第48話 アリクイ独立戦争
家庭教師として彩三に勉強を教える日々が始まった。
とはいっても、放課後は基本的に彩三が部活で忙しいので、主に昼休みを使って勉強をするようにしていた。弁当を食べながら勉強をする俺たちを見たら一夜さんあたりから「行儀が悪い!」と怒られてしまいそうだけど、時間が惜しいので一旦考えないことにした。
「1775年に起きた歴史上の出来事と言えば?」
「えっと、えっと、確か……あ、あ……アリクイ独立戦争!」
「不正解。正解はアメリカ独立戦争な」
「あー! そっちでしたか!」
「なんか『おしかった~』感出してるけど全然違うからな?」
「でもアリクイ可愛くないですか?」
「可愛いからといって正解にはならないだろ!」
昼休みという短い時間が終わる前に、彩三の脳みそに知識を叩き込んでいく。天然な彼女から放たれる珍解答にツッコミを入れることも多々あるけど、それでも順調に勉強会は進んでいっていた。
もちろん、昼休みだけじゃあ勉強時間が足りないので、彩三の部活が終わった後、そして夕食の前後などの時間も勉強に充てるようになっていた。
「センパーイ。指定されてた漢字の書き取り終わりました~」
「そうか。じゃあ夕飯の後にテストするからな。ちなみに夕飯のメニューはカレーだぞ」
「ぐっ……センパイのカレーは絶品だから記憶が全部上塗りされちゃいそう……」
「じゃあ君だけもやしにするか?」
「あたし、カレーなんかに負けません! 勉強大好き!」
――と、こんな感じで隙あらば勉強をするという日々を送っていたんだけど。
「……最近、二人とも仲いいわよね」
「学校でもいつも一緒にいる。羨ましい」
「わ、私は別に羨ましいとか思ってないけど?」
食卓にて、長女と次女がどこか不満げな様子でそんな話をし始めた。
「センパイがあたしのことを好きすぎていつも一緒にいたいって言ってくるんだよね~」
「勉強を教えてるだけです。アホの言うことを真に受けないで下さい」
「今アホって言いました!? わーん、二姉! センパイがいじめる~!」
「よしよし。彩三はアホじゃなくてバカ。私は分かってる」
「それ慰めになってないよ!?」
悪気のない正論罵倒に「わーん」と露骨に号泣する彩三。
そんな次女と三女のやり取りに苦笑していると、一夜さんがダイニングテーブルの下で足をぶつけてきた。
「ん? どうしました?」
「彩三に勉強を教えるのはいいけど、あなたはちゃんと自分の時間は取れているの?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと四時間は寝れているので!」
「死ぬわよ?」
まあ、流石に大げさに言ってはいる。正確には五時間睡眠です。
「心配してくれてありがとうございます。でも、彩三に勉強を教えるのは俺がやりたくてやってるなんで、全然問題ないっす!」
「そう……あなたがそう言うなら、別にいいのだけれど……無理だけはしないでね」
「……一姉が素直に心配してる」
「……センパイに対してはデレデレだからね」
「……これが理来ぱわー。誰でも骨抜きにしてしまう」
「……一姉がちょろすぎるだけじゃない?」
「こらそこ! 悪口はせめて聞こえないように言いなさい!」
わーわーと言い争いを始める仲良し三姉妹を眺めながら、俺はぱぱっとカレーを完食。食器を洗い場で水につけ、予め用意していた勉強道具をローテーブルの上に広げた。どうでもいいけど、この家のリビングにはどうしてテーブルが二つあるんだろうか。食事用とリラックス用か?
「ま、まだ食べてるのにセンパイがもう勉強モードに!?」
「ふふふ。早く食べて漢字のテストを受けに来ぉい……」
「ひぃっ! 魔王が、魔王がいます!」
「何なのよそのノリ」
冗談交じりで急かしたつもりだったけど、彩三は急いでカレーを平らげ、食器の処理を終わらせると、慌てた様子で戻って来た。悪いことをしてしまった気分だ。後でちゃんと謝っておこう。
「よろしくお願いします!」
「自信のほどは?」
「ふっ……任せて下さい。今なら漢検六級にだって合格できますよ!」
「小学生レベルじゃねえか」
せめて三か四級レベルぐらいまでは頑張って欲しい。
「問題数は二十問。制限時間は五分だ。準備はいいか?」
「はい! 大丈夫です!」
「それじゃあ……スタート!」
俺の合図の直後、彩三はテスト用紙に解答を記入し始めた。ちなみに、テストの問題は俺のお手製である。一年生のテストの範囲を全て調べ上げ、その中からちょうどいい難易度の漢字を選出した自信作だ。
「これは確かこんな感じで……うげ。えっと、えっと、この漢字はどんなんだったっけ~……」
頭を抱えたり百面相を披露したりしながら、何とか解答欄を埋めていく彩三。そんな彼女を見守っていると、あっという間に制限時間がやって来た。
「はいそこまで! シャーペンを置いて!」
「う~~~! 最後の問題だけ思い出せなかったです~!」
「それじゃあぱぱっと採点するから待っててくれ」
たった二十問、しかも漢字の問題なので採点自体はあっという間だ。俺は自分の採点を三回ほど見直した後、彩三に答案用紙を手渡した。
「十二点。難読漢字系がちょっと苦手みたいだな」
「ぐわ~! そうですよね、分かってました!」
「漢字自体は間違ってたけど、もう少しで正解だな、ってぐらいには書けていたからもうちょっと細部まで覚えられれば問題ないと思うぞ」
「いえ、結局正解じゃないなら意味ないです! 悔しい~!」
こういう時、凡人なら努力や過程も評価して欲しいと言いがちだ。だけど、彩三はそう言わなかった。日々陸上競技に真剣に向き合っているからこそ、大事なのはあくまでも結果だけであると理解しているのだろう。
自分の答案と正解を見比べながら、率先してノートに書き写していく彩三。あんなに勉強を忌避していた彼女がここまでやる気を出してくれるとは。負けず嫌いな性分を刺激する形で指導するようにしていたけど、どうやら功を奏したようだ。
「センパイ! この漢字を覚えるコツとかありますか?」
「ああ、それはだな――」
俺に教えられながらうんうんと唸ったり頭を抱えたり、それでもどこか楽しそうな彼女を見て、俺はつい笑みをこぼしてしまうのだった。
★★★
「……いいなぁ、ああいうの」
「一姉、心の声が漏れてる。彩三に聞かれたらまたからかわれるよ?」
「っ!」
二葉に鋭い指摘を入れられた一夜は、慌てた様子で自身の口を両手で塞ぐ。そんな彼女たちの視線の先には、勉強を頑張る彩三と理来の姿があった。
一夜は口からゆっくり手を離し、小さくため息を零す。
「彩三にそういう目的があった訳じゃないんでしょうけれど、その手があったかって感じね……」
「私も理来と一緒に勉強したい。混ざろうかな」
「それはいい考えね」
想い人と一緒に勉強をする。それは恋愛経験の少ない彼女たちにとって、まさに夢のようなシチュエーションだ。
「……でも」
自分の言葉を否定しつつ、末っ子をぼんやりと見つめる一夜。
勉強が大嫌いな陸上一筋の三女。勉強をするぐらいなら死ぬとまで言っていた彼女が、苦労しながらも必死に勉学に励んでいる。
「あんなに一生懸命頑張ってるんだもの。邪魔したら悪いわ」
「うん。妹を応援するのも、姉の役目」
羨ましい気持ちはもちろんある。
だが、それは頑張る妹を邪魔してまで優先するものでもない。
「……あ、勉強、終わったみたい」
「ええ、終わったみたいね」
「…………」
「…………」
――それはそれとして。
「理来。家庭教師お疲れ様。疲れてるよね? 私がマッサージしてあげる。私の部屋に行こう。今すぐ、さあ、早く」
「いえいえ、頭の疲労を取るには音楽が最適よ? 私があなたを癒せる曲を弾いてあげるから、これから私の部屋に行きましょう!」
「一姉、こういう時は妹に譲るべき」
「二葉、こういう時は姉を尊重するべきよ」
「「ぐぬぬぬぬ……!」」
「え、えっと……俺のために争わないで下さいたたたたた! 千切れる、腕千切れるからー!」
困惑する理来の腕をそれぞれ掴んで引っ張り合う長女と次女。
姉妹を気遣う心と乙女の恋心。未熟な彼女たちにとって、それを両立するのは中々に難しいことであった。