第62話 三女の後悔
「……さて、と」
深呼吸の後、扉をノックする。ベッドの中の彩三にも聞こえるように、それなりに強めの力で。
『……誰?』
「俺だ。軽めの食事を持ってきた。入ってもいいか?」
『どうぞ……』
彩三からの返事があったので、ゆっくりと扉を開いて入室する。
中に入ると、予想通り、ベッドで横たわる彩三がいた。
「センパイだぁ……」
「調子はどうだ?」
「もう大丈夫ですよ……とは言えないですね……めちゃくちゃきついです……」
「寝てるところを起こしてしまったんならすまん」
「いえ、ちょうど目が覚めたところでした……えへへ……」
にへら、と力なく笑う彩三。彩三は昔からそんなに風邪を引いた事が無いと言っていた。だからこそ、たまの体調不良がめちゃくちゃきついんだろう。身体が慣れていないのだ。
お粥の入った器の乗ったトレイを机の上に置き、椅子を引き寄せてベッドの傍に腰を下ろす。
「こういう時はしっかり休んで治さないとな。もう飯食うか? それとも他に何かしてほしいこととかあるか?」
しまった。病人に向かってこんなに一気に質問を投げかけても負担になるだけだろ。いつもならそれぐらい簡単に気遣えるはずなのに、どうも今日の俺はおかしい。
……いや、原因は分かっている。
サポーターとして彼女の体調管理ができなかったこと、そして倒れていた彼女を数時間も放置する羽目になってしまったこと。
そのすべてが、俺の心を追い詰めている。
「おなかは……まだへってません……あ、でも……」
「なんだ?」
「汗がすごくて……からだがべたべたするんですよね……」
布団を持ち上げ、身体を見せてくる彩三。薄手の部屋着は汗でぐっしょりと濡れていた。対策としてシーツの上に更にタオルを敷いていなかったら、部屋着以外もぐしょぐしょになっていたかもしれない。
彩三はシャツの裾を持ち上げて俺にお腹を見せながら、
「汗、拭いてくれませんか……? 自分で拭ければいいんですけど……今、からだがすごくだるくて……」
「……分かった。タオル、借りてもいいか?」
「えへへ、いいですよぉ」
いつもだったら拒否し、一夜さんか二葉に任せるところだ。
だけど、今回は俺が看病をすると言った。ならば、どれだけ恥ずかしいことであっても、俺がやらなくてはならない。
衣装箪笥の引き出しからタオルを、そして着替えを取り出し、彩三にそっと近寄る。
「起きられるか?」
「それぐらいなら……よっ、と……」
ゆっくりと体を起こそうとする彩三。俺は彼女の背中に手を回し、起き上がりを介助する。
「ありがとうございます……えっと……服、脱いだ方がいいですよね……」
「最低限でいい。俺に裸を見られるのは嫌だろ?」
「……ほんと、センパイは鈍いですよね……でも、お気遣い、ありがとうございます……」
そう言うと、彩三はシャツを脱ぎ、上半身を俺にさらけ出してきた。見えてはいけないところが見えてしまいそうになり、俺は慌てて目を逸らす。
「自分の手で隠しておくので、その間に、拭いてくれませんか……?」
「あ、ああ。そこに着替えを置いておくから、拭き終わったら着替えておいてくれ」
「センパイが着替えさせてくれても、いいですよ……?」
「……こんな時にからかうなよ」
むしろ、こんな時だからこそからかってくるのかもしれないけど。
俺は意を決して、彼女の汗を拭き始めた。
「ひゃっ……」
「だ、大丈夫か?」
「は、はい。ちょっと、くすぐったくて……」
俺が汗を拭きとる度、彩三の口から吐息が漏れる。触られるのはあまり慣れていないのか、それとも他の理由があるのか、煽情的な声が漏れ出ると同時に、彼女の身体がぴくんと跳ねていた。
俺は俺で、理性を保つので必死な状況だ。彩三のやけに色っぽい反応もそうだけど、日焼け跡のある褐色の肌がとても綺麗で、ついつい目が奪われそうになってしまう。小柄でありながら筋肉質の体も、いつものかわいらしさとのギャップがあり、意識したくなくても意識してしまう。
(煩悩退散煩悩退散煩悩退散。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏――――ッ!)
家族に対して邪な感情を抱くなど言語道断。
俺は必死に頭の中で念仏を唱えながら、ようやく彼女の背中を拭くことに成功した。
「……ふぅー」
「ありがとうございます」
「ほ、他に、気持ち悪いところとか、あるか?」
「えっと……じゃあ、お腹と、脚と……」
「……もしかして、全部か?」
「あはは……汗をたくさんかいちゃってて……すいません」
「……いや、謝らなくていい。俺が全部拭いてやるから」
絶対の煩悩を表に出すな。
神経を作業にのみ全集中させ、余計なことを考えないようにしろ。
「それじゃあ、前を拭いていくぞ。きついとは思うけど、胸とかは隠してくれると助かる」
「センパイ、おっぱいフェチなんですかぁ……?」
「ノーコメントでお願いします」
「あはは……センパイ的に、あたしのおっぱいって、どうですかぁ……?」
「……魅力的だと思うよ」
「そ、そこはノーコメントじゃないんですね……」
「だって事実だからな」
俺は人を褒める時に遠慮だけはしないと決めているのでね。
って、だから余計なことを考えちゃダメなんだってば。
とにかく今は、彼女の汗を拭くことだけに集中しないと。
「……はぁ……」
「…………」
「ふふっ、くすぐった……」
お腹を、そして胸の下あたりを拭いていく。彼女の口から発せられる吐息は完全に無視だ。
胸を通り過ぎ、鎖骨の辺り、そして首回りも拭いていく。
「ひとに、こんなに体を触らせるのって、お母さん以来で……恥ずかしいですね……」
「やめるか?」
「いえ……大丈夫です……次は、下をお願いしてもいいですか……?」
「お、おう」
布団を持ち上げ、彼女の下半身をさらけ出す。重りから解放された彩三はいそいそとズボンを脱ぎ、下着一枚になった。
彼女が身に纏うのは、動きやすそうな薄布一枚。スポーティな見た目が彼女の印象ととてもマッチしていた。
「えへへぇ……センパイに裸、見られちゃってる……」
「……変な性癖を開花させるなよ」
「そ、そんなことしません……で、でも、あたしの脚にセンパイが触れてるの……ドキドキ、します……」
「だから目覚めるなって」
看病しに来たはずなのに、どうして俺は理性の危機にさらされているんだろう。
熱でぼーっとしているせいか、いつもよりおしとやかな彩三。火照った身体と零れる吐息のせいで、妙に煽情的に見えてしまう。おまけに下着一枚という過激な彼女にタオル越しとはいえ触れているのだから、意識するなという方が無理な話だ。こんな状況で何も感じずにいられるほどの精神力があるのなら、俺は凡人なんてやっていないと思う。
バキバキに砕けそうな理性に無知を打つこと数分。
俺はようやく彼女の身体を拭くミッションを達成した。
「ありがとうございます、センパイ」
「こ、これぐらい、お安い御用だ」
湿ったタオルをとりあえず机の上に置き、彩三の方に背中を向ける。今、彼女は俺が差し出した部屋着に着替えている最中だ。いくら裸を見たとはいえ、女の子の着替えを凝視するような真似はしたくない。
「ふぅ……着替え終わりました」
「そ、そうか。じゃあ、またゆっくり休んでおくんだぞ。お粥も……冷めちまってるから、後でまた新しいのを持ってくるよ」
「……あの」
「どうした?」
「もうひとつだけ、お願いしたいことがあって……」
「何でも言ってくれ」
俺の理性が壊れないようなことであれば。
「じゃあ……あたしが眠くなるまで、一緒にいてほしいです」
「……それだけでいいのか?」
「はい……風邪だからか知らないですけど、一人だと寂しくて……」
「分かった。彩三が寝るまではここにいるよ」
「……手も繋いでくれませんか?」
「お、おう」
再びベッドに横たわった彩三の手を、そっと握る。小さな手だけど、その熱は俺のそれよりも圧倒的に高い。ふざけた様子を見せている彩三だが、やっぱりかなりきついのだろう。
「えへへ、センパイの手、おっきいです……」
今にも壊れそうなほどに儚く微笑む彩三。
風邪で苦しむ彼女に対してこんなことしかできない自分が情けなくて仕方がなかった。
「……センパイ」
「なんだ?」
「試験、受けられなくて……ごめんなさい……」
脈絡のない、突然の謝罪。
今の彼女に会話を組み立てる能力はない。
だからこそ、心の中にある感情を、思い立ったらすぐに吐き出してしまうのだろう。
「何で俺に謝るんだよ」
「だって……センパイがせっかく、勉強を教えてくれたのに……」
「俺がやりたくてやったことだから。それに、試験を受けられなかったのは彩三のせいじゃないだろ」
「あたしのせいです……体調管理もできないなんて、アスリート失格です……」
失敗経験および体調不良から来る自己肯定感の欠如。
天才ゆえに挫折の経験が少ないであろう彼女にとって、今の状況は相当に堪えているらしい。
「センパイの時間をたくさん奪っちゃったのに……あたし、ほんとダメですよね……」
「そんなことは……」
「あんなに褒めてくれたのに……挑戦すらできなくて……陸上も続けられなくなっちゃって……あたし、なんで、いつも……」
言葉が途切れ途切れになっているのは、嗚咽が混じり始めているから。
溢れた涙が頬を伝い、枕にシミを作っていく。
「あたし、ダメです……センパイが、あんなに……うっ、ひぐ……なんで、なんであたし……!」
まともに言葉も紡げていない彩三の頭に、俺は優しく手を添え、ゆっくりと撫でる。
「……とにかく、今はゆっくり休め」
「うぅ……センパイ……ごめんなさい……」
彩三は涙を流しながら目を瞑る。
体力の限界が来たのか、彼女はそのまま寝息を立て始めた。
「…………」
寝入った彩三から身体を離し、冷めたお粥と汗を拭いたタオルを持って部屋を後にする。
……さて。
「……俺が何とかしてやるから」
失敗した彼女をこのまま放置しておくなんて、俺にはできない。
今の彼女から陸上という生き甲斐を奪ってしまったら、それこそ悲劇的な結末が生まれかねない。
ならば、サポーターとして、俺にできることをやろう。
「……成功率はあんまり高くなさそうだけど」
手に持っていたものを一旦リビングのテーブルに置き、ポケットからスマホを取り出し、とある人物に電話をかける。
「頼む、出てくれよ」
直接話した事はほとんどない。
どんな人なのかも直接は知らない。
でも、今は、絶対に話さなくてはならない――そんな人物に。
『――君から電話をかけてくるなんて珍しいこともあるものだね』
「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
『いいや、むしろ私からかけるべきだった。君にはお世話になっているからね』
重苦しい中年男性の声に、つい背筋が伸びてしまう。
『それで? 用件は何かな? これでも私は忙しい身でね……』
「手短に済ませます。――あなたの娘さんのことで話があります」
『……ほぅ?』
天王洲三姉妹の父親、天王洲零士。
俺とはレベルの違う、世界で活躍する正真正銘の天才。
『実に興味があるね。聞かせてくれないか?』
「はい。実は――」
今にも裏返りそうな声を根性だけで維持しながら、俺はヤケクソの作戦に出た――。
実は、BAN回避のために彩三のリアクションを初案よりナーフしています。
全部書いたらこの作品なくなっちゃいそうだったので……。