メガネ
退屈な映画の意図のわからないワンシーンのような景色が右から左へと流れていく。擦れる車輪、風に軋むドア、見慣れた白銅色の壁、意識しなければ気付くこともない三角形の吊革、無機質で冷たい銀色の手摺、7人用の少し柔らかいシート、口元を覆うマスクの繊維の化学的なにおい、それら全ても退屈だ。刺激になるのは反対車線の電車とすれ違う時のあの大きな風圧ぐらい。
着物姿のおばちゃん達はスマホを片手に話し込み、靴を脱がない2歳ぐらいの娘を抱えたスーツ姿の男性は2つの席を占めて寝る。キャップを被ったおじさんは流れる車内アナウンスをそっくり真似て音読し、厚底のスニーカーを履いている女性はマフラーを首に巻き付けてパソコンと睨めっこをする。
あとは、そう、リュックを抱えた大学生は隅の席で参考書を開いていて、自分の隣の席に座る長髪の女性は厚いダウンジャケットを身に纏って退屈そうにどこかを見ている。
その他の、伊達にとって「退屈な」人達は、きっと気に留める必要もないくらい「当たり前な」存在なのだろう。
それならば逆に、気に留める人達は「当たり前ではない」存在なのだろうか。
そこまで考えて、伊達は「日常色のメガネ」を再認識した。
読んでいただきありがとうございました。
伊達は今後も登場させる予定です。このような掌編小説などから伊達がどういう人物なのか、様々な視点から考察してみてください。
また、よろしければコメントにてあなたが感じている社会の変化を教えてください。それはきっとあなたの「メガネ」に色濃く映っているはずです。
私の作品があなたの気晴らしになれば幸いです。