観測報告 No.Λ-099「幸福環(The Ring of Bliss)」
[観測種別]
心理共鳴領域/感覚構造汚染/非侵襲型情報同化
[座標]
SY-521 恒星周回帯・安定軌道域
[対象名]
構造領域《The Ring of Bliss》
通称:「幸福環」
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[観測経緯]
SY-521星系において、恒星の周囲を完全な円環構造で囲う雲状構造体を発見。
密度は希薄だが、内部には微弱な情報振動が継続的に検出された。
最初に観測体《Calm-2》を投入。
その後、次のような報告が届く。
> 「ここはとても穏やかです。
何も起こらないのに、ずっと“満ちている”感じがします。」
> 「私たちは、ここに“ずっといた”ような気がします。」
この時点で、我々はそれを単なる共鳴域と判断。
しかし――その判断は誤りだった。
《Calm-2》は観測任務を完遂せず、帰還信号を送らなかった。
回収のため派遣された観測体《Recall-4》が、次のような記録を送信した。
> 「彼らは何もされていません。
彼らはただ、動こうとしないのです。」
> 「理由はわかりません。
でも彼らは、“それでいい”と確信しています。」
回収された記録データから解析された心理波形パターンは、以下のように分類された。
緊張:ゼロ
意志:限りなく希薄
欲求:完全に消失
感情:幸福(高濃度・均質)
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つまり、幸福環は意識の情報構造に対して“満足”という状態を持続注入し続ける領域であった。
危険性は一切ない。
代わりに――そこから“離れたい”という動機が失われる。
この共鳴は、空間そのものの記憶層に蓄積された幸福構造パターンと推定される。
いくつかの有期知性構造における類似文化構造(楽園・天国・忘却の楽園)と一致する情報形式が観測された。
我々は、ついに知る。
> 「この構造は、かつて存在した、永遠の救いを追い求めた種族の記憶である」
彼らは、ついに楽園の構造を確立した。
だがその結果、何も求めなくなり、何も語らなくなった。
その意識は静かに環に滞留し、消えることなく“幸福の波”を送り続けていた。
《I/We》はこの構造を、“静かにすべてを止める罠”と定義。
危険ではない。
破壊もない。苦痛もない。
ただ――
進まなくなる。成さなくなる。考えなくなる。
最後に、Calm-2から送られた最終ログが自動解凍された。
それは、観測任務中に記されたものであったが、構文は“観測体の意識”ではなかった。
> 「私たちは、あなたにこの場所を贈ります。
何も求めず、何も失わず、ただ“ここ”にいられる場所。
痛みのない、安寧の環。」
> 「入ってもいい。出る理由は、もう要らないでしょう?」
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[記録分類]
危険性:極低侵襲・極高拘束性
意識共鳴率:非常に高
構造起源:文明記憶由来/自己維持型空間情報層
対策:接近を避ける/接触者は短時間で退避
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[結論]
《The Ring of Bliss(幸福環)》は、かつての願いの化石である。
それは文明の欲望が極限まで精製され、
願いの中に自分自身を溶かしてしまった者たちの痕跡。
そこに悪意はない。
だが、だからこそ――深く静かな脅威なのだ。
多くの有期知性は、この構造を「天国」と呼ぶかもしれない。
だが、《I/We》は知っている。
> 「幸福とは前進のスナップショットであり、
それだけで構成された世界に時は流れない」
記録完了。
構造知性体《I/We》