第15話
クラティナが去ってしばらく、ロキシートがいる広場には多くの人の姿があった。皆ロキシートに健康診断を受けに来た患者たちだ。
通常の三分の一の価格で、それもより効果が高い薬を扱っているロキシートに下町の人々が振り向かないはずがなかった。週に一度のロキシートの青空診察では下町総出の行事になりつつあるほどだった。
患者の男性はロキシートに深々と頭を下げると、満面の笑みで帰っていった。今の男性で並んでいた列はなくなった。元々一昨日来たこともあり、また女王の演説を見に行っている人もいるのだろう、いつもより人は明らかに少なかった。
まだ女王の演説は終わっていないようだが、患者はこれ以上来る様子も無い。一瞬、見に行こうかという考えがロキシートの頭を過ぎった。しかし直ぐにそれを振り払うように頭を左右に振る。
「先生」
そんな時、背後から声をかけられる。見ると男性が一人、浮かない顔で立っていた。その顔を見てロキシートは今から起こる話題の内容をある程度推測した。
「これはクリンストンさん。もしや奥さんのですか?」
男の名はヨハネ・クリンストンといい、今ロキシートがもっとも気にかけている患者であるミリア・クリンストンの夫であった。
ミリアはその胎内に子供を宿している。新たな命の誕生というのはロキシートもあまり多く立ち会ったことはなく、毎週母体の様子を心配するヨハネとそれを陽気に跳ね返すミリアのやり取りは印象的であった。
しかし、そのヨハネが浮かない顔で、それも一人でロキシートを訪ねた。それがロキシートに嫌な予感を伝えていた。
「えぇ昨日の夜、急に陣痛が始まりまして、早産ではあったんですが何とか明朝に出産は無事終わりました」
出産は無事に終わった、だがその言葉とは裏腹にヨハネの表情は暗い。それが何故か、ロキシートには心当たりがあった。起きてほしくはなかった最悪の可能性として頭に残っていたその一つが、頭の中で激しく主張を繰り返す。
自然とロキシートは周囲を見渡し会話を聞いている者がいないか確認をした。幸い広場に人は残っているものの、こちらに気を向けているものはいなかった。
「先生が言っていた……最悪の事態が起きました」
ヨハネも周囲に聞こえないように声を小さくする。
「では……やはり?」
座っていたロキシートは顔の前で手を合わせた後、恐る恐る尋ねる。
「はい……生まれた子供は災厄の吉凶、双子でした」
ロキシートは思わず天を仰ぎたい気持ちにさらされた。
†
《先日のファフニールでの出来事については、皆様の耳にも届いていることだろうと思います》
顔の前に設置してある拡声器に向かい、レイナが声を張り上げる。そのレイナの視線の先、キスカの中央広場には何万人にも及ぶ人々の姿があった。その人だかりは、まるでそれが巨大な生き物であるかのような錯覚を与えていた。
しかしそれらの意思は一つではない。様々な感情が込められた視線がレイナへと向けられている。
演説を始めたレイナの傍で護衛として控えているヴィントも、その聴衆からの様々な視線を浴びていた。興味関心、期待や不安などが入り乱れる視線の中、しかしヴィントの意識はそれらに構っている暇はなかった。
多くの視線の中には当然、レイナに対して負の感情が含まれているものも存在する。国民全てに愛されている王など理想でしかなく、また若い女王ということで未だにレイナの即位に反対する団体も存在する。
その類の視線の中に、ヴィントは自身の感覚に格別に訴えてくるものがあることに気がついた。それは今までのレイナに対する不満感などの生易しいものではなかった。明確なる憎悪、殺気と言ってもいい。その感情が確かにこの大衆の中から発せられている。
演説を止めさせるべきである事は明らかだった。もしここで強行してレイナを殺害されてしまうのは最悪の事態だからだ。しかし、ヴィントもそう簡単には動かなかった。
ヴィントはレイナの隣に立っているハインズに目を向ける。レイナという王族がいなくなったリア王国はハインズが代理で代表を務めるだろう。そしてそのハインズは、帝国とつながっている可能性がある。しかし憮然としたその表情からは、この大衆をどのように見ているのか察することはできない。
はたしてこの殺気はハインズの息がかかった者なのか。そうでなくとも、この隠す素振りを見せずに殺気を放つ意図は何か。
何も危険を冒してまで演説を完遂する必要は無い。命がなくなってしまってはどうしようもない。だが、もしそれがハインズの策略であったならばどうだ。
当然演説を中止した理由を大衆に馬鹿正直に話す訳にもいかない。女王の命が狙われていたなど、可能性の中では思っていても実際に明言されれば国民は不安に駆られてしまう。
だからこそ他のもっともらしい理由をつけるのだが、それでも演説の中断はレイナに対する不信感を少なからず生む。
その場合大衆の中で誰か―仕組まれた人間―が声を大にしてレイナの不満を口にしたらどうだろうか。小さな不信感は増幅し、やがて大きな反発を生むことになる。国が一つにまとまらなければならない中、その状況は避けなければならない。
だがもしそのようにハインズが考えていたら――もし、が続く妄想と言われても仕方が無い考え。しかし、今のヴィントの行動を制限するにはそれで十分だった。
今のヴィントに出来る事はこの演説が何の問題も起こらず終わることを祈ることだった。当然レイナに襲い掛かる刺客がいた場合には確固たる対処をする。下手すれば惨劇が起こるかもしれないが、それは仕方が無いと割り切るしかない。
《……であり我々リア王国も選択を迫られている状況にあります》
レイナの演説は中盤に差し掛かっていた。しかし内容的には帝国とリア王国の現状を民衆に説明をしただけの、ある意味前座。本命はその後だ。
《この状況に際し、我々は一つの決断を下しました。ファフニールが陥落した今、帝国の次の標的は我々リア王国です。我々はその帝国に対し、徹底抗戦に出る意思をここに表明します》
レイナの宣言に、広場にどよめきが広がる。
帝国に対する明確な拒否の姿勢。先日の議会で決定したことである。帝国に侵略された国の民は抵抗しても投降しても奴隷のように扱われるとの報告が出ている。ならば大人しく投降する訳には行かない。そう訴えたのは他ならぬレイナであった。
殺気の主が仕掛けてくるならばここだ。僅かにともった不安の火に油をまくとすればここしかない。なによりこの宣言のタイミングをハインズから知らされているならばなおさらである。
身構えるヴィントに対し、広場からの殺気は確かに変貌を遂げた。
しかしそれはヴィントの予期するものではなかった。先ほどまでの憎悪の塊、その殺気は完全に消え失せてしまったのだ。急に錘を外されたような開放感に思わず拍子抜けしそうになってしまう。上手く隠れたのかと警戒するが、何故このタイミングでなのか理解が出来なかった。
そんなヴィントを置き去りにするかのように、広場では歓声が巻き起こった。レイナの演説に聴衆が賛同の意思を示したのだ。
この反響はいい意味で予想を裏切っていた。戦争を経験したことの無い国の民が、今や大陸最大の国に啖呵を切る。批判の声が上がる心配の方が多かった。だがリア王国の国民はレイナを支持した。小魚が鯨の群れに立ち向かうような愚かな行為ではあるが、確かに立ち向かう意思を皆が口にした。
その様子をハインズは静かに見つめている。ハインズにとってこの結果がいいものかどうか、それは定かでは無い。
議会の時ハインズは立場を明確にしなかった。抵抗した時の被害と勝算を重く受け止め、しかし易々と奴隷になるわけにはいかないという狭間で揺れていたと噂で聞いた。
だが本人の口からは一切何も語られていない。その何を考えているか分からない態度、それがヴィントは好かなかった。その時、頭にハインズでは無いもう一人の人物の顔が浮かんだ。ハインズと同じ、いけ好かない男の顔だ。
嫌な気分になりハインズから目を逸らそうとした時、ハインズがヴィントに目を合わせてきた。そしてあろうことか、口の端を僅かに上げる。
「っ!?」
しかし、そのニヤリとした表情は一瞬で消え、マントを翻しコリンを連れて悠然と王城へと戻っていった。その後姿を、ヴィントは呆然と見送った。耳には歓声が聞こえ、視界の隅では民に手を振るレイナの姿が映っていたが、思考はそれどころではなかった。
自分だけ除け者にされているような気分が襲ってきた。