あの時君に告白しなかったら
人生の後悔することランキング1位は学生時代好きな人に告白しなかったことらしいですね。
美咲が死んだのは、水曜日だった。
そのことを知ったのも、やはり水曜日で、私は会社の休憩室でスマートフォンの画面を見詰めていた。高校の同級生だった田中からのLINEには、簡潔すぎるほど簡潔に書かれていた。「美咲が亡くなりました。お通夜は金曜日です」。
コーヒーカップを持つ手が震えた。隣で雑誌をめくっていた同僚が振り返る。
「大丈夫?顔色悪いよ」
「ちょっと、知り合いが」
そう答えながら、私は十五年前の記憶を辿っていた。
高校三年の秋。私と田中と美咲は、いつものように放課後の教室に残っていた。受験勉強という名目だったが、実際には他愛のない話をしていることの方が多かった。
美咲は窓際の席に座り、夕日を浴びて数学の問題集を解いていた。田中は私の隣で、大学のパンフレットをぱらぱらとめくっている。私は英単語帳を開いていたが、美咲の横顔ばかり見ていた。
「ねえ、卒業したらどうなるのかな、私たち」
美咲が突然そう言った。問題集から顔を上げて、私たちを見る。
「どうって?」田中が答える。
「今みたいに、三人でいられるのかな」
田中は大学に行く予定だった。私も同じ大学を受験するつもりでいた。美咲だけが、地元に残って働くと言っていた。
「会えるよ。休みの時とか」
私はそう答えたが、美咲は首を振った。
「変わっちゃうよ、きっと。新しい友達ができたり、恋人ができたり」
その時、田中が立ち上がった。
「変わらないよ」
彼は美咲に歩み寄ると、突然キスをした。
私は息を止めた。美咲は目を見開いて、それから田中を押し返した。
「何するの」
「好きだから」
田中の声は震えていた。
「ずっと好きだった。卒業する前に、言いたかった」
美咲は私を見た。助けを求めるような目だった。でも私は何も言えなかった。自分も美咲が好きだったから。そして田中がそれを知っていることも、分かっていたから。
それから一週間、私たちは気まずい時間を過ごした。美咲は田中を避けるようになり、田中は私に何度も謝った。私は二人の間で板挟みになった。
そして、あの水曜日がやってきた。
美咲の通夜会場で、私は田中と十五年ぶりに再会した。彼は私よりも早く到着していて、受付の近くで手持ち無沙汰に立っていた。スーツを着た彼は高校時代よりも太っていたが、相変わらず人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「久しぶりだな」
田中は私の手を握った。その手は昔よりもずっと大きくて、ごつごつしていた。
「本当に久しぶり」
私たちは美咲の遺影を見上げた。写真の中の美咲は、高校時代よりも大人びて見えたが、あの頃と同じように微笑んでいた。
「綺麗だったんだな、やっぱり」
田中がぽつりと言った。
「今も、綺麗だよ」
私は答えた。そして、聞かずにはいられなかった。
「あの後、美咲と話したの?」
田中は首を振った。
「卒業式の日に、一度だけ。でも、ちゃんとした話はできなかった」
私も同じだった。美咲とは卒業後、年賀状のやりとりが数年続いただけだった。
焼香を済ませた後、私たちは会場の隅で話した。田中は地元の建設会社に勤めていて、五年前に結婚したと言った。私は東京で出版社に勤めていて、独身だった。
「美咲のこと、ずっと気になってた」
田中が言った。
「あの時、ひどいことしたと思って。でも、謝る機会もなくて」
「美咲は怒ってなかったよ、きっと」
私はそう答えたが、本当のことは分からなかった。
美咲の母親が私たちに気づいて、近づいてきた。
「あら、雄太くんと健一くん。来てくれたのね」
母親は私たちを高校時代の名前で呼んだ。
「美咲が、よくあなたたちの話をしていたのよ。高校時代が一番楽しかったって」
私と田中は顔を見合わせた。
「最後まで、結婚しなかったの。『いい人がいないの』って言って。でも本当は、誰かを忘れられなかったんじゃないかしら」
母親の言葉に、私の胸は痛んだ。田中も俯いていた。
通夜の後、田中と私は近くの居酒屋に入った。久しぶりに二人きりになって、最初は昔話をしていたが、やがて美咲の話になった。
「あの時のこと、覚えてる?」
田中が聞いた。
「水曜日のこと?」
「そう」
私は覚えていた。鮮明に覚えていた。
あの水曜日、私は美咲を呼び出した。田中と美咲の間に起こったことを、どうにかしたかった。学校の裏山の公園で待っていると、美咲は少し遅れてやってきた。
「ごめん、遅くなって」
美咲はいつものように笑っていたが、その笑顔はどこか作り物のようだった。
「田中のこと、どう思ってるの?」
私は単刀直入に聞いた。
「どうって?」
「好きなの?」
美咲は首を振った。
「友達としては好きよ。でも、それ以上は」
「じゃあ、僕は?」
その質問が口から出てしまった時、私は自分でも驚いた。美咲も驚いていた。
「雄太のこと?」
「僕も美咲が好きなんだ。田中と同じように」
美咲は困ったような表情を浮かべた。
「二人とも、大切な友達よ。それを壊したくない」
「友達のままじゃ、だめ?」
私は首を振った。
「だめだ。もう、友達のままでいるのは無理だよ」
美咲は泣きそうな顔をした。
「どうして?どうしてこんなことになっちゃったの?」
「分からない。でも、君を見てるだけで苦しいんだ」
私は美咲の手を取った。
「僕を選んで」
美咲は手を振り払った。
「選ぶなんてできない。そんなこと、できるわけないじゃない」
そして彼女は走り去った。私は追いかけなかった。
「あの後、美咲と話した?」
居酒屋で、田中が聞いた。
「ううん。君は?」
「僕も」
私たちは黙り込んだ。そして田中が言った。
「僕たちが美咲を追い詰めたんじゃないかな」
「どういう意味?」
「選択を迫って。僕たちのどちらかを選べって」
私は何も答えられなかった。
美咲の葬儀の翌日、私は一人でかつての母校を訪ねた。土曜日だったので生徒たちの姿はなく、校舎は静まり返っていた。
三年生の時の教室を探して、窓から中を覗いた。机の配置は変わっていたが、私たちが座っていた場所を思い出すことができた。美咲の席は、相変わらず窓際だった。
「あの時、もし僕が何も言わなかったら」
私は独り言を呟いた。
「美咲は今も生きていただろうか」
美咲は三十歳の時に病気で死んだ。癌だった、と母親が言っていた。でも私は、美咲が心の病気も患っていたのではないかと思っていた。私たちに選択を迫られて、結局誰も選べずに、一人でいることを選んだ美咲。
彼女は本当は、私たちの友情が続くことを願っていただけだったのではないか。
校舎の裏手に回ると、美咲と最後に会った公園が見えた。あれから十五年が経っても、公園はほとんど変わっていなかった。滑り台も、ブランコも、私たちが座ったベンチも、そのままだった。
私はベンチに座って、あの日のことを思い出した。美咲の泣き顔。振り払われた手の感触。そして、彼女が走り去る後ろ姿。
もし、あの時違う選択をしていたら。
もし、美咲の気持ちを最優先に考えていたら。
もし、三人の友情を守ることを考えていたら。
でも、もしもの話をしても意味がない。美咲はもういない。私たちの青春も、あの水曜日に終わったのだ。
東京に帰る新幹線の中で、私は田中からのメールを読んだ。
「昨日はありがとうございました。久しぶりに会えてよかったです。美咲のことを話せて、少し楽になりました。今度は、もう少し明るい話をしましょう。また連絡します」
私は窓の外の景色を見ながら、返信を打った。
「こちらこそ、ありがとうございました。美咲の分まで、幸せになりましょう」
送信ボタンを押してから、私は美咲への謝罪の言葉を心の中で呟いた。
「ごめん、美咲。君の気持ちを考えずに、勝手なことばかりして。でも、君のことは忘れない。一生忘れない」
新幹線は東京に向かって走り続けた。私は目を閉じて、美咲の笑顔を思い浮かべた。あの頃の、屈託のない笑顔を。そして思った。
水曜日は、もう二度と来ないのだと。
でも、記憶の中では、いつまでも水曜日のままなのだった。美咲が生きている、あの水曜日のままなのだった。
どっちが正しかったかなんてわからない。思い出すのは後悔ばかり。
爽やかでもなんでもない後味の悪さ。
それが青春の1ページなのかもしれませんね