第43話 足の重さ
走るのは好きだ。
この世界に生まれて、初めて走れるようになったあの日から、あたしは走ることが好きだ。
走っている時に感じる風が気持ちいい。
何も考えず、ただ前だけを向いて体を動かす時間が心地いい。
走ることが好きで、好きだから走って……気づけば、天才アスリートだなんて呼ばれる存在になっていた。
走ることがあたしの全てだから、勉強なんてやってこなかった。
だって、あたしには回り道をする余裕なんてなかったから。
少しでも手を抜いたら、あたしは姉二人に置いていかれてしまう。
天才、と言っても優劣はある。
得意分野以外でも優秀な成績を収めてる二人と違って、あたしには陸上しかなかった。
あたしは、天王洲家の出涸らしと呼ばれたくなかった。
あたしはただ、好きだから走り続けてただけなのに。
走ることが生き甲斐で、走ることが人生で……だから前へ進み続けていただけなのに。
最近は、ちょっとだけ足が重い。
少なくとも――走り始めたばかりの頃の方が、あたしの足はずっと軽かった。
★★★
彩三が日課のランニングに向かった後、俺は引き続き全員分の弁当を作っていた。
(しっかし、このまま放置って訳にもいかないよな)
腕を動かしながら考えているのは、彩三の成績について。
成績が悪化しているせいで陸上部での活動が制限されてしまうかもしれない、と彩三は言っていた。ならば、彼女の成績を上げるためにどんなサポートをするべきなのかを考えるべきだろう。
そのためにはまず、彼女がどれだけ勉強をできるのかを把握する必要がある。
(どう話を切り出したものかな……『君はどれぐらい勉強できるの?』なんていきなり聞くのは失礼にもほどがあるだろうし……)
それに、聞き方を誤ってしまったら、彼女からも嫌われてしまうかもしれない。同じ家で暮らす者として、それだけは絶対に避けた――
(――なんて考えてんじゃねえよな、加賀谷理来)
一瞬でもそんな考えが過ぎった自分に腹が立つ。
自分が嫌われたくないから。そんな理由で彼女へのサポートに手を抜くだなんて絶対にあり得ない。
俺は自分を家族として迎え入れてくれた彼女達を全力でサポートすると決めた。
それならば、自分がどう思われようとも、サポートのために一番良い道を選ぶべきだ。
たとえその選択によって、彼女から嫌われることになろうとも。
(とにかく、まずは話を聞いてみなくちゃな)
自分の中でそう結論付けた直後、炊飯器から炊飯完了を知らせるアラーム音が鳴った。
★★★
他の姉妹が起きてきたのは、彩三がランニングから戻り、シャワーを浴びに向かったぐらいの頃だった。
「おはよう、理来」
「おあよぉ……」
「おはようございます、一夜さん。二葉もおはよう。なんでそんなに眠そうなんだ?」
「新作の格ゲーのPTBに参加してたら朝になってた……ふわわぁ……」
かみ殺すこともなく、盛大に口を開いて欠伸を零す二葉。よくよく見れば、目の下にクマが浮き出ている。夜更かしをしたというのは本当らしい。健康のためにも完徹するのだけはやめてほしいんだけど。
「とりあえず顔を洗ってきたらどうだ? その間に眠気覚ましのコーヒーでも淹れておくよ」
「あいがとぉ……」
意識もはっきりしていないのか、二葉は目をしょぼしょぼさせながら洗面所へと消えて行った。
一方、一切眠くなさそうな一夜さんはいつも通りのシャキッとした態度で食卓に着くと、
「今日の朝食は何かしら?」
「白飯と味噌汁、あとはひじきと鮭の塩焼きです。もっと凝ったものにしようと思ってたんですけど、弁当作りにちょっと時間がかかっちまって……」
「十分すぎるわ。ありがとう」
そう言って、柔らかく微笑む一夜さん。常人離れした美しさの顔立ちから放たれる笑顔を見る事が出来ただけで、眠気なんて一瞬で消し飛んでしまった。朝から頑張ってご飯を作ってて良かったぜ……!
嬉しさを噛み締めながら、茶碗に白飯をよそい、他の料理と共に食卓へと並べていく。
「一夜さんは眠くなさそうですね」
「当たり前よ。夜更かしは肌にも健康にも悪いもの。よく言うでしょう? 夜更かしばかりする子は大きくならないって。成長にも関係するのよ、睡眠時間って」
「一姉というイレギュラーがいるのに?」
「戻ってくるなり何を言っているのかしら二葉?」
顔をタオルで拭きながら帰って来た生意気なメカクレ娘に、一夜さんはそれはもう冷たい笑顔を向ける。額には青筋が浮かんでいるし、これはかなりご立腹だ。
二葉は一夜さんの向かいの席につきながら、
「夜更かしをしている私の方が胸が大きい。ふふん(ゆっさゆっさ)」
「人間の成長を胸だけで測るのはナンセンスじゃないかしら!? 身長なら私の方が大きいでしょう!? あと自慢げに胸を揺らすな!」
「理来は胸の大きい娘と小さい娘、どっちが好き?」
「理来は関係ないでしょう!?」
「えっと……」
「あなたも答えようとしなくていいから!」
今日も長女のツッコミが冴え渡っていた。天才ピアニストは鍵盤だけではなくボケの捌き方も一級品らしい。ちなみに俺はあんまり胸のサイズとか気にしません。
「あっ、二人ともやっと起きたんだ。おはよー」
シャワーついでに着替えも済ませてきたのか、制服姿の彩三がリビングに現れた。彼女はいつも通りの柔らかな笑みを浮かべたまま、いつもの特等席に腰を下ろす。
「二人とももっと早めに起きればいいのに」
「これが普通です。あなたが早すぎるだけよ」
「えー? でもセンパイはあたしよりも早起きだったよ?」
「理来、あなた本当にいつ寝てるの……?」
「心配しなくても必要な睡眠時間は確保してますよ」
常人よりは少ないかもしれないけど。
「そんなことより、早く食べましょう。ゆっくりしてたら遅刻しちゃいますし」
「そうね。それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
「いただきまーす」
そう言って朝食を食べ始める三姉妹を眺めながら、俺も静かに両手を合わせるのだった。