第14話
演説台が用意されたバルコニーの奥にある部屋で、レイナは演説の内容を何度も頭の中で繰り返していた。といっても当然丸暗記したものを喋る事はしない。そんなものを聞かせたところで国民に思いが届くわけがない。あくまであらすじとして叩き込んでいるのだ。
そんなレイナの様子を、ヴィントは部屋の入り口の傍で控えながら見ていた。今回の演説はリア王国が帝国に対してどう対応していくかをはっきりと表明するものだ。それ故にこの演説如何でリア王国の立場はガラリと変わってしまう。
近衛騎士としてのヴィントの職務は当然の如くレイナを守ることである。リア王国の立場とは女王であるレイナの立場という意味でもあり、演説の結果によってレイナの命が狙われる危険性もある。
子供の頃に何があっても味方すると誓い、それを遂行するためにファフニールに留学して近衛騎士になったヴィントにとって見れば、ようやくその誓いを守る機会が訪れたことになる。
しかしそのヴィントの心には黒いもやが掛かっていた。一つは自分が活躍するという事はレイナが危険に晒されるということであり、その意味で自分が活躍する機会が無い方が当然平和だということだ。そして二つ目―これが最も重要であるが―レイナが守るに値する人物かどうかという点である。
今ヴィントの目の前にいるのは紛れもなく幼い頃に出会ったレイナ・マルクスブルク本人である。そのレイナに、ヴィントは誓いを立てた。しかし近頃のレイナは何か変わってしまった。その何かを説明するにはヴィントには語彙が足らなかった。ただなんとなくの感覚がヴィントに何かを告げていた。
少々堅く頑固で、冗談にムキになって反論してくる生真面目な性格は昔のままだ。リア王国の繁栄と平和を願っているのも確かだ。先代が死去して若いながら即位し、自分の倍以上の年齢の大臣を相手にする重圧に負けないように必死に頑張っている。
どれもヴィントの知っているレイナだ。レイナのはずである。しかしそう心に言い続けても、ヴィントの心は晴れなかった。
―俺の知っているレイナならばファフニールを見捨てたりなどするはずが無い。
その思いがヴィントの意識を覆い続けた。戦略的にファフニールに援軍を送ることがプラスに働くことがないのはヴィントも分かっている。だがそれであればファフニールの要人をリア王国に招き入れるなどの手段があったのでは無いか。リア王国は完全にファフニールを見捨てた。ご丁寧に断りの書状を送ったほどだ。
そしてなによりヴィントの納得がいかないのは、それもこれもすべてが執政官であるハインズの進言だったことだ。先代の友人であり信頼が篤く、何よりレイナにとっては即位の際に多く上がった反対の声を鎮圧してもらった恩があり、一歩引いた態度になっている。
しかしそれすら女王であるレイナに恩を売ったと考えれば、それはあの男の策略なのではないか。事実、今のリア王国はハインズの手中にあるのだ。
「失礼いたします」
思考に耽っていたヴィントは傍らのドアが開かれたことに僅かに体を震わせる。
「陛下。ルベルマン卿がお見えになられています」
入室した侍女は一礼の後、レイナに向けて言う。
「シュナイザードが?」
侍女の言葉にレイナはハッとした表情をする。そしてしばらく逡巡した後、「通してください」と小さく呟いた。
先ほどの侍女に連れられて男が一人、部屋へと入ってくる。リア王国の中でも名門貴族であるルベルマン家の家紋がついた派手な赤い礼服に身を包んだ男は、レイナに向かい深く一礼する。
「ご機嫌はいかがでしょうか女王陛下?」
そして甘いマスクに爽やかな笑顔で、挨拶を述べる。
シュナイザード・ルベルマンは名門ルベルマン家の嫡男であり、レイナの許婚でもある。ルベルマンは王族とは密接な関係があり、建国当時から王族を支えてきた貴族の中でも最上位の家系である。
またリア王国一の商人の家系としても有名であり、クロニエル鉱山関係の書類の殆どにルベルマンの家紋が捺印されている。そしてこのシュナイザードもそんな商人の血を引いており、二十後半の年齢ながら業界ではやり手の商人として名が売れている。
整っている容姿、冴える頭、貴族という権力に、商人という財力。マイナス要素を探す方が大変なタイプの人間である。
「そのドレスに合っているよ。やはり君には白が相応しい」
今のレイナは演説用に白のドレスを身に纏っている。余計な装飾が施された服を好まないレイナではあるが、こういった公務の際は甘んじて身につけているものだ。
「シュナイザード、今日は一体どのような用件で?」
好きでも無い服を褒められたこともあり、レイナの口調はやや刺々しいものがあった。もっとも、それがなくてもレイナがシュナイザードを内心避けているのは、この二人のやり取りに対面した者ならば大半が気付く。一向に気付く様子が無いのはシュナイザードだけであろう。
「未来の夫が妻の晴れ舞台に来ることに何か理由が必要かい?」
「い……いえ」
ヴィントとしては今すぐ耳栓が欲しいところだったが、残念なことにそんな用意は一切していなかった。それからシュナイザードが再三甘ったるい言葉を吐くがその都度レイナが困り果てた声を返し続けた。
「まーたやってるよ」
耳栓を持っていないことを心底後悔し始めた時、ため息交じりの声が聞こえた。
「これは、アイザック騎士団長」
ヴィントは声の主を見た途端に、緩みきった心を引き締め姿勢を正す。その人物、アイザック・マルクケインはその巨体に似合わない苦笑いを返す。
「よせよせ、確かに地位で言ったら俺はお前の上官になるが、お前に命令できるのは陛下お一人だけだ。そうかしこまるな」
アイザックは顎を摩りながら言う。アイザックはヴィントの父から騎士団長を引き継いだ経緯があり昔からの知り合いであった。流石に騎士としては先輩に当たるため、上下の関係をはっきりしようとするヴィントだったが、アイザックはいつもそれを煙たがっていた。
確かに近衛騎士という立場は騎士団に属してはいるが、その命令権は王にあり、独立していると言える。だがそれを考えても、ヴィントには尊敬する騎士であるアイザックには敬意を払うことを止める気は無かった。
「それよりもルベルマン卿だ。あんなぞんざいな対応をされても気にする素振りすらないぞ。普通心が折れるだろ」
ことがことだけにアイザックの声は小さかった。目の前では未だレイナがシュナイザードの話に適当な相槌を打っていた。
シュナイザードがレイナを訪ねる時、その護衛は殆どアイザックが受け持っている。入り婿と言えど将来の王家になる立場の人間だからこそ、団長であるアイザック自らが護衛をしており、その都度この二人の会話をアイザックと流し聞きしなければならないのだ。
そんなに嫌ならば入室を断ればいいのにと思うのだが、やはり許婚というのは扱いが難しいらしく、また許婚を決めたレイナの父親が死去した今とあっては、レイナも強く出づらい事情があった。唯一出来ることが、素っ気無い態度を示してシュナイザードに諦めてもらうことなのだが、その効果は一向に見える様子は無い。
「そういえばヴィント、少し内々な話なんだが」
口に手を当て、アイザックはより一層小さな声で言う。怪訝な顔をするヴィントだが、自然と耳をアイザックに寄せる。
「ハインズ執政官が怪しい動きをしているらしい」
「ッ!?……それはどういうことですか?」
一瞬息を呑んだヴィントだが、直ぐに切り替えて慎重な口調で尋ねる。
「どうもどこかと密書のやり取りをしているとの報告がある。残念だがどこかに送る密書としか分かっていない。だが、それでも最悪の事態は考えておく必要はあるだろうな」
「まさか帝国ッ!?」
一つの答えに行き着いたその時、ヴィントの耳に鐘の音が響き渡った。城の天辺にある鐘が十一時を告げたのだ。この鐘の後レイナが演説を行うことになっている。いつの間にかにそんな時間になっていたのか。
「シュナイザード、申し訳ありませんがもう時間が」
「おっとそうだったね。これは申し訳ない。それじゃあ僕はここで失礼しよう。なに、ちゃんと君の姿は見ておくから安心しておいてくれたまえ」
シュナイザードは大げさな振る舞いを見せ、最後に胸を張った。
「あ、ありがとうございます」
哀れだなレイナ、と思ったが口には出さなかった。
それからシュナイザードはアイザックを引き連れて部屋を出て行った。去り際、アイザックはヴィントに目配せした。無言でも分かる、用心するに越した事は無いということだ。
「ハァ……」
シュナイザードがいなくなったのを確認してから、深いため息をついて椅子に座り、レイナは辛そうに顔に手を当てた。アイザックからもう少し話を聞きたかったところだが、そちらは騎士団に任せることにする。自分の職務はレイナの護衛であり、支えになることだ。
「演説は大丈夫そうか?」
「えぇ、こうなる覚悟はしてましたから……なんとか」
目に見えて辛そうではあるが、ヴィントにはかける言葉が思いつかなかった。演説を止めさせるにしてもレイナ自身が拒否を示すことは明白であり、だからといって何かレイナの肩の荷を軽くさせる方法も見あたらなった。
―支えになると言っておきながらこの様か。
ヴィントは自身の無力さをかみ締めざるを得なかった。