第57話 凡人の専売特許
という訳で、場所が変わってとある陸上競技場。
ここは昼間であれば利用料金を支払うことなくフリーで使える、一般市民に優しい陸上競技場だ。周囲にはダイエットのためにエクササイズをしている中年女性や、笑い合いながらトラックをジョギングしている親子なんかが確認できる。ちなみに、ペットの連れ込みはNGだったりする。
そんなファミリー感あふれる陸上競技場のトラック上にて、俺は彩三と共に準備運動を行っていた。
「すまないな、いきなりこんなところまで連れてきちゃって」
「別に構いませんけど……どうしていきなり走ろうだなんて言い出したんですか?」
「まぁ、俺なりの考えがあってさ。駄目だったか?」
「あたしは走るの好きなんで問題ないですけど……」
足首を解し、背筋を伸ばし、フィニッシュとして数回ほど軽くジャンプする。
「さて、じゃあ走ろうか。トラック一周の勝負でどうだ?」
「あ、勝負形式なんですね。いいですよ」
「彩三はいつものペースでいいぞ」
「……本気で言ってます?」
「本気も本気だけど?」
「いや、だって、あたしのいつものペースって……」
「問題ない。俺に気を遣わなくていいから、彩三は彩三のペースで走ってくれ」
「……分かりました」
俺が何を考えているのか分からないからか、困惑した様子の彩三。しかしすぐに察してくれたようで、スタートの姿勢を取り始めた。
「それじゃあいくぞ……よーいドン!」
「っ」
俺の号令の直後、彩三は凄まじい速度でスタートダッシュを切った。俺は必死にで足を動かすも、彩三との距離は見る見るうちに広がっていく。
肉体の運動能力は男女でかなり差があるとされている。基本的には男性の方が女性よりも運動能力は上の傾向にあるが、今はそんな差など感じさせないレベルで俺が彩三に置いていかれてしまっている。
普通の人間であれば、遅れている俺の方を振り返ったりするだろう。
だが、こと陸上において、彩三は一切の油断も手抜きもしない。
俺が本気で走っていいと言ったから、それに応えるように彼女はただ前だけを見て走り続けている。
「っ、はぁっ、ぜーっ、けほっ……」
筋トレはしているけどスタミナ自体はあんまりないので、トラック一周でもかなりきつい。しかも彩三に追いつくために全力疾走をしているから、全身が悲鳴を上げまくっている。
筋肉が軋む、肺が潰れる、空気が足りずに喉が鳴る。
体育の授業で走ることはある。だけど、ここまで全力で、こんなにも必死に走ったことはいつ以来だろうか。
そもそも、一生懸命に何かに取り組むなんて経験を、俺は人生の中で一度たりともしたことがあるだろうか。
「せんぱーい! がんばってくださーい!」
いつのまにゴールしていたのか、彩三はスタート地点から俺に声をかけてくる。一瞬しか視線を向けられていないけど、呼吸一つ乱れちゃいなかった。彼女にとってトラック一周ぐらいの距離は準備運動にもならないのかもしれない。
男子高校生としての維持だけでフォームを維持しながらトラックを突き進んでいく。
走って、走って、走って走って走って……ようやくゴールを迎えた。
「っ……ふぅぅ……げほげほっ、ひゅー……き、きっちぃぃぃ……」
「お疲れ様です、センパイ。ドリンクをどうぞ」
「あ、ありがとう……」
彩三からスポーツ飲料を受け取り、干上がった喉に流し込む。酸素と共に冷たい水分が体の中へと取り込まれ、限界寸前だった俺のステータスを通常レベルへと押し上げていく。
地面に座り込んだまま呼吸を整えつつ、俺は彩三の方へと視線をやる。
「……はぁぁ……全然追いつけなかったわ……」
「当たり前ですよ。他のことならともかく、走りであたしが負けるはずないじゃないですか」
「センパイが勝てるはずないじゃないですか」と言わない所がなんとも彩三らしい。
走りについては自信満々で、自分は絶対に負けないと心の底から信じている。
だからこそ、
「やっぱり彩三は凄いなぁ……」
「何ですかいきなり」
「いや、言葉の通りだよ。彩三は凄いなぁって」
「……こんなの、凄くも何ともないです。一姉や二姉と違って、あたしには一芸しかありませんから」
「その考え方自体が間違ってると思うんだよな」
「え?」
困惑した顔で俺を凝視してくる彩三に、俺は言う。
「そもそも、他人と比べる必要なんてないだろ。彩三には彩三の凄さがあるんだから」
「で、でも、あたし達は同じ天王洲家の人間で、血のつながった姉妹で……」
「確かにそうかもしれないけど、彩三は彩三だろ? 彩三という個人の価値に、他人との比較なんて必要ないよ」
「っ……」
「俺はさ、天才って言われてるけど実は凄く努力家で、誰に言われるまでもなく一生懸命頑張っていて、それなのに陸上だけじゃなくて年頃の女の子としてお洒落も頑張っている……そんな可愛い後輩のことが凄いって褒めたんだよ」
「センパイ……」
「君が一夜さんと二葉さんの妹じゃなくたって、俺は今みたいに褒めたと思う。だって、それぐらいに、君は凄いんだから」
天王洲家の人間だとか、天才三姉妹の末っ子だとか、そんなことはどうでもいい。
天王洲彩三という個人を凄いと思ったからこそ、俺は彼女に憧れているんだ。
「君は他人のことなんか気にしなくていいんだよ。そういうのは、俺みたいな凡人の専売特許なんだから。君はただ、自分の好きなことをとことん突き詰めていけばいい」
月並みな言葉でしかないし、綺麗ごとでしかない。
でも、俺は天王洲彩三という女の子が、自分の凄さに気付けていない現状を、ただただ許せない。
だから、俺が褒めるんだ。
彼女が自分自身を褒めてあげられないのなら、それ以上に俺が褒めてやるんだ。
それが、彼女のサポーターとしての、俺の最低限の義務だから。
「まあでも、好きな陸上を続けるためにも、とりあえず今は勉強を頑張らないとな」
ようやく回復した身体に力を込め、俺はその場に立ち上がり、彩三の頭に優しく手を置く。
「好きなことのために、俺と一緒に頑張っていこう。俺が憧れる彩三なら、きっと大丈夫だから」
「っ……」
「お、っと」
小さく息を吞んだかと思った直後、彩三は俺に勢い良く抱き着いてきた。
「……センパイはずるいです」
俺の腹に顔を押し付けたまま、彼女は言う。
「恥ずかしいことをサラッと言うし、すぐに褒めるし……」
俺に顔を見せないまま、彼女は言う。
「……でも、ありがとうございます」
声を震わせながら、彼女は言う。
「……ごめんなさい。もう少しだけ、このままでいさせてください」
頼まれたからには、俺に断る選択肢はない。
体を震わせ、嗚咽を漏らす彩三に抱きしめられたまま、俺はただ静かに彼女の頭を撫でるのだった。