第6話 ピアノの旋律と心の動揺
結局、長女と三女は食事の場には現れなかった。
「まぁ、俺が勝手に夕飯作っただけだしな」
使用済みの皿を洗いながら、一人で呟きを溢してみる。
今、キッチンには俺一人しかいない。キッチンと面したリビングにも、人影一つない。
天才たちは自室にこもって、自主トレを行っているという。すでに夜も深くなり、眠気すら覚え始めるであろう、こんな遅い時間に……だ。
「これで終わり、と」
食器を籠の中に立てかけ、濡れた手をペーパータオルで拭く。
さて、これからどうしようか。
二葉から浴室の位置は教えてもらってるので、今からシャワーを浴びに行ってもいいんだけど……その前にひとつ、やるべき事がある。
「掃除の成果を報告せんとな」
俺がこの家に泊まる条件。
家を新居同然に綺麗にすること。
二葉には問題ないとお墨付きをもらったけど、肝心の長女さんにはまだ確認してもらっていない。あれからずっと部屋にこもってるみたいだし、仕方ないと言えば仕方ないのだけど。
「確か、部屋は二階だったかな」
キッチンを出てリビングを通過し、階段を上って二階へ。部屋が四つほど並んでいるけど、今回用事があるのは一番手前の部屋だ。
扉の前で足を止め、軽くノックをする。
「すいません、今大丈夫ですか?」
『…………』
返事はなし。そういえば、二葉が姉妹の自室は防音処理が施されているみたいな話をしていた気がする。ピアニストだったりゲーマーだったりするから、家族への騒音被害を減らすための処置なんだろう。
もしかしたらノックの音が聞こえていないのかもしれない。
少し考えた後、俺はそのまま扉を開く事にした。
「すいません、掃除が終わったんですけ――」
直後。
俺は思考を失った。
いや、その表現は正確じゃない。
突然聴こえてきたピアノの旋律が、俺の思考の全てを支配したのだ。
曲調を拙い言葉で表現するなら、とにかくドラマティック。それでいてどこか切なく、生真面目な印象を受ける。
支配されたのは思考と耳だけじゃない。
俺の視線の先、この旋律を奏でている張本人。
天才ピアニスト、天王洲一夜。
彼女の指の一挙一動、その全てから目を離す事が出来なくなっていた。
「…………」
一夜さんは一言も発さない。ピアノを演奏する彼女もまた、音楽の世界にのめり込んでしまっている。
曲に込められた感情を音色に乗せて奏でていく。悲壮感、努力、そして……孤高の精神。
俺は、この曲を聴いた事がある。
それは、幼い頃に母さんが一度連れて行ってくれたピアノのコンサート。そこで奏でられていた曲の名は――
「テンペスト……」
「っ!?」
じゃーん! という不協和音が部屋中に響き渡った。
予想もしていなかった衝撃に、俺は思わず飛び上がってしまう。
「わっ!?」
「あ、あなた、いつからそこにいたの!? そもそも、部屋には入ってくるなと言ったでしょう!?」
真っ赤な顔で怒る一夜さん。まったくもって彼女の言うとおりである。
「い、いや、掃除が終わったんで、その確認をしてもらおうと思って……」
「それなら、ノックをして呼び出せばいいでしょう?」
「ノックしたけど気づいてくれなかったじゃないですか」
「……え、ノックしたの?」
「しましたよ」
「…………ごめんなさい。全然気づかなかったわ」
まさか謝られるとは思わず、呆然としてしまう。
そんな俺に構わず、一夜さんはピアノ用の椅子に座ったまま、
「そういえば、あなたさっきこの曲の名前を言っていたわよね?」
「え? ああ、そうですね。昔聴いた事があったんで」
「そう。有名な曲ですものね、テンペスト」
「はい。でも、昔聴いたものよりも凄くて、つい聴き入っちゃいました」
母さんに連れて行ってもらったコンサートも凄かったけど、一夜さんの演奏とは比較にすらならない。高校生とは思えない圧倒的な演奏力。音楽に詳しくない俺が圧倒されてしまうほどに、彼女の演奏は素晴らしかった。
「天才ピアニストとは聞いてましたけど、まさかこんなに凄いとは思ってませんでしたよ」
「ふん。これぐらいできて当然よ」
「へぇ……たくさん練習してきたんだなあ……」
「っ。……私が練習? 天才ピアニストの、この私が?」
何故か知らないけど、声に不穏な色が乗っかっていた。何か気に障るような事を言っただろうか……?
「二葉が言ってましたよ。寝る間も惜しんで練習してるって」
「あの子、勝手な事を……」
一夜さんは溜息を吐きながら、
「それで? 天才サマが泥臭い努力をしていたと知って、失望した?」
「え、何で失望するんですか? 普通に凄いと思いましたけど」
「……は?」
ぽかーん、としか言えない驚きの表情を浮かべる一夜さん。
「俺、あんまり長続きしない質なんすよね。だから毎日練習できる人って、素直に尊敬します。しかも、天才って呼ばれながらもそこに甘んじる事なく、より上を目指してるんですよね? 凄いとしか思えませんよ」
二葉が授業中もゲームをしているのも、ゲームの特訓の一環だったように思う。少しでもサボれば実力が落ちるから、どんな時間も無駄にせず、自分の才能を磨こうとする。きっと、その一点にすべてを注ぐことができるからこそ、彼女たちは天才だと言われるのだろう。
――なんて、ちょっとカッコつけた事を考えてみたり。
「って、すいません。なんか偉そうでしたよね。凡人の俺から褒められたって、流石に嬉しくないか」
「……そ、そうよ。偉そうに。私を褒める人なんて星の数ほどいるんだから」
「ですよねー。はは、すいません」
機嫌を損ねてしまった! まずい、追い出されるか……っ!?
「あ、あのそのえっと……そう、掃除! 掃除の成果を見てくれませんか!?」
「……分かったわ。準備するから、部屋の外で待っておいて」
「イエス、マム!」
これ以上機嫌を損ねないように、俺は慌てて部屋の外へと出ていくのだった。
★★★
「何が素直に尊敬します、よ……」
うるさい客人が部屋から出て行った後、私――天王洲一夜はピアノの鍵盤を見つめていた。
私は天才ピアニスト。幼い頃からそう言われてきた。
もちろん、褒められた事なんて一度や二度じゃない。褒められすぎて数える事すらやめたぐらいだ。
でも……努力する私を褒めてくれた人は、あの男が初めてだった。
「凡人のくせに……」
ずっと音楽に関わってきたから聴力には自信がある。絶対音感を応用すれば、人間の声色を聴くだけでそれが嘘かどうかぐらいすぐ分かる。
さっきの誉め言葉には、嘘もお世辞も含まれてなかった。
純粋百パーセント。
心から、彼は私を褒めたのだ。
「……何でこんなに嬉しいのよ」
顔が熱い、心臓が早鐘を打ったかのように脈動している。
ふと、ピアノを見てみる。正確には、漆黒の鍵盤蓋に反射して映った、自分の顔を。
ニヤケ面の自分が、そこには映っていた。
本当に調子が狂う。
あの男の顔が、頭から離れない。
『凄いとしか思えませんよ』
「~~~っ!」
これは何かの間違いだ。きっと、そう。
だって、私が凡人にときめくだなんて、絶対にありえないのだから。
【あとがき】
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