砥石
砥石をといでいると、声をかけられた。
「よう、やってるな」
私はその声に反応せずに砥石をといでいる。足元には細かくなった石の粉が舞っている。
気が付くと、声をかけた人間はいなくなっていた。気まぐれにやってきたものらしい。
かまわず私はといでいく。もう誰も邪魔する者はいなくなった。
砥石をといでいる時だけ、無心になれる気がしていた。
刀をとぐ時は違う。
それは直接的な用途と紐づいている。それをとぐ時、私の心はいやでも穏やかではいられなかった。
砥石をとぐ時は違う。それは準備のための準備であって、目的のための助走ではない。そのことが、私をこの行為に向かわせていた。とげばとぐほど、心はほぐれていった。
あるときふと我に返って、といでいた砥石を眺めてみた。
私の砥石は、以前よりもずいぶんと小さくなっていた。私がよく力を入れる箇所は、他のところよりも心なしかへこんでいた。
それを見た時、私の良心が痛まなかったかといえば嘘になる。
この砥石は、こう使ってしまってよかったのだろうか?
このきめ細かな石の本当の用途を考えた時、私のしたことは、空費に近いものなのではないだろうか?
「よう、また来たぞ」
入り口に、人間が立っていた。今度は反応する気持ちが芽生えていた。
「なんだこりゃ。ほこりだらけだ」
友人は足元に注意しながらこちらに進んでくる。空気も心なしかくぐもっていた。
私は答えない。しかし以前と違って、手も動いてはいなかった。
「ほれ見ろ、この刀。ひどいもんだ」
友人は脇にどけてあった刀を取り出した。刀は以前のような艶やかな光を失い、鈍く沈黙している。
「なんでこうなっちまったんだ」
とうとう友人はあたりを片付けだした。その散らかりように我慢ができなくなったらしい。
私には、それを止める気力もなかった。
手元にはへこんだ砥石がたたずんでいた。