第2話
「父上が私を?」
広げていた兵法書から目を外し、ライカは今しがた部屋に入ってきた侍女らに目を向ける。
場所は帝国の東、ネイガロート領の領主邸にある書庫。何百万冊という大陸の中でも指折り蔵書を誇る大図書の床に座っていたライカの周りには、その小さな体躯に似合わない大人でも難解な書籍が積み重なっていた。
「ちょうどいいところだったんだけど父上がお呼びなら仕方ありませんね」
ライカは軍法書を閉じてゆっくりと腰を上げた。
「父上を待たせるわけにはいかない。その最中に死なれでもしたら流石に目覚めが悪くなるからね」
不謹慎な冗談であったが、そんなライカを諌めるものは誰もいなかった。別段領主子息であるライカを恐れているわけでもない。ライカはよく言えば素直な性格であるが、逆に言えば非常にひねくれた性格でもあり、例え不謹慎であろうがなんであろうが、場をわきまえずに率直な意見を口にする性質だった。
それが分かっているからこそ、侍女たちも何も言わなかった。何か言ってもからかわれて言いくるめられるのは分かっていた。
ライカの父でクラウン領の領主、ヨイン・クラウンは3年前年から重い病に侵されていた。多くの医者がヨインを診察したが、目立った回復は見られなかった。ある医者がヨイン自身に病気を治す意思が感じられないため、どうすることも出来ないと話していたのをライカは知っている。
心の病を併発し、死に急ぐ父を見るのは流石のライカも胸が痛み、そしてまだ若いにも関わらず死のうとする父に対する疑問が湧いていた。床に伏せる父の満足そうな顔を見るたびに、その疑問は大きくなっていた。
「まだ生きていますか父上?」
ヨインの病室に入ったライカはしかしながら傍若無人な振る舞いを隠さない。例え本人が望んでいるとしても病人、それも実の父に遠まわしに死ねと言う態度は尊敬の欠片も感じさせない。天蓋付きの豪勢な装飾が施されたベッドに横になっていたヨインはゆっくりと首だけをライカに向ける。40代後半にも関わらず真っ白に変わってしまった髪、そして全く健康そうに見えない細々とした体。とてもこの人物が十五ある帝国領の中で一、二を争う規模のクラウン領を纏めていたとは思えない。
「お前の不躾な物言いもとうとう直ることはなかったな」
「何を言います。当人が直す気が無いのだから、直らないのも当然でしょう」
その場にいた侍女や医者の全員が息を呑んだ。ライカが言っているのは自分だけのことではない、今の領主の状態も含んだ皮肉であることは誰もが分かった。
しかしその当人は特に気にした素振りを見せず、逆に満足そうに弱々しく微笑む。
「それも……そうであろうな。それこそがお前がクララから受け継いだものなのだろう」
ヨインの言葉にもっとも大きな反応を示したのはライカの乳母であった。それ以外の者、ライカを含む者達はヨインが発したクララという人物に心当たりが無いのかきょとんとした表情をした。
いや、ライカにはそのクランという人物がどういった人物なのか推測は出来ていた。ライカには母がいない。幼少の頃は乳母や侍女らに囲まれて育てられ、たまたま書庫で読んだ本に興味を持ち、知らず知らずの内に本の虫に育った。
今こそ知力なら大人顔負けで物の分別もつくライカはあるが、当然物心つく前に何故自分には母親がいないのかと疑問に思い、それをヨインに尋ねたことがあった。
そしてその問いに対してヨインは何も答えなかった。死んだのか、と尋ねてもヨインは肯定も否定もしなかった。ただ黙って、ライカのことを見つめていた。
ライカが誰かのことを怖いと思ったのはそれが最初で最後だった。
それ以降、ライカは母親の話題を口に出す事は無かった。生きていようが死んでいようが、もう確認してはいけない。自分の母親という立場には最初から誰もいなかったのだと思い込んだ。
だからこそ、今ここで母の名を出した父に戸惑いを隠せない。
「ライカ、お前は母に会いたいか?」
ヨインの意図がつかめず、ライカは眉をひそめる。
「それは私の母が生きていると受け取って良いのですか?」
「そう……だな。お前の母親は名をクララ、クララクランと言い、クララクランは確かに生きている」
「クララ……クラン……?」
復唱するライカは目を丸くした。クララクラン、その名前に聞き覚えがあった。
「まさか皇帝陛下のお后、クララクラン皇后?」
「お前には私とクララの血が流れている。お前のその不躾な物言いはクララによく似ている。彼女はどんなことにも恐れず、どんな相手に対しても平等な態度で接していた」
目を閉じ、ヨインは感慨深く言う。
「もう一度問う、お前は母に会いたいか?」
病気で床に臥せっているにもかかわらず、ヨインは覇気のこもった口調で言う。その勢いにライカは幼い頃に自分を見つめていたヨインを重ね、ほんの一瞬だけ怯んでしまう。
母親が皇帝の后であるならば、ヨインが言い渋った理由はライカには想像が出来た。ライカを生んだ後に、母であるクララクランが皇帝陛下に見初められたのだ。そう考えれば、ヨインは皇帝陛下に妻を奪われたことになる。
しかし権力の違いゆえヨインは苦渋を呑むしかなった。だからこそライカに何も教えなかった。幼いライカに教えるわけにはいかないというのもあったのだろうが、教えること、自らの口で語ることで、自覚してしまうことを恐れたのだ。
だがそうであるならば――逆にライカの疑問は晴れない。何故死に際になって、自らの汚点をさらけ出そうとしているのか理解できなかった。死に際であるからという理由だけではライカにはヨインの行動が納得できなかった。
故にライカは察した。自分は父に試されているのだと。
「……いいでしょう」
満足そうに微笑み、ライカは告げる。
「私に何をさせるつもりか想像も出来ませんが、いいでしょう。私は母に、クララクランに会いたいと思っています」
受けて立つ、そう告げる。
「ならば、明日の朝直ぐに帝都へと発つのだ。そしてお前はそのまま帝都で暮らせ。何、話なら既についている。お前の学府編入手続きも既に終わっている。おや、どうした。浮かない顔だな」
「……いえ、私の不躾な物言いは母からの物かもしれませんが、ひねくれた頭はあなた譲りなのだと思いまして。なるほど、やられてみるとこれほど苛立たしい事は無いですね」
何もかも父親の思い通りだったというわけである。いい道化師だとライカは自身を嘲笑した。だが、イラつきはするものの不思議と嫌な気分にはならなかった。
はたしてこれから自分にどんな事態が待ち受けているのか、楽しみでしょうがなかった。
「そのようでしたら父上、私は出立の準備をせねばなりませんのでここで失礼させていただきます」
一礼してライカはあっさりとした態度で踵を返す。
「待てライカ」
退出しようとしたところでヨインが呼び止める。
「お前にとって真実とは何だ?」
「何の話だか想像も出来ませんが、私は私の信じるものを信じるのみです。故に私の真実とは絶対的ではなく相対的なもの。私が信じるものこそ真実です」
「それでいい。その心を忘れるな。そうすればお前は真実の奥底にあるもの、それを見抜き、全てを知る事が出来るだろう」
ヨインは顔をライカから逸らし、真上を見つめた。その横顔は終始満足そうに笑っていた。
「肝に、命じておきましょう」
淡々と言葉を吐き、ライカは部屋から退出する。廊下に出て、近くの壁に背中を預ける。
ヨインの顔はとても満足そうであった。言葉にこもった勢いといい、とてもこれから死ぬ人間にはとても思えない。そう言えば何故ヨインが死に急いでいるかは結局理解できなかったとライカはこの時になって気が付いた。
しかしもう手遅れなのは分かっていた。もうそんな時間など存在しなかった。
ライカがそう心の中で呟くのと同時に、部屋の中から数人の騒ぎ声が響いてきた。
「最後の最後になんて言葉を投下してくるんですか、父上」
天を仰ぐようにライカは顔を上げた。
真実の奥底を見抜き、全てを見据える。
それはつまり先ほどの話が全てではないということだ。故にまだライカは真実の一旦は知っていても、全ては知らない。そして全てを知らなければ、真実は真実足り得ない。
そして全てを知るための鍵は帝都にある。
―まったく厄介な人物の血を引いたものだ。
自分の出自を呪いながら、ライカは火中の栗を拾う思いで帝都へと向かう支度を始めた。