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後  編

 その日の午後遅く、モーリッツは王太子の執務室を訪れた。中等部に入学したときから8年にわたって侍従として務めてきた彼には、それが日課である。


 執務室では、王太子のアルノルトがデスクに向かい、大量の書類を不機嫌そうに片付けているところだった。実はアルノルトはシュトライヒ侯爵令嬢にご執心なのだが、父親であるシュトライヒ侯爵に婚約を働きかけているにもかかわらず一向に進展がないため、近頃はずっと機嫌が悪い。


 モーリッツは、アルノルトの前に立つと、やや硬い口調で切り出した。


「どういうことですか、殿下。打ち合わせは完璧に済ませているとおっしゃったではありませんか。ヒルデガルトは何も知りませんでした」


 アルノルトは書類から視線を上げずに答える。


「ハウスクネヒト嬢は、性格的に演技などできないだろうと思ってな。知らせないほうが、傍目から見て真に迫ったものになるかと考えたのだ」

「あの茶番に、迫真の演技なんて必要ないではありませんか!」

「本音を言えば、そのほうがおもしろそうだと思っただけだ。それから君に対する嫌がらせだな。リア充爆発しろ、というやつだ」

「……はあ、そうですか。……いやしかし、そんなことのせいで、ヒルデを泣かせてしまったなんて!」


 モーリッツの声に、アルノルト殿下は初めて書類から顔を上げた。わずかに目を見開く。


「え? 泣いた? 彼女がか? 意外だな」

「ヒルデはいつも強気ではありますが、ああ見えてとても純真なんです。なんでも素直に真に受けてしまいます。あんなふうに泣きじゃくって……。本当に可哀相に。泣いている姿も可愛かったですけど。かなりショックを与えてしまったようで、僕も胸が痛みましたよ。まあ、僕に嫌われたと思ってあんなに泣いてくれるなんて、愛されているなと嬉しくもなりましたが。とにもかくにも、どうか二度とヒルデをこういうことに巻き込まないでください!」


 モーリッツが熱弁している間に、執務室の扉がノックされ、数年前から側近を務めるテオバルトと、数ヶ月前に側近となったばかりのディートリヒが入室してきた。


「あれ? モーリッツがキレてるとか、珍しいな」


 テオバルトが面白そうに言う。


「どうしたんですか?」


 ディートリヒが生真面目な様子で尋ねる。


 モーリッツは、二人にも中庭での寸劇について簡単に説明した。


 むすっとしていたアルノルトは、手元の書類を机の上でトントンと揃え、それを「処理済」と表記された書類入れに落とした。するとモーリッツが、「未決」と書かれている書類入れから数十枚の書類を取り出し、アルノルトの前に置く。


 ちなみに、モーリッツが抗議している間も、アルノルトは書類に目を落としては、サインを記入したり、指示を書き出した付箋を付けたりと、淡々と処理を進めていた。一方で、モーリッツは「処理済」の箱から書類を手に取り、作業机に持っていくと、提出する部署ごとに手際よく振り分けていた。二人とも、会話と事務処理とを完全に切り離してそれぞれを同時に進めるという共通の特技がある。


 モーリッツは、手元の書類に目をやりながら、再び口を開いた。


「殿下、僕は殿下の侍従ですから、僕に対して日頃から何かとこちらの負担など考えもせずに平気でしょっちゅうむちゃくちゃな指示をなさるのは、仕方ないことと許容できます。ですが、ヒルデガルトに変な真似はしないでください! 彼女を傷つけるような真似は、絶対に容認できません!」


 普段の彼からは想像もつかないほど強く感情のこもった口調に、アルノルトは書類から目を離し、片眉を上げて軽くモーリッツを睨んだ。しかし、その眼差しにはいつもの冷たい威圧感はなく、どこか探るような色があった。


 テオバルトとディートリヒは、二人のやり取りを物珍しそうに眺めている。


 アルノルトは、しばらくモーリッツを見つめた後、意外な言葉を口にした。


「わかった。善処しよう」

「え? で、ででで殿下? どーしちゃったんですか?」


 モーリッツは、アルノルトからのまさかの返答に、完全に面食らった。


「不満なのか?」


 アルノルトが、再び書類に視線を戻しながら、不機嫌そうに問う。


「そそそそんなことはありません。ありませんが、殿下がそのようにおっしゃるとか、これまでにないことですから、リアクションに困っただけです」

「そうか……。ところで君は、来年、卒業と同時に侍従の職を辞してハウスクネヒト嬢と結婚し、領地の運営に回るつもりだと、ハインライン伯爵に言っているそうだな?」


 アルノルトが唐突に話題を変え、モーリッツは予想外の問いに戸惑う。


「なんですか、藪から棒に……」

「どうなんだ?」


 アルノルトは、書類にペンを走らせながら、有無を言わせぬ調子で尋ねた。


「……その予定でいます。殿下の侍従を務めるのは卒業までの約束と父から聞いておりますし、それ以降は自分で決めるようにと指示されましたので……」

「ふむ、では、そうだな、来年と言わず、来月にでも侍従を辞めていい」


 アルノルトの言葉に、モーリッツは「は?」と間の抜けた声を漏らし、ポカンと口を開けた。アルノルトは、そんなモーリッツに構うことなく、不機嫌そうに続けた。


「なんだ、嫌なのか?」

「いえ、そういう訳でなく、あまりに思いがけなかったので驚いただけです」

「そうか。ではどうする?」

「殿下が許可してくださるのでしたら、そうしたく存じます……」


 モーリッツは、まだ事態を把握しきれていない様子で答えた。


「では決まりだ。陛下と伯爵には、私から知らせておく」

「ありがとうございます。でしたら明日にでも早速、授業のコースを領地経営に変更して──」


 モーリッツが嬉しそうに先走ると、アルノルトはそれを遮った。


「いや、それは必要ない」

「え?」

「そのまま官吏コースだ。経営学、経済学、社会学は絶対にA以上の成績を取るように。それから法学を新しく加えておけ」


 アルノルトの指示は、モーリッツの予想とは真逆のものだった。


「はい? ええと──」


 モーリッツが困惑している間に、アルノルトはさらっと続けた。


「再来月から、君も側近に加えることにする」

「謹んでお断りします!」


 モーリッツは反射的に主張した。自身の甘い計画が崩れ去る危機感を覚える。


 アルノルトはペンを置き、モーリッツを真っ直ぐに見据えた。


「ハウスクネヒト嬢に迷惑をかけなければ、君は私のどんな指示も受ける、と先ほど言ってなかったか?」

「言ってません! 解釈違いかと思われます! とにかく僕は、再来年から田舎でのんびりヒルデとイチャラブ生活を送るつもりで──」


 モーリッツは必死に抗弁する。


「却下」


 アルノルトは、冷ややかに一言で切り捨てた。


「私はまだエルフリーデと結婚どころか婚約まで辿り着いていないのだぞ。君に甘い新婚生活など送らせるつもりなどない」

「ちょっ……そんな!」


 執務室には、モーリッツの悲鳴のような叫びが響いた。


 その傍らで、テオバルトとディートリヒはそれぞれの席に着き、とばっちりが来ないよう、何事もなかったかのように自分の仕事を始めるのだった。


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