第54話 黒い彗星のG
誰しも苦手なものが存在する。
料理だったりスポーツだったり、音楽やゲームなどの娯楽にだって好き嫌いは存在する。
人によってはその苦手を克服しようと努力するだろうけど、ほとんどの人は苦手なものは苦手なままで生きていっていることだろう。
もちろん、俺にも苦手なものはある。わざわざ主張するようなものでもないので、あえて言わないだけで――。
「なにぼーっとしてるのよ」
リビングのソファに座って天井を見上げていたら、そんな言葉と共に一夜さんの美しい顔が現れた。
今日は休日で、三姉妹みんなが用事があるとのことなので俺は家に残って掃除をしていたのだけど、一区切りついたのでちょうど休憩をしていたところだった。
俺は姿勢を整え、一夜さんの方へと向き直る。
「おかえりなさい。随分と早かったですね」
「今日は今度のコンクールのための打ち合わせだけだったから。打ち合わせついでに先生と食事をして、そのまますぐに帰ってきたのよ」
「なんか凄い社会人みたいな過ごし方してますね」
「半分社会人みたいなものだもの、私」
俺の大して的を射てもなさそうな評価を否定することなく、さも当然のようにあしらう一夜さん。こういう大人らしいところは本当に憧れる。口に出したら怒られそうだから言わないけど――
「一夜さんのそういう大人の女性って感じのところ、俺凄く素敵だと思います」
「っ……あ、ありがとう……」
しまった。つい我慢できずに口にしてしまった。でもどうやら嫌がられてはいないみたいなのでオーケーです。
一夜さんは顔を赤くしたまま俺の隣に座ると、わざとらしく咳払いした。
「そ、それで? あなたは何をしていたの?」
「掃除してました。ちょうどこれから続きをしようかなと」
「なるほど、掃除ね……私が手伝ってあげましょうか?」
「…………え、一夜さんが掃除?」
「なによその反応は!?」
しまった。驚きのあまりつい素で返してしまった。
「いや、だって……一夜さん、掃除とかできるんですか?」
「ひ、人並ぐらいはできるわよ!」
「うっそだぁ。だって俺がこの家に来た時、死ぬほど散らかってたじゃないですか」
「ぐっ……あ、あれから改善したのよ! ほら、私の部屋だって最近はそこまで散らかっていないでしょう?」
「この前ベッドの上に下着が放置されてましたけどね」
「△※♯〇Α℃~!!!????」
さっきよりも真っ赤になった顔で声にならない叫びを上げる一夜さん。どうやら今のは流石にクリティカルヒットだったらしい。
一夜さんは赤面どころか目尻に涙まで浮かべながら、
「あ、あれは……後で片すつもりだったのよ!」
「俺に部屋の掃除を頼んだ時点で置いてあったのに……?」
「うぐっ……ああ言えばこう言う……!」
「それは流石にこっちのセリフですよ?」
「っ~~~! そ、そうよ! 私はまだ掃除が苦手よ! ごめんなさいねえ! うわーん!」
顔を両手で覆っておいおいと泣き出す一夜さん。学校の人間が今の彼女の姿を見たらなんて思うだろうか。……夢だと思われそうだな。
仕方がない。一夜さんをからかうのはこれぐらいにしておこう。面白い一面も見れたし。
「すいません、ちょっとからかいすぎました。掃除、手伝ってくれますか?」
「……理来が誠意を見せてくれたら手伝う」
指の隙間から俺を見つめつつ、口を尖らせる一夜さん。本当に可愛いなこの人。普段は立派な人はたまに見せる幼い姿は何故こんなにも男心をくすぐるのだろうか。
「誠意って……どうすればいいですか?」
「……ぎゅーってして」
「え」
思っても見なかった要求に、思わず動揺してしまう。
そんな俺に向かって一夜さんは両手を広げてきた。誰が見ても一瞬でわかる、受け入れ態勢である。
「ぎゅーってして」
「……仰せのままに」
一夜さんの両手の間に体を滑り込ませ、そのまま背中に腕を回し、身体同士を密着させる。
「んっ……」
「す、すいません。力、強かったですか?」
「だ、大丈夫……よ……」
上ずった声の一夜さんは恐る恐るといった様子で、俺と同じように背中に手を回し、そのままぎゅっと抱きしめてきた。
……どうしよう。とてつもなく落ち着かない。
衣服越しだというのに、一夜さんの心臓の音が俺の骨の芯にまで伝わってきている。それに呼応するように俺の心臓も高鳴ってしまって、どうしようもなく緊張する。
「……ふ、二葉が、この前、あなたに抱き着いてたから、私もやってみたけど……こ、これ、凄く恥ずかしいわね……」
「そ、そりゃそうですよ。も、もう、満足しました?」
「……もうちょっと」
恥ずかしさのあまり冷静さを取り戻したかと思ったのに、甘えん坊モードは未だ継続中のようだ。
その後、二人で抱き合ったまま五分ほどが経過した頃、ようやく俺は解放された。
「……はぁーっ! はぁーっ! し、死ぬかと思った……」
「俺と抱き合った後にそういう反応するのやめてくれません!?」
「ち、違うのよ。悪く言ったつもりはなくて。その、ドキドキが凄くて、心臓が爆発しそうだったから……あ、ありがとうございます?」
慣れないことをしたせいか、明らかに様子のおかしい一夜さん。今の彼女を動画に撮って他の二人に見せたらめちゃくちゃ驚かれそうだな。
「と、とにかく、これで誠意は見せられましたよね? 掃除、手伝ってもらえますか?」
「え、ええ。天王洲一夜に二言はないわ。そもそも私が手伝うと言ったんだもの。どんなことでもしてあげようじゃない」
一夜さんが掃除を苦手としていることは分かっているから、頼むとしても簡単なものばかりになるだろうけど。
ようやく熱が冷めてきた頬を掻きつつ、俺はゴミ箱の方を指し示す。
「それじゃあ、キッチンにあるゴミ箱の中身をまとめてもらってもいいですか? 箱の中から袋を出して縛るだけの簡単なお仕事です。袋を取り出した後は新しい袋をセットしておいてください」
「分かったわ」
早歩きでキッチンへと向かう一夜さん。ゴミ袋をまとめるだけという、子供でも出来る役目だ。掃除が苦手な一夜さんでも問題なく遂行できるはず――
「きゃあああああああああ!?」
――と思っていた瞬間が俺にもありました。
突然響き渡った悲鳴に、俺は慌ててキッチンの方へと移動する。
中を見ると、床にしりもちをついてガタガタと震える一夜さんの姿があった。
「どうしました!?」
「あ、あああああ……」
「落ち着いてください! 深呼吸して、何があったのかをゆっくりと話してください」
「す、すぅ……はぁ……や、やつが……」
「やつ?」
「く、黒い……ゴから始まる……」
「っ!?」
その情報だけで十分だった。
全人類の敵がこの家に現れたということを理解するのには。
「馬鹿な……よりにもよって、この家にヤツが現れるだなんて……! 対策は完璧にしていたのに……!」
「り、理来が来る前は、ちょこちょこ見かけていたの。でも、最近はすっかり見なくなってたから、油断していたわ」
「なるほど。その時の残党が息を潜めていたんですね。俺のせいじゃなかったか……」
「ちょっと。ヤツが現れた理由を私達のせいにしないでくれる!?」
「こればっかりは一夜さん達のせいでは?」
「ぐっ……」
俺に図星を突かれた一夜さんは苦虫を五億匹ほど嚙み潰したような表情を浮かべる。
しかし、今は彼女たちの責任を追及している場合じゃない。
「……一夜さん。分かり切った質問をしてもいいですか?」
「なによ」
「……虫は得意ですか?」
「だいっっっっきらいよ!!!!」
でしょうね。さっきからずっとへたり込んでるし……もしかしなくても腰が抜けていますよね?
「そういうあなたはどうなのよ。苦手なものなんて無さそうだけれど」
「それは俺を過信しすぎですね」
「……つまり?」
「ヤツとパクチーだけは俺の敵です。視界に入っただけで意識を失うレベルで」
「お、終わった……」
真っ青な顔で頭を抱える一夜さん。
……俺は何をしているんだ。彼女をサポートするのが俺の役目だろうが。彼女にこんな思いをさせるなんて、サポーター失格だぞ。
俺は突発的な事態に備えるために身をかがめ、静かに一夜さんに近づく。
「一夜さん。ヤツがどこに行ったかはわかりますか?」
「正確な場所までは……多分、まだキッチンにいると思うけれ――」
瞬間。
俺たちの視界の端を黒い何かが凄まじい速度で通り過ぎた。
「「っ!?」」
目にも留まらぬ速さで抱き合う俺と一夜さん。イメージするのは鉄壁の要塞。光景だけを見ればかなりきわどい状況だけど、そんな事を気にしていられる余裕はない。今だけは羞恥よりも恐怖が勝っている。
「ど、どうするの、どうするのよ……?」
「……俺に考えがあります」
「さ、流石ね」
「一夜さんがここでへたり込んでいる間に、俺は家の外までダッシュで逃げます」
「なるほど……待って、それ、私を見捨てようとしてない?」
「俺、一夜さんのこと、信じてますから。それじゃっ!」
「逃がすかァァッ!!!」
「ぎゃぶっ!?」
床を力いっぱい蹴って離脱しようとしたところで、一夜さんが俺の脚にしがみついてきた。勢いを殺せなかった俺はそのまま床に倒れ込んでしまう。
「な、何するんですか!」
「それはこっちのセリフよ! なに一人だけ逃げようとしているの!?
「離してください! 俺は他の二人のためにも生き残らなきゃいけないんです!」
「こういう時に私を守るのがあなたの役目でしょう!?」
「だってヤツは無理ですよヤツは! 人類の手には負えない!」
キッチンに座り込んだまま、言い争いを始める俺たち。やはり黒光りしているヤツは人間を争いへと導いてしまうらしい。
「あなただけ逃げるなんて許さないわ。私とあなたは一蓮托生、死ぬ時は一緒でしょう!?」
「大丈夫です、死にはしませんから。ただちょっと怖い思いをするだけです」
「その思いを一緒にしましょうって言ってるきゃあああああ! 飛んだ! 今ヤツが飛んだわよ!?」
「お、大声を出さないで下さい! 刺激したら襲われますよ!?」
「っ!」
反射的に口を両手で押さえる一夜さん。
俺たちは身を寄せ合いながら、
「ど、どうします? このままだとここで寿命を迎えることになりますよ」
「ヤツがこの家から出ていくのを待ちましょう。私は家具、私は家具……」
「家具ならすぐ下にヤツが入り込みそうですけどね」
「そんなこと言わないでよ! せっかく現実逃避しようとしてるのに!」
「ハッハー! 一蓮托生ですよ!」
抱き合った状態の会話としてはロマンティックさの欠片もない。そろそろ本当に状況を改善したいんだけど、いったいどうすればいいのか……と。
「姿が見えないなって思ってたけど……二人ともそこで何してるの?」
「一姉、抜け駆け」
「ふ、二葉! それに彩三も!」
外出していた妹コンビがキッチンに姿を現した。
「二人ともすぐにしゃがみなさい! ヤツの標的にされるわよ!?」
「は? ヤツ?」
「今この家は最強の侵略者に襲われてるんだ……!」
「二人とも何を言ってるの?」
クソッ、名前を口に出せないから状況を正確に伝達できねえ!
どうすれば、どうすればいいんだ……!?
「何が起きてるか知りませんけど、さっさと離れてくださいよ。家の中でR18なことをされても困りますし」
「え、えっちなことなんてしてないわよ! 言いがかりも甚だ――」
一夜さんの大声がトリガーになったのか、冷蔵庫の裏側からヤツが凄まじい速度で飛び出してきた。
「「うわあああああああ出たアああああああああああ!!!!」」
一夜さんと抱き合い、その場に体を沈める俺。ヤツはスピードを落とさぬまま、こちらへと飛来してきている。
このままだと衝突は不可避。逃げられないのであれば、せめて一夜さんだけでも守ってみせる!
「く、くるならこいやー!」
一夜さんを庇うようにして抱きしめながら、迫りくるヤツに対して防御姿勢を取り――
「えいっ」
ぺしん、と彩三が素手でヤツを叩き落とした。
「「……………………は?」」
突然の事態に頭が真っ白になる俺。俺の腕の中にいる一夜さんもきっと同じ状況なのだろう。
そんな俺たちを他所に、彩三は床でピクピクしている瀕死のヤツを拾い上げると、
「ゴキブリじゃん。久しぶりに見たねー」
「まだ生きてるなら逃がしてあげるべき」
「外に投げてくるー」
「私は一応床を拭いておく」
手際よくヤツの処理を終わらせる次女と三女。
家の中から脅威を排除し、手を洗って戻って来た彩三は、未だに床から動けずにいる俺と一夜さんを見下ろしつつ、
「……ぷぷっ。なんですかその情けない姿」
「一姉は、ともかく……理来にも、苦手なもの、あるんだ……ッ……」
彩三に続いて言葉を放つ二葉。平静を装っているが、全然笑いを堪えられてない。
その日以降、今回の件について、俺と一夜さんは二人から一週間ほどからかわれ続けることになるのだった。
――ちなみに、この日のことには、まだ続きがあって。
「……ねえ、理来」
「何ですか?」
「今日、一緒に寝てくれない?」
「……理由を聞きましょうか」
「や、ヤツがまた現れるかもって思うと、寝られなくて……」
「……フッ。いいでしょう。実は俺も怖くて眠れなかったんです」
「理来……!」
「いつもだったら追い返すところですが、今日だけは話が別です。一緒に恐怖を乗り越えましょう……!」
翌朝、俺の部屋から一夜さんと俺が出てきたところを二葉に目撃されていろいろと面倒なことが起きるのだが、それはまた別の話である。