第一話
銀行の残高が遂に三桁を切った。
僕は明細を眺めてため息一つ、ゴミ捨て場からかっぱらってきた部屋の大きさにそぐわないソファにだらりと両足を投げ出し、まぶしい日差しに目を細めた。
僕の名前はルーシュミネ・リーヴェ、26歳、無職。そろそろ限界かもしれない。
擦り切れたソファは僕が身じろぎするたびにぎしぎし耳障りな音を立てる。
なけなしの腹筋を利用して起き上がると、僕は椅子の背にぶらさがったままの上着を羽織る。こいつは僕が羽振りの良かったころに買ったコートで、グレーのファー付きだ。もこもこしていて着心地がいいしウン十万もするだけあって毛皮がへたってこない。
預金二桁の人間が着るには不相応な品だと、憤る人もいるだろうが知ったこっちゃない。こちとら自分の才能で稼いで買ったんだ。まあ今はこれくらいしかぜいたく品のない身分だけれども。
酒瓶の散乱したテーブルを漁って鍵をつかみ出すと空になった瓶が床に落ちたが、まあ帰ってきたらなんとかしよう。人間ってものは、あまりに散らかった部屋にいるとそれが当たり前になって重い腰を上げて片付けようという気にはなかなかならないものだ。
そんなわけで僕は広くもない部屋の床の空き瓶の隙間を縫って玄関ドアにたどり着くと、扉を開けて午後の日差し輝く屋外に出た。
こんなときに頼るのは、今の僕には一人しか思いつかなかった。
公衆電話の薄汚れたガラスを引き開け、ジーンズのポケットを探って小銭を探す。指に触れた固まったしわくちゃの紙きれを引っ張り出して掌の熱で伸ばすと、四角張った几帳面な字体で電話番号が書かれてある。
ようやく見つかった1フランコインを泣く泣く挿入口に差し込み、紙面に書かれた番号をダイヤルする。何度かの呼び出し音の後、疑わし気な男の声が出た。
「アロー、僕だよ。この間はありがとう。ちょっと会って話したいんだけど、時間はあるかな?」
三週間ぶりに聞くやつの声は畏まって不機嫌だった。まあそうだろう、子供のころにこっぴどく振られた幼馴染に大人になってからつきまとわれて、嬉しいもの好きはいないだろう。
けどこっちも簡単に引き下がってはいられない。何しろ今日の晩飯にも事欠くありさまだ。なりふりかまっていられないとはまさにこのことだ。
「僕のたのみを断るような君じゃないだろう、この間の場所で待ってるよ。4時でどうだい? ウン、じゃあまたね」
しぶしぶと言ったふうの了承を取り付けると受話器を置いて、ガッツポーズだ。これで当面の生活費はなんとかなるだろう。脅しまがいの行為に胸が痛まないわけじゃないけど、仕方がない。こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際なんだから。
午後4時、パリの路地裏にあるバーの奥まった席で待つ僕を、やつはすぐに見つけた。
長身に黒のチェスターコートがよく似合う。サングラスは変装のつもりだろうか。豊かな黒髪に整った目鼻立ち、顰めた眉すら様になるこの男は場末のバーにいても目立つ。カウンターに屯している柄の良くない連中が振り返ってひそひそしている。それもそのはず、こいつは今パリで知らぬ者はいない売れっ子の映画俳優だ。セデュイール・レヴォネ、32歳の男盛りで既婚者。子供はいないらしいが、据えた匂いの染みついたこんな店には不釣り合いな手合いだ。
「話とはなんだ。こんな場所に呼び出して、まだ出入りしているのか、ここに…」
席に着くなり腹立たしさを隠そうともしない低い声でまくしたてる。これは相当ご機嫌ななめだ。僕は傷だらけのグラスを取り上げのどを潤すと、頬杖ついて上目遣いでやつを見上げた。こちらの有利にことを運ぶには時には下手に出るのも必要。僕の長くもない社会経験で得た知識だ。活用できた試しはないけど。
「三週間ぶりに会うっていうのに、ご挨拶じゃないか。もっと優しい言葉のひとつもかけてくれないかい。こっちは君と違って仕事を選べる立場にないんだぜ」
「だからといって、身売りなど淫売のすることだ。断じて看過できん」
「まあそれはいいじゃないか、未遂で終わったんだし」
「私が止めなければどうなっていたか、考えたことはあるのか。第一お前は…」
またいつものお説教が始まる流れになったので、僕は手を挙げてバーテンダーに目配せした。酒の飲めないこいつはいつもコーヒーだ。しかも砂糖を目いっぱい入れたやつ。いつか糖尿になったら笑ってやろう。
「それで何の話だっけ? 君の次回作は、ハリウッドの超大作だったっけ?」
「大して興味もないだろう、無理に話を広げるな」
「そんなことはないさ。幼馴染が活躍してくれて僕も鼻が高いよ。そうだアレ観たよ、ドヌーヴと出てたやつ。いいよなあ、役とはいえラブシーンまであって。撮影中ヘンな気起こしたりしなかったかい。ムラムラしちゃったりとか」
「仕事に私情は挟まない」
「そうかい? 奥さんはなんて言ってるの。旦那さんがブロンド美女とラブシーンなんてさ、平常心で映画館に行けるものかね」
「…」
やつの怒気を孕んだ雰囲気が、シュンとなる。好機だ。ここぞとばかりにたたみかける。
「実はさ、ちょっと今月懐が厳しくてさ。なんとか融通してくれない? ほんのちょっとでいいんだけど」
「幾らだ」
「話が早い。えーと、このくらい?」
僕は三本指を立てて、反応を見ながらもう一本増やす。
「わかった。話はそれだけか」
「マジで!? いやあ、さすが売れっ子は違うね。君のギャラからしたら雀の涙みたいなモンなんだろうな」
「なんだそれは」
「日本の諺」
「…お前、仕事は」
「まあぼちぼちね」
「書いているのか」
「んーまあ、はい」
「…」
黙ってしまった。気まずくなってテーブルに目を落とす。過去のアレコレだの、最近のアレコレだのをネタにこいつを恐喝するのもこれで何回目だろう。そのたび律儀に駆けつけて、僕の体たらくを叱りつけて、お願いしたものの倍くらいの額を振り込んでくれるこいつに、ぶら下がってなんとか生きてるゴミみたいな人間、それが僕だ。
なんだか自己嫌悪で死にそうだ。死なないけど。生きるけど。
テーブルについたグラスのシミを指で伸ばしている僕をじっと見ていたやつは、何か言おうと口を開いて、また閉じた。
どうにもできない、いつまでつづくかわからない。
このどうしようもない、スランプとかいうやつ。




