第三話
表に出るとすっかり日は落ちて、吹きすさぶ風が冷たい。町はすっかり夜の装いで、店から漏れる明かりが石畳の道を温かく照らす。彼に腕を引かれて歩きながら、僕は再会の言葉を探していた。久しぶり、元気にしてた? 僕はまあまあ。最近すっかり売れっ子だね、まさか君が俳優になるなんて。君の活躍は知っていたよ、何年も前から。僕も業界の端っこにいたんだぜ、知らなかっただろう。君の出てる映画に、関係したことはなかったけどね。
言葉に出そうとして、酸っぱい胃液を吐き出したばかりの唇が震えて、やっぱり声にはならなかった。
みすぼらしい今の僕の姿を見て、君はなにを思っただろう。
足がもつれて倒れこむ僕を見て、あいつはやっと僕の惨状に気づいたみたいに、慌てて僕の肩を抱いて、…そのあとの記憶はあいまいだ。
気が付いたら僕は閑静な部屋の清潔なベッドに寝かされていて、あいつはぼんやりとベッドサイドのランプを見ていた。
起き上がろうとする僕を助けて、陶器の水差しから磨かれたコップに水を入れ、僕に一口飲ませるとまたベッドサイドに腰を下ろす。
最初に口を開いたのは僕だった。
「…久しぶりだね。覚えているかい? 覚えていなけりゃ僕のこと助けたりしないか。驚いたろう、あんな場所で会うなんて。けどまさか君があそこにいるとはね、いやあ僕も驚いたよ、君はてっきり結婚してもうその気はなくなったものかと、いや変な意味じゃないよ。別に君が男を好きでも女が好きでも僕には関係ないっていうか、あれなんか僕ひとりでしゃべってるな。君、僕のことわかる? 何か言ってよ」
「今までどこで、何をしていた」
「尋問かよ。久々に会ってそれかい。まあいいけどね、僕はあれから、まあいろいろあって、今はパリで寂しい一人暮らしさ。君は? ところでここって君の家?」
「今はマルセイユに。パリには仕事で来ている。ここはホテルだ」
「わお。しがない男娼をホテルに連れ込むなんて、奥さんが聞いたらなんていうだろうね? あ、シャワー貸してくれない。うち水道止められててさ。あと腹が減ったな、何か食わせてくれよ」
「すぐに用意する、着替えも」
鬱陶しく絡む僕に淡々と対処して、やつは僕をバスルームに押し込んだ。
数日ぶりのシャワーに生き返った心地で、バスルームに置いてあった新品らしきバスローブを羽織って部屋に戻ると、ルームサービスなのか、テーブルの上にはサンドイッチやらローストビーフやら、サラダだのケーキだのが色鮮やかに並んでいた。
部屋にあいつの姿はなく、それならばと一脚しかない椅子を占領してサンドイッチを頬張ると、シャキシャキしたきゅうりの新鮮な歯ごたえが口いっぱいに広がる。ぽそぽそと口の中でほぐれるパンを水で流し込んで、手掴みでローストビーフに齧り付き、ケーキについたイチゴのクリームをなめる。
無我夢中で数日ぶりの食事に没頭した僕は、あいつが部屋に帰ってきたのにも気づかなかった。
やっと人心地ついて、指についたクリームをなめていたら咳払いが聞こえ、振り返るとあいつが立っていて、綺麗に折りたたんだシャツとズボンを渡してよこした。
新品らしく、ぴちりと折り皺がついたままだ。礼を言うのもそこそこに汚れた指をバスローブで拭い着替えようと立ちあがると、やつは手を上げて待ったをかけた。
「部屋を出ている、からその間に着替えろ」
「なんだよ今更、子供のころは裸で川で泳いだ仲だろう」
「大人の裸は見ていない!」
なんだか支離滅裂な言葉を発して、あいつは部屋を飛び出していった。バタンと閉じられた扉がむなしい。
気に留めずバスローブを脱ぎ捨てシャツに袖を通すと、腰回りに少し余裕があるがサイズはぴったりだった。ズボンの長さも申し分なし、ちょっと堅苦しいので腕と裾をまくり上げて、もともと来ていた毛玉だらけのサマーセーターはゴミ箱に突っ込んだ。
ドアを開けるとすぐそばにあいつがいて、廊下に一人ぼんやり立っているのがおかしくて、部屋に招き入れる。
「美味しかったよ、君もどうだい。晩飯はもう食べたの?」
「私はいい、もう済ませた」
「そう。それにしては、豪華すぎるよ。こちとら絶食ぶりの食事だぜ、胃袋が小さくなっちゃって、あんまり一度に入らないんだよ。あ、これどうだい。美味しかったよ。君好きだったろう、イチゴのケーキ」
「食いかけを食わせようとするな」
「いいじゃないか別に。ほらあーんして、一番おいしいところとっておいてやったんだぜ。あーん」
いやそうに眉をしかめつつ、開かれた唇にイチゴを転がし入れる。神妙な顔でイチゴを噛んで、唇の端についたクリームを親指で拭い取る。ひとつひとつの仕草が馬鹿みたいに様になっている、さすがは映画俳優といったところか。
「君が俳優になるなんてね。たしかにまあ顔はいいし、スタイルもいいし、僕ほどじゃあないがそこそこモテるし、ガッツもあるし」
「褒めても何も出んぞ」
「そんなことないだろう、現に今、食うものも着るものも出てきたわけだし。あとは住むところかなー」
「今どこに住んでいる」
「パリのはずれのボロアパートさ。家賃もかつかつで、食っていくのが精いっぱい。…知ってたかい、僕まだ作曲しているんだぜ、君も聞いたことあるかも、こういうやつ、聞いたことない?」
数年前に作曲したフレーズをひとくさり口ずさむが、あいつは僕を凝視したまま無反応だ。まあゴーストライターだけど、と呟くとあいつは切羽詰まったような語調で、こちらに身を乗り出した。
「話を付けてやるから、一度事務所に顔を出さないか。まだお前が、その道をつづける意志があるのなら」
「事務所って、映画関係の? 映画音楽の仕事をまわしてくれるってこと?」
「ゴーストライターよりはよほど良い実入りになるはずだ」
「そいつはありがたいな。ぜひとも…と言いたいところだけど」
「何か問題があるのか」
とうとうこの時が来た、来てしまった。
もうどう回り道をしても仕方がない、言うしかないだろう。
僕にはもう才能と呼ばれるものは枯渇してしまった、叩いても捩じっても何も出て来やしない。そのためにすべてを犠牲にしてきた、そのために家族も成功も金も名誉も手に入れてなくしてどん底まで落ち込んでそれでもなんとか生きてきた、僕の唯一の価値と思えるものが。
何もなくなってしまった。
笑って話そうとしたがダメで、話しているうちに枯れたと思った涙が後から後から湧いてきて、ついでに鼻水も出てきて、僕はさんざんな有り様で今の窮状を彼に語った。話してしまった。
堅物で生真面目で、お人好しのあいつが僕を見捨てられなくなることを、わかっていたのに。
「何かできることはないか」
とあいつは言った。
「じゃあお金ちょうだい」
と僕は答えた。
あいつは苦虫をかみつぶしたような顔で、それでも僕を抱きしめてくれた。
久しぶりのぬくもりはいい匂いがして、胸がずきずき痛んだ。




