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ウンディーネは月夜に遊ぶ  作者: 咲佐きさ


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第二話

 僕は子供のころ、神童と呼ばれていた。親とか親戚とかが話を盛って言うアレじゃない。本物の、というのもおかしいけれど、5歳でピアノコンクールに入賞し、6歳で作曲し、7歳になる頃にはテレビで引っ張りだこの超・売れっ子ピアニストだった。自慢じゃないけど。だってその後の僕のていたらくを見れば、それが一瞬のキラメキだったって誰しも想像がつくだろう。

 学業を疎かにして全国ツアー、テレビ出演、雑誌のインタビューに写真集、世界一周の演奏旅行。急激な勢いで話題にされ、愛でられ、消費され尽くして、思春期すぎる頃には僕は飽きられ、世間から完全に見放されていた。

 学校にも行かずにピアノばかり弾いていた僕に常識などあるはずもなく、感受性をはぐくむためだとかで本はたくさん読まされたけど、ギリシャ神話やおとぎ話が社会生活に生かせるわけもなく、没落していく僕のさまに耐えられなかったおやじは借金を残して自殺し、もともと身体の弱かった母さんは僕がハタチになる前に死んだ。まじめな優等生だった姉さんは行方知れずで、絵にかいたような一家離散。笑っちゃうような転落人生だ。

 それでもほそぼそと作曲なんかして、ミュージシャンのゴーストライターとかして食いつないできたけど、ちょうど2年前、僕をさらなる試練が追い詰めた。

 今までは、目覚める前に天から降りてくるようだった作曲が、まるでできなくなった。

 僕の生きていくためのよすがだった才能が、たったひとつの縋るべきものが、なくなってしまった。

 24時間シャワーを浴びたり、倒れるほど歩き回ったり、寝たり起きたり酒を飲んだり、なにをしてもだめだった。

 生きてる限り、金はどんどんなくなるし、腹は減るし腹は減るし腹は減る。

 羽振りのいいときに使いまくったせいでクローゼットの中だけはいっぱいだけれど、冷蔵庫も財布のなかみもカラになって途方に暮れた僕は、ふらりと夕暮れの街に出た。

 足早に退勤する人や幸せそうな恋人同士が行き交うパリの街は、赤く染まってどぎついくらいで、空腹も相まってめまいのようなものに襲われた僕は、ふらふらとベンチに腰掛けた。

 季節は秋で、風に吹かれたポプラの葉が足元でかさかさ音を立てている。黄ばんだ葉は、足で踏みしだくと簡単にばらばらになる。なんの力も入れていないのに、崩壊して二度ともとには戻らない。

 ぞっとする。

 僕は腕を抱えてまた立ち上がった。足早に、人並みにまぎれるように歩きながら、ふらりと一件のバーに立ち寄った。薄汚れたドアに書かれた店名はかすれて読めない。扉を開けると煙草の紫煙がむわりと襲い、薄暗いバーの中には腕をむき出しにした男たちがたむろしていて、入ってくる僕をじろりとねめつけた。

 カウンターを避けて照明の当たらない席に座ると、薄青い照明の下で男たちの低い笑い声が響く。後ろ暗いことでもあるのか、顔つき合わせて小声で話し合う男たち、でっぷりと太った男はそばかすのある少年を膝に乗せて酒を飲んでいる。

 店の奥は一段高くなっておりピアノもある。今は誰も舞台に立ってはいないが、ここでちょっとしたコンサートも、できないわけではなさそうだ。

 商売柄、舞台の様子をしばらくぼんやり窺っていると案の定、白服のピアニストが舞台袖から現れて挨拶もなく席に就き、指慣らし程度の簡単な曲を奏でだした。

 つづけて金髪にロングドレスのガタイのいい男が現れ、マイクの前でジャック・ブレルを歌いはじめる。

 すすり泣きのようなテノールに堪え切れず、僕は席を立つとトイレに向かった。なんだか胸がむかむかして、吐きそうだった。何日も、何も食べていなかったのに。

 やはり胃液の他は何も出ず、水道の水を出しっぱなしにして顔を洗う。北側にあるトイレの中は気温が低く、冷水に触れる掌がふるえる。濡れネズミになった鏡に映る僕はひどい顔色だった。唇なんて青紫だ、笑える。ほんとに死ぬんじゃなかろうか。

 ぼんやり鏡を見ていると、トイレに駆け込んできた若い男と目が合った。茶色い髪の、健康そうな青年だ。シャツの袖を腕まくりして、なんだかそわそわしている。僕なりに気を遣って、早めに退散しようとしたら、そいつに腕をつかまれた。

「50でどう?」と媚びたような上目遣いは、芸能活動をしていたころに何度も見た覚えのあるものだった。

 どうも奇妙だと思っていたけれど、このバーはどうやら、「そういう嗜好」のある男たちのための店だったらしい。店中眺め渡しても女性の姿がなかったのがその証拠だ。

 女の子が好きな僕は今まで経験がなかったけれど、男性同士で、その、そういうことをする人たちもいる。何度も誘われたこともある。数えきれないくらい、とは言わないが、まあそれなりに顔の整っている僕は、中身が知られなければわりとモテるのだ。

 僕の凋落のきっかけを作ったのが、大企業のおっさんの誘いを断ったことだったのも、今から考えれば皮肉なめぐりあわせだ。

 けれど、腹が減って気持ちが悪くて吐きそうで思考力も生命力も落ち込みまくっていた僕は、何も考えずに男の導くままに従っていた。とりあえず一瞬ガマンすれば、大金(今の僕にとっては)が手に入る、僕のアタマにあったのは、それだけだった。

 そのまま流されてどん底に落ちて、性病にかかってジ・エンドになる道もあったはずだ。

 その時、あいつに再会しなければ。



 売れっ子俳優であるあいつが、あの時なぜその店にいたのか、その理由を僕は知らない。

 知らなかったことにしている。だってなんか面倒くさそうだし。

 

 後ろからべろべろ首筋をなめてきていた気色悪いナメクジみたいな男の舌を感じなくなったので、いよいよアレかと覚悟していたが、ソレは一向にやってこなかった。

 何気なく振り向くと、汚らしいトイレの床に伸びている男の姿があった。

 かわいそうに、何が起こったのかわからないぽかんとしたバカ面で、鼻血も出ている。これは当面起きないだろう。舐められた慰謝料?としていくらか拝借していこうかな、と屈みこもうとした僕の肩を、誰かが強くつかんだ。

 顔を上げると、びっくりするような美貌が眼前にあった。目を見開いて、僕をじっと見つめているその目が一瞬涙で潤んで、僕は思い出したのだ。

 10年前に見た、あの瞳の色を。



 そいつは僕より6歳年上で、家が近く、毎年同じピアノコンクールに出ていた。優勝を競い合った仲間で、友達で、幼馴染だ。一度も僕に勝てた試しはなかったけれど、がむしゃらになって何度でも挑みかかってくるあいつは、面白いやつだった。

 大昔は貴族に連なるらしい、由緒ある出自のあいつは、ばかでかい屋敷に使用人と一緒に住んでいて、僕は何度も遊びに行ったものだ。

 芸能活動に忙しくなって家を空けがちになるまで、僕はあいつを実の兄のように慕っていた、と言うといいすぎかな。親戚の兄ちゃんくらいの感じで、慕っていた。

 僕の芸能活動が頓挫して、引きこもった僕に会いに来たあいつが、トンデモナイ告白をするまで。

 

 そのころ僕は15歳で、女の子の味も知っていたし、振ったり振られたり二股三股四股かけたり、まあなんというか、ひととおりの経験は積んだと考えていたマセガキだった。    

久しぶりに会いに来たあいつは、大学の休暇を利用して帰省していると話していた。まっとうな人生を歩んで、これからもまっとうに生きていくであろうあいつが、落ちぶれはじめのそのころの僕にはまぶしかった。

 クソガキだった僕は結婚秒読みの彼女がいるなんて話をあいつから聞き出して、あいつのことをからかって、僕の経験自慢がはじまって。…

 なんのきっかけだか覚えていないが、クソキモイおっさんに誘われて断ったら嵌められて、なんて話までしてしまったんだった。

 当時、僕のことを取材する記者も耐えて久しく、誰かに自分の受けた理不尽を語り尽くしたいなんて青臭い思いもあったのかもしれない。

 話すうちにあいつの顔色がどんどん青ざめて、かと思えば真っ赤になって、サインポールかよ、と思いながら面白く見ていたら、俯いたあいつが言ったんだ。

「お前のことが好きだった、ずっと昔から」

 いや、どう考えても告白する流れじゃあないだろう。

 僕は女の子が好きだから男はムリ、と今言ったばかりなのに。

 気が動顛した僕は、冗談だったことにして、聞かなかったことにするから、とあいつに笑ってやった。

 人を気遣えるマトモな部分もまだあったんだ、あの時は父さんもまだ生きていたし、…。

 あいつは表情を消して、ガラス玉みたいな目玉で僕をじっと見ていた。何かを言いたかったのかもしれない。それとも、何も言う気にならなかったのかな。

 その時の、張り詰めたような表情と、綺麗なアーモンド型の赤い目が、僕の心臓に染み付いたのだ。


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