“騎士”王女、断罪される!!
「なんだって? タークス」
顔を上げたウルティカ“騎士”王女に、タークスは大袈裟なくらいに溜め息を吐いた。
「だから、いってるだろう。お前はおそらく王女の称号を剥奪される」
とある世界、とある時代のとある大陸、その西の半島に、アーオノーイ王国がある。
アーオノーイ王国は、西、東、南の三方を海に囲まれた半島であり、残りの北は魔境と接している。
それ以外の土地でも当然、怪物達はわいてくるのだが、魔境から流入してくる怪物達の数は王国のほかすべての場所で発生する怪物の数を合わせてもうわまわる程だ。
それに対処する為に辺境伯が置かれ、王国は千数百年の平和を謳歌していた。といっても、日々の怪物退治の尊い犠牲の上に成り立っている平和ではあるのだが。
地理的に見れば、三方は海で、まもりはかたく、大船団を編成して攻め込んだとしても沿岸守備隊にさほどの損壊も与えられないだろう。かといって、魔境をのりこえて攻めてくる軍もない。王国は外敵からは快適にまもられているのだ。
基本的に平和な海と違い、魔境からは絶え間なく怪物がわいてでている。
安全な南の王都にまします国王陛下よりも、日々怪物達に対処している北方の辺境伯やその軍が権勢を振るい、民衆の人気は高かった。
辺境伯は力を持ちすぎ、次第にその周囲が不穏な動きを見せるようになる。
王国には「長老」という身分があり、それは功績に応じて陛下と大僧正から与えられるものなのだが、決して王族や貴族には与えられない。
長老達には重要な任務がある。陛下のあそばすことが国にとって益であるか、害であるか、無益であるのか、そしてそれは適切であったか、きちんと物事に向き合っていたか――など、陛下のあそばすことを審査するのだ。
不敬なような話だが、長老制を導入したことで暗君は合法的に玉座を追われるようになり、国は安定した、とされている。
長老達には時が経つごとに権利が増え、仕舞には叙任だの叙勲だのにまで口を出すようになった。
そして、長老達はこの数百年前、辺境伯に公爵の称号を与えるべき、と陛下に進言した。
それに辺境伯周囲の動きを合わせて、謀反の匂いを嗅ぎとった王宮では、しかし王国軍や国王派の貴族の軍を総動員しても辺境伯の軍にはかなわないと判断した。
勿論、既存の公爵家からの反発は凄まじかった。いっそのこと法を書きかえて長老制を廃止しようと主張する者もあった。特に、当時の国王と不適切な関係にあったというキャス卿の反対の意思はかたく、それに感化されて最初は公爵位を与えることに積極的だった国王まで、長老達の進言をを拒否した。
そこで、当時の宮廷道化師宮廷詩人達が、辺境伯のもとへ国王の妹が嫁ぐ、という物語を面白おかしく民衆の間に流布させた……と、されている。
でどころの真偽はともかく、民衆の間で、国王の妹が辺境伯へ嫁ぐという噂がひろがったのは事実だ。
国王の耳にもそれは届き、不敬であるとして処罰の対象になるところだったのだが、キャス卿が国王に進言した。いっそ、噂を真実にしてしまえば宜しいのでは?
これはアーオノーイ王国の歴史劇では有名な場面で、有名なせりふだ。芝居小屋なんて近寄りもしない人間だって、キャス卿の本名を知らなくたって、これは聴いたことがある。
勿論、芝居に足繁く通っている人間でも、キャス卿の本名なんてめったに知りはしない。演じている役者だってそんなもの知らないのだから。
国王と不適切な関係にあったといえ、キャス卿は頭がきれたし、その判断はまったくもって正しかった。
公爵位をもらう気満々だった辺境伯は、もくろみが外れたことに腹をたてたくせに、二ヶ月後に国王の妹がもの凄い数の侍女達をつれて嫁いでくると、ころっと態度をかえた。
なにしろ、国王の妹は辺境伯の好みだったのだ。その姿はほっそりと柳のようで、すらりと手足が長く、絹のような光沢の長い金の髪に海の色の瞳……というのが歴史劇ではおなじみで、かつらに大変な労力を注ぐ登場人物なのだけれど、実際はぽっちゃりした小柄な王女であったらしい。
辺境伯は公爵の称号を諦め、一生涯王都へ近寄らないこと、南へ進軍しないことを誓って王女をめとった。
そしてその誓いは、辺境伯が代替わりする度に更新された。
重要なのは、その後の辺境伯と王家の関係だ。
当時の辺境伯の子どもは、当時の国王にとっては甥姪である。
その姪のひとりが、大勢居る王子のひとりと婚姻を結び、相手の王子は北の地に一代限りの領土をもらった。
ところが宮廷では様々なこと――疫病、火事、怪物の襲撃などなど――が起こり、辺境伯の娘をめとった王子に、玉座に座る権利が巡ってきたのだ。
アーオノーイ王家は男系長子継承である。なので、その国王の息子、つまり辺境伯の孫が次の国王になった。
それ以降、男系であることはかわらないのだが、公爵・侯爵の娘をおさえて辺境伯の娘が王太子の花嫁候補としてまっさきに名前があがるようになった。
これは、さほどおかしなことではない。辺境伯は当時も今も、民衆には人気なのだ。王家としても、人気とりにつかえるよい婚姻なのである。
そうして、辺境伯の娘は頻繁に王家へ嫁ぐようになり、日々怪物をほふる辺境の武人の血が王家にまぎれこんでいった。
長い時を経て、それはウルティカ“騎士”王女として結実した。
ウルティカ“騎士”王女。勿論、騎士というのは民衆によるあだなであって、そういった称号を戴いている訳ではない。
これより十七年前のクオーフ新月暦1096年に、ヤーカッツ国王の次女として生まれる。母親は辺境伯の娘で、ウルティカを生んですぐに亡くなった。
国王は妻を失った衝撃で伏せがちになり、ウルティカのたった五歳上の長男、ノー殿下が国王の政務一切を肩代わりした。
ウルティカは母親を殺して生まれた娘として父親に疎んじられ、叔父である辺境伯に預けられる。
ノー殿下の尽力で、いわれなき死をまぬかれたのはよかったが、辺境伯は当時まだ十代、結婚もしておらず、子どもの世話などみれる訳もない。ということで、ウルティカは口のきけない乳母ふたりに預けられ、五歳になるまで城の一角に幽閉されたような暮らしを続けた。
ヤーカッツ国王は結局、政務に一切の興味を失い、ノー殿下に位を譲って南の離宮へうつられた。ノー殿下は当時、八歳である。
その二年後、ノー殿下がようやく地盤をかため、ウルティカに王女の称号を与えた。
しかし、すでにウルティカ王女が辺境伯に預けられて五年が経ち、偏屈な貴族達はウルティカ王女が宮廷へ戻ることを承知しなかった。辺境伯の思想を吹き込まれ、国家に弓引く可能性がある、陛下の妹という立場を利用して暗殺につかわれるかもしれない、と。
陛下は妹を不憫に思われたが、まだ十歳の幼い身、お味方も少なく、王女の称号で精一杯だった。そこで、陛下にとっても叔父にあたる辺境伯に、ウルティカ王女によい教育をうけさせよと命じる。
これは、聡明なノー陛下の、唯一の失策である。
辺境伯にとって、よい教育というのは、怪物との戦いかたを教えることだったのだ。
ウルティカは五歳になると、それまでとじこめられていた塔から急に外へ出され、辺境伯の幼い息子達――ウルティカ王女が幽閉されている間に辺境伯は結婚し、双子をもうけていた――と武術の訓練をうけることになった。
王女は戸惑いもせず、外で自由に動けること、ひとと喋れることに喜んだ。訓練にくらいつき、指南役を驚かせたそうだ。
その日からウルティカ王女の暮らしはかわった。いとこの双子と一緒に素振りをし、駈けまわり、剣を研ぐ。そういったことが生活の主軸となったのだ。
訓練をはじめて二年で双子を打ち負かすようになったウルティカ王女は、その翌年、都市に侵攻してきた怪物を迎え撃つ。
それはまったく、不意の出来事で、勿論辺境伯がゆるしたことではない。ウルティカ王女は馬にのれるようになると、あちこち好きなところへ行くようになり、方々で土産を手にいれては乳母達の許へ舞い戻った。
その土産のひとつが、大規模侵攻で防壁を破壊するまでに至った怪物の首だったのだ。辺境伯は未だに、ウルティカ王女に馬を教えたことを悔やんでいるという。
ウルティカ王女が野うさぎのようにあちこち飛びまわって怪物を退治しているのは、陛下の耳にも届いた。
地盤がためも充分にでき、長老達にも貴族達にも邪魔されないと思った陛下は、とうとうウルティカ王女を宮廷へ呼び戻すことに成功する。
王女の帰還に王都はわいたが、馬車でやってくるのを想像していた民衆は、鎧を身につけて馬にまたがるウルティカ王女に仰天した。その上、王女は手土産に、道中の怪物をことごとく退治していたのだ。
民衆はそれを知ると熱狂し、ウルティカ“騎士”王女とあだなした。これが、ウルティカが王女でありながら騎士などというあだなをつけられた理由である。
その、“騎士”王女は、腕立て伏せを中断して床にあぐらをかいた。タークスが右手を顔にあて、もう一度溜め息を吐く。
ウルティカ王女はのんきにいう。
「タークス、道化師のお前が溜め息なんぞ吐いていいのか」
「煩い、考えなしの大ばか者め。俺も、俺の可愛いフィロッサも、マーカも、みんなも、お前についてきた所為で処刑されるかもしれないんだ。溜め息くらいでがたがたぬかすな。それに王女のくせにあぐらをかいているお前にはなにもいわれたくない」
ウルティカはぱっと、自分のあしを見て、立ちあがった。傍にある椅子をひきよせ、それに腰掛ける。
「これでいいか」
「知るものか」
タークスは乱暴にいい、せかせかと室内を歩きまわる。
ここは、王都から少し北にある、アーファース修道院の僧坊だ。
本来女性は這入ることができない筈の場所ではあるが、誰もそんなことは気にしていない。実際のところ、室内にはウルティカ王女だけでなく、軽業師の女、マーカも居た。
マーカはタークスの弟、詩人のフィロッサと並んで、窓辺に立っている。ほんの一時間程度前、鍛錬をはじめたウルティカに、マーカは付き合い、フィロッサは窓に腰掛けて詩をつくっていた。窓の外の小鳥と、美しい女性ふたりについて。
そこへ、道化師のタークスがとびこんできたのだ。
といっても、タークスは今、僧とかわりないような地味な格好をしている。天然の金髪が無残なくらいに短く刈り込まれているのは前からだ。夜のように白粉で覆われていない顔は、傷痕が目立つ。仕事柄動きが激しいので、僧と同じような頭からかぶるだけのずるずるした服を着ていても、ひきしまった体の線がうかがえた。道化師よりも、歴史劇の役者でもやったほうがいいような美男子だ。
それに比べ、相変わらず窓辺でぶつぶついっているフィロッサは、大きすぎる上に真っ黒の瞳といい、兄と違って銀色の髪といい、細い腕や脚といい、男らしいとはいえない。タークスが弟を甘やかしているからよくないと、マーカがよくぼやく。
そのマーカは、タークスの視線が外れている間に、額の汗をささっと腕で拭っていた。軽業師の彼女は男のような格好をしていて、腰には複数の短剣が佩いてあった。短剣投げも得意なのだ。
「ねえ、タク、くわしい説明をしないとウルティカにはなにもわからないわよ」
マーカは短剣を一本ぬいて、前髪を整えはじめた。
タークスがそれを睨み、ぶつぶついっているフィロッサの手をひいてマーカからひきはなす。「俺のフィロッサの近くで刃物を扱うなと何度もいっているだろ。フィロッサに怪我をさせたら、お前でも殺すぞ」
「あたしは短剣の扱いに失敗したことないもん」
それは事実であってそうではない。たしかにマーカは、公演において短剣の扱いに失敗したことはなかった。ただ、日々の訓練では、何度も失敗している。彼女は向上心があり、常に難しい技に挑戦するからだ。
フィロッサはどこを見ているかわからない目で兄の様子をうかがい、ちょちょっと兄の髪を触った。フィロッサはタークスのきらきらした髪に執着している。タークスはそれに笑みかける。
「ああ、フィロッサ、お前は兄貴に優しいな。ほら、ここに座っていなさい」
まったく子どもに対するような接しかただが、フィロッサはもう十六だ。だが、フィロッサはこっくり頷いて、タークスの指示どおりに椅子に腰掛けた。
「あのな、お前の行動について、査問が行われるんだぞ。異端……」
タークスは王女を振り返って、絶句した。
ウルティカ王女は脚をぶらぶらさせている。といっても、単に振っているのではない。椅子の座面に両手をついて体を持ち上げ、両脚を交互に動かしているのだ。
「ウルティカ」
「話ならこれでも聴ける。ここにとじこめられてもう十日経つんだぞ、タークス? 体がなまってしまう」
タークスが身をよじり、フィロッサがその袖をひっぱった。「ああ、お前だけだ、俺に優しいのは」
タークスがフィロッサの膝に突っ伏す。フィロッサは兄の頭を優しく撫でた。
王女、それも騎士とあだなされる王女と、道化師、軽業師、詩人……という、奇妙なようなとりあわせだが、その実彼らは仲がよかった。
出会いはほんの二年前である。
宮廷に戻ってからも各地で怪物を討伐する為に居つきはしなかったウルティカ王女が、その月はめずらしく討伐にでなかった。
なんのことはない。風邪をひいたのだ。王都では長引く厄介な風邪が蔓延していて、宮廷にもそれが到達しただけのことである。
治癒士のゆるしが出ないので、熱がひいてからも王女はまともに訓練もできず、宴に出るか、宮廷内の劇場で行われる芝居を見るくらいしかやることがなかった。ちなみにだが、ウルティカ王女は本にそこまでの興味がない。文字を読めないのではと噂されている。
王女は、移動で脚が鍛えられるから、という理由で、劇場まで芝居を見に行っていた。芝居そのものに興味はない。
だが、王女は単純で明快な筋の芝居に、いたく満足された。まったくもって、なにがどうしてそこまで気にいったのか、劇団の人間にとってもそれは永久不滅の謎である。まったくできがいいといえる代物ではなかったのだが……。
とにかく王女は芝居を気にいり、足繁く劇場を訪れた。宴にも喜んで参加した。
そこには、芝居でも軽業を披露していたマーカが短剣投げだのなんだのをやっていたし、けばけばしい化粧を施したタークスがいけ好かない貴族どもを侮辱しても笑いが起こっていて、フィロッサが着飾って女性をくどく為の詩を堂々と朗読したり、はたまた女の格好をして、夫の帰りを待つ賢婦の心持ちをやわらかく高い声で詩に読んだりしていたからだ。
それまでの人生の大半を、訓練と怪物退治に費やしてきたウルティカ王女にしてみれば、それは夢のような世界だったのだろう。彼女は一瞬で劇団に夢中になり、控え室にまであがりこんでくるようになった。
タークスの顔の傷痕が、劇団が地方へ公演に行く時に、劇団をまもって怪物と戦っているからだとか、マーカの短剣投げは怪物にも効くとか、フィロッサの咽には魔法の力が宿っていることなど、ウルティカ王女は劇団にまつわることを知って、尚更劇団を好きになった。治癒士のゆるしがでると、折しも地方公演へ出ようとしていた劇団に、同行を申し出た。
陛下は不遇の時期が長かった妹君に甘く、劇団を宮廷所属からウルティカ王女専属にかえ、団員の処遇を自由にできるようにした。劇団の名前も今や、「ウルティカ劇団」である。
劇団のなかでも特に戦いにたけたタークス、マーカ、魔法の咽で人々を勇気付け怪我の回復を促すことができるフィロッサは、ウルティカ王女の怪物討伐には、かならずついていくようになった。
タークスは歳の割に苦労していて、世知にたけている。
マーカは王女の同年代の、唯一の女友達だ。
フィロッサは普段、魔法の咽をつかわないようにほとんど声を出さずに喋るが、これまでに数回ウルティカ王女に愛の詩を送っている。
そんな訳で、彼らの関係は良好だ。
ひと月前までは、王女も劇団の人間も、なにもおそれてはいなかった。
ひと月前、宮廷から召喚状が届いた。
召喚理由は、「ウルティカ王女の素行に関しての査問」。
ウルティカ王女はよくわかっていなかったようだが、タークスが討伐を途中にしても急いで帰るように進言し、タークスを信用している王女はそれに従った。勿論、劇団員達はタークスの言葉に逆らわない。
宮廷に戻り、ウルティカ王女はそこで劇団員達からひきはなされた。王女は宮廷西の塔にはいらされ、劇団員達は劇場ではなく地下牢へいれられた。
じりじりと時間が過ぎ、フィロッサが見張りの兵を怨嗟の言葉で追い払ってウルティカ王女に会いに行くといいだすまでになった頃、劇団員達はようやく解放された。そこから半分程度は劇場に戻ったが、あとは馬車にのせられ、数日かけてアーファースの修道院へ運ばれた。
別の馬車で、ウルティカ王女もそこに移動していた。フィロッサの目が怒りにぎらぎらしていたので、ウルティカがそこに居て、劇団員達と会うのも自由だとわかると、フィロッサ以外の劇団員達はほっとしたものである。フィロッサを怒らせるのは、絶対にいけないことだ。
劇団員がウルティカ王女と再会したのが十日前、それからこの日まで、ウルティカ王女は幼い頃のように屋内にとじこめられていた。
タークスは弟の膝に頭をのせたまま、ウルティカ王女を見る。フィロッサは兄の頭を一定の速度で撫でていた。マーカは前髪の手入れに夢中だし、ウルティカ王女は椅子の上で逆立ちしている。
「ウルティカ。これは実際、本気でまずい話なんだぞ」
「まずい?」
ウルティカ王女は逆立ちのままタークスを見、くるっと回転して床に降り立った。それから優雅に、椅子に座る。
「異端というのは、あれだろ? 魔境の向こうにある国のような信仰を持つことだろう」
「それだけじゃない。お前と俺達には、スフォレットと内通している疑いもかかってる」
スフォレット、というのは、魔境をはさんで北にある大国だ。
アーオノーイは魔境からわきでる怪物に大変迷惑しているが、それは天然の防壁としての役割も果たしている。魔境は東西に長く延びていて、スフォレットは魔境を越えられないし、海からアーオノーイに攻め込むことも難しい。
ウルティカ王女はまた、両腕の力だけで体を持ち上げる。
「魔境を越えられるなんて、ばかな話だ。漁師くらいの話だろう。それも、遭難というやつだ」
「だからいってるだろう。フィロッサが居たらそれができると思われてるんだ」
フィロッサの手が一瞬停まった。彼は状態を少しまるめ、兄の耳許でささやく。タークスは溜め息を吐いた。「いや、お前のせいじゃないとも、フィロッサ。ばかは居るものだ。お前は陛下に忠誠を誓っているのに、無断で魔法の咽をすり減らす訳がない」
フィロッサだけでなく、劇団員は宮廷お抱えになった段階で陛下に、そして王家に忠誠を誓っている。
それはタークスの知恵だ。タークスは目端が利く。フィロッサの魔法の咽は、感情がたかぶると当人の意思ではどうしようもないこともあるのだが、普段は制御できている。
それを、陛下の名声を高める為にだけつかうと誓い、劇団全体も陛下に忠誠を誓った。それによって、フィロッサは無理に戦いに出されることもなく、妙な疑いをかけられることもなくすごせていた。
フィロッサだけではなく、劇団には奇妙な能力を持っている者が複数居る。その全員が安心して生きていられる環境を、タークスは整えてくれた。
しかしそれも、これまでのようだ。
フィロッサがもぞもぞとなにかいう。タークスは顔を上げ、弟の華奢な指を掴んで口付けた。
「ああ、フィロッサ、お前になにかあったら俺は……」
フィロッサが小首を傾げてなにかいい、タークスは涙目で息を吐いた。「おお、我が弟よ、お前はどこまで心が美しいんだろう。でも停めないでくれ。お前が少しでも怪我をしたら、俺はやってやるぞ」
「タク、あんたがそうやって物騒なことをいうのが悪いのじゃないの」
「煩い」
マーカのさめた声にタークスは返し、めそめそしながら弟の膝を撫でている。フィロッサは無表情で、タークスの頭をぽんぽんした。
ウルティカ王女はまた床に伏せ、腕立て伏せをしている。
「心配ない。フィロッサが傷付くことも、タークスが暴れることもないさ」
「何故いいきれる」
「だって、ここの修道院長はシュエイヨ僧正だろう。あのかたはわたしに味方してくれる。なんたって、叔父上なんだから」
ウルティカは笑顔だった。
シュエイヨ修道院長は、前王の弟だ。男系長子継承の王家では、長子以外の男児は政争の種になるということで、はやくに結婚させられるか、僧になる。シュエイヨ修道院長は十歳にみたぬうちに修道院にいれられ、政治にも怪物の討伐にも関わったことはない。
そのシュエイヨ修道院長は、王女の称号を下す時も、ウルティカ王女を宮廷へ戻す時も、陛下の味方になった。なので、ウルティカ王女が彼を信用しているのは当然の話である。ウルティカ王女にとってみれば、兄との再会を手助けしてくれたひとなのだ。
だが、タークスはふんと鼻を鳴らした。
「そのシュエイヨ修道院長が先頭に立ってお前を糾弾している」
「なに?」
さすがのウルティカ王女も、驚いた様子で体を起こした。そのまま立ちあがる。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「どうやってその情報を手にいれた? タークス、お前だってこの棟から出られないだろう」
はんとタークスは笑う。
「お前と違う。俺はとじこめられるのはきらいだから、自由に出入りさせてもらう。どこだってな。地下牢から出なかったのはフィロッサがそれをできないからだ。それにお前、ここがどこだと思っているんだ」
「修道院」
「あのな、修道院の男どもは、若いのは大概がうぶでねんねなんだよ。俺の顔を見たことがないのか、お前」
ウルティカ王女は口を噤む。フィロッサがなにかいい、タークスは弟を仰いだ。「ああ勿論、一番大切なのはお前だぞフィロッサ。修道僧だって、いっとき甘い夢を見られたんだ。俺を恨みには思わないだろうさ」
「叔父上がどうして……」
「お前が聖典をまともに読んでいないからだろう」
タークスは呆れ声だ。「女が剣をとって戦う。女が怪物と退治する。女が男の間にまざって寝起きする。女が夫でない男に素肌を見せる。どれも聖典で禁じられていることだ。身に覚えは?」
ウルティカ王女は口を開き、閉じた。身に覚えがあるどころの話ではないのだ。
ウルティカ王女は八歳から怪物退治を続けているし、勿論軍と一緒に寝起きしていて、その軍は男ばかりだ。そして、怪我をすれば治癒士に肌をさらすのは当然だし、そもそもウルティカ王女は湯浴みだろうとなんだろうと、男と一緒でも気にしない。勿論、男達のほうも、自分よりもよほど強いウルティカ王女が裸になったくらいで、妙な気を起こす筈もない。目をつけられないようにこそこそして、縮み上がっているだけだ。
ウルティカ王女はすねたようにいう。
「そんなの……マーカだってしてるじゃないか」
「マーカは軽業師で貴族でも王族でもない。お前はヤーカッツ王の次女で陛下の妹で辺境伯の姪だ。国民の規範となるべき人物が、女は戦うべからず家に居て子どもを教育すべしと説いている聖典を真っ向から否定するような言動をとっているんだぞ」
タークスは嘆くようにいい、弟の膝に顔を埋める。「俺が愚かだったんだ。ウルティカ専属になる話を蹴っていれば……」
「でも、女が外で戦ってなにが悪いんだ?」
ウルティカ王女は納得がいかないのか、そういう。マーカが短剣の先で爪の汚れをほじりながら、淡々と答えた。
「建国当時、アーオノーイには女がほとんど生まれなかったのよ。だから、つかいすてできる男だけが戦うように説いたの。女は子育てをして、祖先のことを本に書き、言葉にして伝えよって」
その話は、市井の子どもならば昔話として聴くものだ。ウルティカは口のきけない乳母に育てられていたから、知らないらしい。
「今は女の数は多い」
「ずっと聖典に従ってきたから、今更かえようとするひとも居ないんでしょ。でも、今更聖典に従って異端に認定するっていうのもないわね。軍だって、最近は女も多いじゃない」
「それが気にいらんのだろ、修道院長は」
タークスは溜め息を吐く。フィロッサがなにかいうと、恍惚とした表情でしばらくかたまる。魔法の咽で兄を宥めたのだ。
マーカが短剣を鞘へ戻した。
「さてと。じゃあ、逃げますか」
ウルティカ王女がいった。「わたしは逃げない」
「どうしてよ」
「わたしは王女だ。わたしが異端の疑いをかけられて逃走したら、陛下に迷惑がかかる」
「ウルティカ、気持ちはわかるがわがままはいうな」
タークスが恍惚状態を脱した。「お前が逃げないとフィロッサも逃げない。そうしたら俺も逃げられない。フィロッサの為に逃げろ。陛下にはクソでも贈っておけ」
大変な不敬だが、ウルティカ王女はそれを咎めはしなかった。タークスがフィロッサにすべてを注ぎ込んでいることを知っているからだ。
「それに陛下はお前の兄貴だ。兄貴ってのは弟や妹の為なら死んでもかまわないと思ってるもんだからな。お前が逃げたら陛下は喜ぶ」
「だめだ」ウルティカ王女は頭を振った。「お妃さまがご懐妊された。今、ことを荒立てたくない」
タークスはああと呻いて、黙った。母親を出産で亡くしたウルティカは、こと、妊娠出産の関わる話になると、頑固でてこでも動かない。
重々しい沈黙のあと、フィロッサがやわらかくかすむような声を出した。魔法の咽を消費しない喋りかただ。
「異端ではないと、証拠を出せばいいのじゃない? タークスにいさん」
タークスがぱっとフィロッサを見た。心配げだ。「どうやって?」
「さあ……でも、実際、ウルティカはスフォレットと通じてなんかいないし、僕らもそうでしょう」
「フィロッサ、事実だけではどうしようもないこともある。なにしろ我らが王女さまは、僧達からきらわれてるからな」
フィロッサは視線をさまよわせる。マーカが窓に座った。「なにか、いい筋書が必要ね」
「そうだね」フィロッサが応じた。「ウルティカがなにも悪くないってことを証明しなくちゃ」
四人はしばらく目を合わせていたが、揃ってある方向を見た。
ウルティカ王女が査問室へ通される。査問室は、修道院の北の塔の二階にあった。そこは査問と拘束の為の、石造りの冷え冷えした建物であり、それ以外にはつかわれていない。
査問室は円形で、高い位置に天窓が幾つかあいており、細い出入り口がふたつあった。二階といっても、一階部分が非常識に天井が高い。階段はひとつしかなく、逃走しようと思ったらそこを強行突破するか、飛び降りるかしかない。飛び降りればよくて大怪我だ。
査問室内には横にひろい机があり、僧正達が座っている。票が割れた時に備え、その数は奇数だ。
ウルティカ王女はそこから離れた位置にある椅子に座らされた。武器の類は持っていない。寝間着のような姿で、逃走を防ぐ為に裸足だ。
僧正達のまんなかに居る修道院長が、机に置いた聖典に右手をのせた。
「王女、ウルティカ。あなたにはスフォレット王国の王家と通じ、我が国の情報をもらしている疑いがかかっています。質問には正直に答えるように」
「はい」
ウルティカ王女ははっきりと答える。
スフォレット人と会ったことはあるか? スフォレットに這入ったことはあるか? 魔境を越えたことは? 魔法の咽を持つフィロッサを利用したのでは? 道化師のタークスは万夫不当の強さだというが本当か? マーカがスフォレット人との混血だと知っていたか?
ウルティカ王女はそのすべてに、正直に答えた。疑いは晴れていないようだが、僧正達が少しだけ表情をやわらげる。
「なにかいいたいことはありますか?」
「フィロッサは陛下に忠誠を誓っています」
ウルティカ王女は修道院長だけでなく、順繰りに僧正達の目を見た。なかには、決まり悪そうに目を逸らす者もある。
「劇団員達に訊いてみるといいでしょう。フィロッサは怪我人をはげまし、兵達を奮い立たせる以外では、めったに魔法の咽をつかいません。そして、兵達を奮い立たせて怪物と戦わせるのは国の為、つまり陛下の為ですし、怪我人をはげますのも陛下の民を損なわない為です。彼は臣民として素晴らしい」
「では」
「待ってください。あなたがたはマーカを疑っているようですが、彼女は海で遭難したスフォレット人との間にできた子どもで、父親は彼女を捨ててスフォレットへ戻ろうとしました。彼女はだからスフォレットを恨みこそすれ、手を組もうとはしません」
「王女」
「それからタークスですが、劇団はわたしの専属になる前から全員が陛下に忠誠を誓っていました。それを主導したのはタークスです。タークスはまったく、王家や陛下に対して忠義が篤く、国の為に戦う男です」
「道化師が?」
僧正のひとりが口をはさみ、修道院長がそれを横目で睨む。睨まれた僧正は首をすくめたが、ウルティカ王女は彼に対して生真面目に答えた。
「タークスは宮廷道化師ですが、わたしと一緒に戦ってくれています。彼は生まれた時から戦っていたように強い。一軍の指揮官でさえ、試合をすればかなわないでしょう」
「試合だからかなわないだけで、怪物相手ではまともに戦えまい」
また、別の僧正がいう。ウルティカ王女は憐れむような視線をそちらへ向けた。
「試合だからタークスと勝負ができているのです。実際の戦闘だったら、タークスと戦っていることがわからない間に命を落とします」
「王女」修道院長が咳払いした。「あなたが優しい心で劇団員達を庇いたいのはよくわかった」
「庇う?」
「とにかく、その話はここまで。次の査問にはいる」
ウルティカ王女は口を噤む。
続く査問は、ウルティカ王女が王女に相応しいか、を調べるものだ。ウルティカ王女はじっと、修道院長を見ている。
「王女ウルティカ。あなたは辺境伯の城で育ちましたね」
「はい」
「そこでは、口のきけない乳母があなたを世話していた」
「はい」
「そのあとは、あなたは女でありながら戦いを学び、女でありながら怪物と渡り合い、女でありながらはしたなくも男達と行動をともにしてきた」
ウルティカ王女はそれにははいと返さない。はしたない、という部分が気にいらないのだろう。
「その言動から察するに」
修道院長は、効果たっぷりに間を置いた。彼は役者に向いているかもしれない。「あなたは聖典を読んだことがない。口のきけない乳母達では、あなたに聖典を読んで聴かせることはできなかった。そして、おそらく文字も学んではいないのではありませんか?」
僧正達が息を潜めた。
アーオノーイにおいて、女子は目が見えない場合と病気である場合を除いて、文字を読めないことはゆるされない。男子であれば妻や女性書記官を従えればいいが、女は自分で読み書きができないといけないのだ。
ウルティカ王女は普段、座付き作家やフィロッサに書記官のようなことをさせているし、本に親しんでいるという話もない。というか、彼女は本に興味がない。
そういったことを知っていて、修道院長は訊いているのだ。王家の女子が読み書きできないとなったら、大きな醜聞である。ウルティカは王女の称号を剥奪されるだろう。
僧正達はウルティカ王女の返事を待っている。身をのりだしている者もあった。
ウルティカ王女は、まったく普通の声でいった。
「なにをいっているのですか。わたしはアーオノーイの王女です。読み書きはできますとも」
修道院長はその答えを予測していたのだろう。手を叩くと、修道僧達が数人這入りこんできて、ウルティカ王女の前に小さな机を置いた。
その上に、紙とペン、インクつぼが並べられる。修道院長は二回、頷く。
「あなたが読み書きできないという噂は、以前からささやかれていたことです。はっきりさせましょう。そこに、聖典の最初の部分を書き出してください。王家の者なら聖典は頭にはいっているでしょう?」
もし、簡単な読み書きができたとしても、本に興味を持たないウルティカは聖典を覚えていまい、と、修道院長はそう考えているのだろう。
ウルティカ王女はペンをとり、インクつぼに浸した。反対の手で紙をおさえる。僧正達が黙ってみまもるなか、ウルティカ王女はさらさらと、ペンを紙に走らせた。
十分程たって、ウルティカ王女がインクつぼにペンをさした。
「できました」
修道僧達がさーっと走っていって、紙をとりあげる。それは、机の端の僧正の許へ運ばれた。
僧正は紙をとりあげ、ざっと目を通し、顔をしかめた。不満そうな表情で、隣の僧正へ渡す。渡されたほうも、すぐに表情が曇った。
そのようにして紙は移動し、修道院長の許へ辿りつく。修道院長はにこっとして目を落としたが、すぐに目を瞠り、口を半開きにした。
その隣の僧正が、無礼もかまわず紙をとる。「ふむ、これはなにも……」
彼はおそらく、なにも書いていない、とか、なにも意味のない文章だ、とか、なにを書いているかわからない、とか、そういったことをいおうとしていたのだろう。だが、その顎ががくっと落ちた。
彼は黙って、隣の僧正に紙を渡す。紙は端まで辿りつき、修道僧が回収した。その紙にはびっちりと、聖典の最初の部分が書かれている。
ウルティカ王女は修道院長を見ている。
「あまり綺麗な字ではない故、普段は座付き作家のティナや、詩人のフィロッサに代筆させています」
「あ……ありえない」
修道院長が震える声でいう。ウルティカ王女は軽く顎を上げた。
「ありえない? どうしてでしょう」
「あなたは聖典に触れていないではないか。何故内容を」
「なにをいっているのですか? わたしは宮廷へ参ってすぐ、書庫の本はすべて目を通し、聖典も最初から最後まで読みましたとも」
ウルティカの発言に、僧正達がざわめいた。そのうちのひとりがいう。
「で、では、王女ウルティカ。カファラ人への教え第三章第二十八節は?」
「“あなたがたが学んでいることはさいわいです。よき母、よき妻、よき娘は天からの贈りものですが、育むのは地の力なのですから。”」
ざわめきが高くなった。別の僧正がウルティカ王女に質問し、王女はそれに完璧に答える。そう云ったやりとりが数回続いた。
ウルティカ王女は物覚えがいい。だからこそ、三年の訓練で怪物と戦えるくらいに強くなったのだ。彼女は耳にしたことは八割がた忘れないし、目にしたものなら完璧に覚えている。
だから、彼女は本に、さほど興味を抱かないのだ。一度読めばすべて記憶できるから、二度三度と読む必要がない。
宗教問答の様相を呈してきたところで、修道院長が聖典から手をあげた。
「あなたが文字を書けるから、聖典を暗記しているからといって、その意味までわかっているとは限らない」
「おかしなことをいうのですね。それをいったら、わたし以外も皆そうではありませんか。読み書きができるとは、意味をなす文章を書けて、文字を読めることではないのですか。理解がどうなるのか、ひとによるのは、当たり前の話です。修道院長さまは、聖典の言葉をすべて正しく理解していると?」
理路整然と返されて、修道院長は黙り込む。
僧正のひとりがいった。
「聴いていた話と違う。ウルティカ王女は聡明なかたではないか」
「そうだ。読み書きもできぬ粗野な王女だと聴いて、査問に賛成したのに」
「わたし達まで呼び寄せて、このざまはどういうことだ、シュエイヨ?」
次々に僧正達が声をあげ、査問室にはあっという間に怒号がとびかいだした。ウルティカは呆れたように口を半開きにしている。
が、すぐに表情をひきしめた。
「修道院長、わたしは読み書きできますし、スフォレットと通じてなどいません。まだなにか疑いがあるのでしょうか?」
「それは……」
修道院長は震えていたが、ばっと立ちあがった。「あの女を捕らえて殺せ!」
その声に反応して、武装した修道僧達がなだれこんできた。ウルティカの書いた聖典の写しを持っている修道僧が、ひえっと叫んで机の後ろに隠れる。
ウルティカは素手だ。さすがに戦えない。
ウルティカの前にマーカがとび落ちてきた。
修道僧の棍棒を短剣でいなし、別の修道僧へ短剣を投げつける。マーカの狙いは正確で、修道僧はずるずるした服を床に縫い止められ、起き上がれない。
マーカが指笛を吹くと、査問室の西の壁が壊れた。
「おい、評決もなしにこれは、法に反するぜ、シュエイヨ僧正」
壁を壊したのはタークスだ。体は赤黒くなり、白っぽい炎で覆われていた。目と口からは、炎がふきだしている。声はひび割れ、おそろしく聴こえた。
「怪物!」
修道僧がタークスに棍棒を振り下ろす。タークスはそれを左腕で弾きとばした。棍棒を持っていた修道僧があおざめる。しかし、タークスは優しく修道僧へいった。「ああ、かわいこちゃん、あんなものをふりまわすにゃああんたは美しすぎる。火傷したくなかったらさがってるんだ」
修道僧は涙ぐんで後退った。武装しているほかの修道僧達もだ。タークスは上機嫌にいう。「いいこだな。俺だって美しいものを傷付けたくない。なあ?」
「ばかいってないで、そいつを見張っててよタク」
マーカがそういいながら、ベルトから剣をさやごとぬいた。「ああ、重たかった。ウルティカ、はい」
「ありがとう、マーカ」
ウルティカ王女は剣をうけとって、にっこりした。マーカは短剣で爪をほじる。
「そろそろフィロッサが来るわ」
「見付かったのか?」
「あのこおかんむりよ。あたし、知らないからね」
ウルティカ王女の質問には答えずにマーカはそういい、ぽいと短剣を投げた。ウルティカに近付こうとしていた修道僧が、またひとり、床に縫い止められる。
そして、おそろしい声が響いてきた。
それは、僧正達にはおそろしいものではない。寧ろうっとりと、ききほれてしまう声だ。フィロッサが小型の竪琴を手に歌っている。それがゆっくりと近付いてくる。
「やあ」
声と演奏が途切れ、フィロッサが崩れた壁の向こうに姿をあらわした。その後ろには、僧正の服を着た男がいる。いや、修道僧達にひきずられてやってきた、が正しいか。
フィロッサが微笑むと、タークスの炎がやわらいだ。しゅっと音をたてて炎が消え、タークスの炎でも燃えない特別製の服を着た、いつものタークスに戻っている。
「フィロッサ、ひとりで大丈夫だったか?」
「うん。タークスにいさん」
フィロッサは懐から紙をとりだし、掲げた。
「ほら、すべて話してくれたよ。ヤーカッツ前王は、娘を殺して息子を廃位し、玉座に戻ろうとしていたんだって」
場が静まりかえる。
ひったてられてきた男が、フィロッサの前に放り出された。男を運んできた修道僧達ははっとして、自分がどうしてこんなところに居るのかわからない、とでもいうような表情になっている。
修道院長が腰を浮かした。「動くな」
タークスが釘を刺す。その体がまた、赤黒くなり、炎をまとっている。
「動いたら殺す。弟の話を遮っても殺す。わかったら座ってじっとしていろ」
修道院長はあおざめて、椅子に座り、息を整えている。
ウルティカ王女がぺたぺたとあしおとをさせて、フィロッサへ近付いていった。
「事実なのか」
「うん。ヤーカッツ前王は、譲位してから愛人ができて、小さな息子が居るそうだよ。その子に王位を継がせたくて、弟と一緒になってウルティカを査問にかけ、陛下もひきずりおろそうとしたんだ」
ウルティカ王女は立ち停まり、床に這いつくばる男を見る。
その男は、ウルティカ王女にかすかに面差しが似ていた。
「会うのは初めてですね、父上」
ヤーカッツ前王は喚いた。ウルティカが生まれたことで妻を失い、どれだけつらかったか。その時に助けてくれたのも、いま助けてくれるのもシュエイヨだけだ。子どもは愛人に生ませた子以外可愛くない。そんなようなことを。
フィロッサが冷たい目をそれに注いだ。「喋るな」
ヤーカッツ前王が口をぱくぱくさせた。声が出なくなっている。
フィロッサは、今のヤーカッツ前王の言葉は忘れるようにと命じ、そのようになった。
ヤーカッツ前王はまだ、口をぱくつかせている。声が出ないことには気付いていて、どうやら声を戻せといっているらしい。フィロッサはそれを見下ろし、ウルティカ王女へ近付いていって、並んだ。
タークスが炎を消し、弟の側まで行く。マーカも爪をいじるのを辞めて、ウルティカ王女の傍へ行った。
「さて、僧正達」
ウルティカ王女が机を見た。「フィロッサが持っているこの紙には、ヤーカッツ前王の署名がある。これは、公文書です」
「ヤーカッツ前王の復位権を剥奪することについての決をとりたい」
僧正のひとりが静かに云った。「玉座を降りてからもうけた子の、王位継承権の有無についても、話し合おう」
フィロッサが満足そうに頷いて、ウルティカの手をとった。壁があったところから風が吹き込んでくる。
すぐに決がとられ、ヤーカッツ前王は生涯にわたって復位できなくなり、その愛人との間の子どもにも王位継承権は存在しないと結論が出され、書簡が宮廷へ送られた。
全会一致でだ。その前の採決で、シュエイヨの僧正としての権限が一切停止されたから。
「あまり気分のいい結末じゃないな」
タークスがぼやいている。マーカが爪を掃除しながらそれに応じた。
「そもそもウルティカを査問にかけるっていうのがおかしな話なんだから、気分のいい結末が来る訳ないでしょう」
「そうかもしれないけど、フィロッサが怒ったのが可哀相じゃないか? フィロッサは笑っているのが一番可愛いんだから」
タークスは枕にしているフィロッサの膝を撫でる。フィロッサはまた、ぼそぼそとなにかいい、タークスは笑う。
ウルティカ王女が幌をめくって外を見、欠伸をした。
「魔境は相変わらずらしいなあ。アースィファのように、怪物どもをおさえこめていられたらいいのに」
「高望みはよせよ。魔境があるから俺達みたいに強い人間も居るんだぜ」
タークスがのんびり返した。マーカの人間離れした身軽さ、フィロッサの魔法の咽、タークスの炎、ほかの団員達の不思議な力も、すべては魔境からもたらされたものだと、そんなふうに考えられている。
「今度は、ティナには休んでいてもらおう」
「そうね。ヤーカッツ前王が関わっているのじゃないかって推理したのはティナだもの」
「隠れ家も見付けてくれたし」
「ティナが筋書きを書いてくれたものね」
「さすが、座付き作家」
「ティナ、今度は治癒にまわるだけでいいぞ」
「だめですよ」
わたしは苦笑いして、姿をあらわした。
「わたしは陛下に忠誠をつかっているんですから。フィロッサの魔法の咽も効かないわたしが、ウルティカ王女のかげとなって、いつ何時でも傍に居る、おまもりするって」