多分ここで持ちこたえないと、何もかも失うことになると、そう鋭くもない第六感が告げていたからだ。
ただそれだけだ。
その日に振り込んでもらった生活費は三週間で底を尽きた。
いや、僕にしてはもった方だ。酒場で見知らぬ他人におごったりしなかったし、家賃と水道代も滞納せずに済んだし、映画館であいつの出ている映画も初めて見た。こっちは稀代の美人女優めあてだったけど、有意義に使ったと思う。
それで冒頭に戻る。バカンスの誘いを一蹴した僕に苦虫を噛み潰したような顔で、バーの隅の席で向かい合う彼。
「本当に、客を取るような真似は、していないんだろうな」
どうしてもそれがひっかかるらしい。気になるなら首に縄でもつけて見張っておけよ、逃げ出してやるけど。
「してたらどうなの? 僕の勝手だろう」
「お前がそんな調子だと、話もできない」
「してるだろ、今。…作曲のことは、嘘だよ。頭打ちさ。僕自身にもどうしようもない」
「…あの話は、まだ生きているが」
僕は黙り込む。三週間、たっぷり考えた。
僕が失うもののこと。
才能、はもう枯れた。金も名誉も家族もない。僕が縋っていられるのは、ただひとつ、こいつだけだ。
こいつの、あるのかないのかわからない、本気かどうかもわからない、いつかは必ず消え失せる、愛とかいうやつだけ。
でも、いつか必ず消えるなら、それが今でどうしていけないんだろう?
「行くよ、君と、二人旅…かな? だよね。まさか奥さんと一緒とか、言わないだろう、さすがに」
あいつは信じられないものを見るような目で僕を見て、一転、頬を紅潮させて、こらえきれないように笑った。
汚れない、いとおしいもの、子猫とか、赤ん坊を見るような目で、潤んだ眼尻がいつにも増して、なんというか、かわいらしくて、久しぶりに見た笑顔は、胸がくしゃくしゃになるくらい、きれいだった。
これは、僕が、手に入れてもいいものだったろうか。




