タイトルが長い、所謂「なろう系」ライトノベルについてなのだが!
このタイトルの通りである。
一般的に知られるようになった、作品名で内容を表しているライトノベル系の小説。
利点として、一見しただけでゾーニングできることが挙げられる。
情報を情報で付け足し、水増し、洪水のように消費する文化が築かれた現代社会ならではと言える。
個人の時間と照らし合わせた際に、世界から受容できる総量が明らかに過多である。
映画を「早送り」で見るように、漫画を「電子書籍」で読むように、電車の中でスマートフォンを「眺める」ように、
ありとあらゆる時間が足りていない。
その中でなろう系、特にタイトルが長い物に関しては、
内容すら吟味する時間が無い今を生きる人類向けの、ある意味最高の形態であると言えるだろう。
問題点が無い、と同義ではない。
例えば直接的表現が過ぎていて、日本語で言うところの「いとおかし」さが少ない。
であったり。
タイトルの文字が多すぎて逆に読む気が失せる、作品の区別が付きにくい。
であったり。
しかし不思議なことに、題材は目を見張る物が多くある。
なぜここで目を見張るのか。
なぜ広い世代に受け入れられているのか。
それは小説が、文学が古来より受け入れられてきた要素である、素晴らしさから来るものだと思わないだろうか。
文字は世界を繋げる物である。
それは貴方の脳内、或いは物理的な距離、空間、
人間の創り出した魔法そのものであると考えても良い。
過去、現在、未来を架ける概念である。
文字が無ければ、人間を自然に組み込むことは出来なかっただろう。
ようするに、ライトノベルという在り方自体が。
フィクションとノンフィクション、パストとフューチャー。
かつて純文学が行っていた役割と本質的には全く変わらない、現実世界の鏡面或いは鏡そのものであると言いたい。
やれライトノベルが至高、純文学が最高だとか。
そのような議論にとてつもなく意味は無い。
ただ世界からの情報の受け取り方、入れ方が違うだけなのだ。
勿論選り好みはあるだろう。
私自身もタイトルが長い、所謂「なろう系」ライトノベルについてあまり良い感情は抱いていない。
ただ、その接点を生み出している文字に敬意を払わなければならない。
世界の形が変わろうと、人の形が変わろうと、
文字は化けない。
そういう訳なのだが。




