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中  編

 馬車寄せで下ろしてもらうと、ヒルデガルトはいそいそと中庭へ向かった。


 王立ラインフェルデン学院は、初等教育から高等教育まで多様な学科を擁する格式高い総合制学校である。現在、ヒルデガルトは高等教育課程の一年生だ。入学から一ヶ月が過ぎ、学院生活にもすっかり馴染んだ頃合いだった。


 初等部、中等部、高等部と敷地が分かれているため、数ヶ月前までは立ち入るのも難しかった高等部の校舎内を、今は堂々と歩けるのが嬉しくてたまらない。加えて、憧れの生徒会にも関与できるようになった。


 ヒルデガルトには、初等部五年生の時からの婚約者がいる。親同士が決めた家の都合による婚約ではあるが、彼女は婚約者のモーリッツ・ハインラインがとにかく大好きだ。初めて引き合わされた時に、彼を自分だけの「王子様」と認定して以来、機会があれば、いや、自ら機会を作ってでも彼に会いに出向いた。モーリッツが多忙で時間が取れない時には、彼の姿をこっそり見るためだけに敷地を越えて忍び込むほどだった。貴族令嬢にあるまじき行為だが、一度など、中等部と高等部の間にそびえる3メートルの高さの鉄柵をよじ登ったことすらある。


 そのモーリッツは現在、高等部4年生で、生徒会長を務めている。学院には、婚約者が生徒会役員の場合、その手伝いをするという慣習があり、ヒルデガルトも晴れて生徒会室に出入りできるようになったのだ。事務仕事自体は特に好きでも嫌いでもないが、モーリッツに会えるというだけで、毎回胸を躍らせて訪れている。


 今日も、始業前に手伝ってほしいことがあると、昨日のうちにモーリッツから中庭に来るよう伝言を受け取っていた。毎週金曜の一時限目は全校集会だから、その準備だろうと見当をつけた。集会そのものは正規の役員だけで回すので、事務の手助けしか役目のない自分がなぜ必要とされるのか、という疑問はモーリッツに会える喜びの前にかき消されていた。


 中庭にはすでに多くの生徒が集まっていた。集会場所である講堂がその先にあるので、入口が開かれるまでの待機場になっているのだ。馬車寄せの渋滞を避けるため、早めに登校する者は多い。始業時間までを潰すため、生徒たちは思い思いに過ごす。


 中庭は、常緑樹と色とりどりの花々が配された心地よい空間だ。中央には丸テーブルとチェアがいくつも並び、花壇の隙間を縫うように伸びる小径沿いにはベンチが点在していた。ガーデンファニチャーはいずれもバラをモチーフにした華やかなデザインで統一されており、これもヒルデガルトのお気に入りだ。


 中央のテーブルの脇に、目的の人物の横顔を見つけた。モーリッツだ。栗色のさらさらとした髪に、優しげな緑の瞳。少し垂れ気味の目元と、常に口角が上がった弧を描く口元が、彼の柔和な雰囲気を際立たせている。実際、彼は驚くほど穏やかで優しい人物だ。


 さらに、現王太子の侍従という、貴族家の未成年男子としては最高の栄誉も授かっている。ただ、その職務ゆえに多忙を極め、自分よりも遥かに長い時間を王太子と共に過ごしているため、ヒルデガルトとしては王太子にひっそりとヤキモチを焼くこともあった。


 声を掛けようと一歩踏み出した時、モーリッツの向こう側に、見慣れない少女が立っているのに気が付いた。ストロベリー・ブロンドの髪をした、儚げな雰囲気の少女だ。二人はやけに近い距離で親しげに話をしている。ヒルデガルトはなんとなく嫌な感じがして、立ち止まってしまった。


 ふと少女がヒルデガルトに気付いた様子で何か告げ、モーリッツがこちらを振り向いた。目が合うと、途端にどこか緊張したような表情になった後、視線を逸らす。それをヒルデガルトが不思議に思っていると、二人が近づいてきた。


 ヒルデガルトから1メートルほどの距離をおいて、二人は立ち止まる。そして突然、モーリッツの張りのある大きな声が周囲に響いた。


「ヒルデガルト、君との婚約は破棄させてもらう!」


 ヒルデガルトは頭の中が真っ白になった。理解が追いつかず、フリーズする。


「なぜ……ですか、モーリッツ様」


 やっとの思いで、震える声でそう問いかけた。するとモーリッツは、大袈裟に溜息をつく。


「私が君の悪行を知らないとでも思っているのか? 君はルイーゼに嫉妬するあまり、ひどい嫌がらせをしていたそうだな」


 すかさず返された冷たい声音に、ヒルデガルトの身は強ばる。まるで別人のようなモーリッツの声に、心臓が冷たくなっていくのを感じた。婚約者からはさらなる罪状が述べられる。


「ルイーゼの悪評を流した」

「ルイーゼの教科書をゴミ箱に捨てた」

「ルイーゼを噴水に突き落とした」


 モーリッツが高らかにあげつらう内容は、どれもこれも身に覚えのないものだった。なにより、突然の状況に思考が追い付かない。ヒルデガルトは、目の前の現実を受け入れきれずにいた。


 一方で、モーリッツの傍らに立つ少女は、か細く震える声で訴えた。


「モーリッツ様……私、本当に辛かったんです……」

「ルイーゼ、なんと可哀相に……」


 モーリッツは、そのルイーゼの肩を抱いて、憐れむような声音で言った。


 ヒルデガルトは、そんな様子を見ながら、モーリッツと視線が合わないことに気づいた。いつも自分に向けられていた、優しくふんわりとした笑顔がない。あるのは、妙に冷たい、強ばった顔だけだ。それだけで、これほどまでに心細くなるものなのかと、胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 いつもはどんな時も強気なヒルデガルトが、今にも泣き出しそうな顔になる。それに気付いたのか、モーリッツは明らかに狼狽えた。冷たい表情を消し去り、ヒルデガルトまでの数歩をいきなり詰め寄る。


「ヒルデ、どうかしたの? ……ひょっとして具合が悪い? すぐに保健室に行こう」


 そう言って、モーリッツはいつものように優しくヒルデガルトに手を差し伸べた。彼の顔には心配する様子が窺えるが、つい今し方自分を断罪していた人物だ。混乱したまま、その手をただ振り払った。モーリッツは、驚いて目を見開く。


「こんなのはあんまりです。あなたがこんな卑劣なやり方をなさるだなんて思ってもいませんでした」

「え? ヒルデ、聞いていないの?」

「何をですか? この婚約破棄についてですか?」


 ヒルデガルトは、努めて冷静な声で問い返した。頭の中は混乱していたが、貴族令嬢としての矜持でかろうじて自分を保つ。


「破棄するならするで、きちんと手順を踏むべきではありませんか。このように、やってもいないことで嫌疑を受けるなど、我が家の不名誉となりますから、私とて甘んじて受け入れる訳には参りません。後日、ハインライン家に正式に抗議いたします」


 ヒルデガルトの、普段からは考えられないような涙声に、モーリッツは顔色を変えた。


「待て待て待て。ヒルデ、違う、誤解だ!」


 モーリッツの慌てぶりに構わず、ヒルデガルトは追い打ちをかける。


「言い訳は結構です。婚約の破棄について、詳しくは父とお話しなさってください。それからそちらの、ルイーゼさん? 家名を名乗っていただけますか? あなたの家にも抗議しますので」


 ヒルデガルトの冷たい視線が、モーリッツの傍らに立つ少女に向けられた。少女は「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、怯えきってモーリッツの背に隠れようとした。


 実際、ヒルデガルトが怒りを顔に表すと、自他共に認める悪役令嬢面はかなりの迫力をもつ。常であればカンペキに隠しきるのだが、この時はショックと混乱で、そんな余裕も無くしている。


 モーリッツはさらに慌てふためき、二人の少女の間でオロオロし始めた。


「ヒルデ、彼女はルイーゼだよ? ルドヴィカ・ヒューゲル。僕の従姉妹だと、前に紹介したよね?」

「ルドヴィカ様は、髪色が栗色だったかと記憶してます。モーリッツ様とそっくりのお色でしたからよく覚えてます」


 ヒルデガルトの冷静な指摘に、モーリッツは勢いよく首を縦に振り、すぐに今度は横に振る。


「いや、これウィッグだよ。ほら、こういう話のヒロインはたいていピンク色の髪だから、そうするようにと言われて」


 モーリッツの言葉に促されたのだろう、ルイーゼと呼ばれた少女は、ささっとストロベリー・ブロンドのウィッグを取り外した。現れたのは、ヒルデガルトの記憶通りの栗色の髪だった。


「ヒルデガルト様、私です、私。ルドヴィカです。先月、お会いしましたよね?」


 ルドヴィカは、どこか引き攣ったような笑顔をみせた。しかし、ヒルデガルトの表情は変わらない。


「それでは、ヒューゲル家に抗議いたしますね」


 ヒルデガルトは淡々と告げた。その言葉に、モーリッツが顔色を変える。


「や、やめて、ヒルデ! 抗議しないで! ルイーゼはテオバルト様の婚約者だよ!? あの人、軽薄そうに見えて、実はルイーゼにぞっこんだから、僕が愛称で呼ぶだけで『ちゃんとヒューゲル嬢と呼べ』とか、いちいちイチャモンつけてくるくらいなんだ。万が一にも抗議なんかしたら、どんな仕返しされるか……って、そうじゃない!」


 モーリッツはそこで言葉を切り、背後にいた他の生徒会役員たちを振り返った。彼らもまた、ヒルデガルトの予想外の反応に固まっているようだった。


「どういうことですか!? 手筈は整えたと言っていましたよね! ヒルデもこの小芝居を承知しているのではないのですか!?」


 モーリッツの詰問に、生徒会役員の一人がどもりながら答える。


「はい、あの、いえ、その、ハウスクネヒト嬢にはすでに説明がされていると、お達しが来てまして……」

「……あの方のせいか……」


 モーリッツは絶句した。それからゆっくりと空を仰ぐ。


「何をお考えになっているんだ。……ああ、そうか。昨日、家に帰してもらえなかったのは、このせいか。いや、ホント、なんのため? 何を狙ってのことなのか意味不明。いや、それは置いておいて……」


 モーリッツが、ヒルデガルトの両肩をガシッと掴んだ。


「ヒルデ、僕が婚約破棄などと言ってたのは、ただのお芝居だからね!」


 モーリッツは必死になってヒルデガルトに訴えかけた。


 ここ最近、健気なヒロインがヒーローの愛を勝ち得て、立ちふさがる悪役令嬢をヒーローと共に断罪し、一方的に婚約破棄するという、過去に人気のあった歌劇の焼き増し的な内容の小説が世間で大流行し、その影響で実際にいくつかの婚約が解消されるという事態が発生していた。そういった愚かな真似をしないようにという、啓蒙のための寸劇だった。昨日急に上からの指示があり、生徒会が突貫で企画したものだったのだ、と。


 必死な様子のモーリッツと、慌てた様子でそのとおりなのだと頷く生徒会役員に対して、ヒルデガルトはしつこく確認を重ねた上で、ようやく納得した。ホッとした途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れて、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。


「ヒルデ、どうしたの?」

「だって……モーリッツ様から……嫌われたのだと思って……私……」


 しゃくりあげながら、涙が止まらない。顔はぐしゃぐしゃになり、声も震えていた。


「ごめんね、ヒルデ。君は承知していると聞いていたんだ。本当にごめん。泣かないでよ」


 モーリッツはヒルデガルトを優しく抱き寄せて、その豊かな金髪を撫でて慰めた。


 そうしているうちにようやくヒルデガルトも落ち着き、少し恥ずかしそうに顔を伏せた。


「ごめんなさい、取り乱してしまって……」

「ううん、僕が悪かったんだ。本当にごめん。嫌な目に遭わせてしまったね」


 モーリッツはもう一度優しくヒルデガルトの頭を撫でた。その手の温かさに、ヒルデガルトは安心感を覚えた。


 ところで周囲には、多くの生徒が集まっており、二人の様子は大きな注目を集めていた。しかし、モーリッツとヒルデガルトは、周囲の好奇の視線などまったく気付かずに、ただただ互いの存在だけを感じているようだった。生徒たちがざわめく喧騒の中庭にあっても、透明な結界が張られたかのような、二人だけの世界が生まれていた。

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