第10話
ファリナは現皇帝の一人娘である。唯一の跡取り、しかしそのファリナには一人の兄がいる。それがこのふざけた男、ライカ・クラウンだ。
異父兄妹であるライカとファリナが出会ったのは十三年ほど前だった。当時、帝国最大の領であるクラウン領の領主、ヨイン・クラウンが死去した。ヨインはまだ若く、息子も十歳になったばかりであったため僅かな騒ぎはあったものの、ヨインの弟が領主になることが決まり、事態は収まったかに見えた。
しかしその裏では領主選定以上の問題が引き起こっていた。それがヨインの息子であり、王妃クララクランの血を引いていると噂が立ったライカの処遇である。
そしてそのクララクランがライカの引取りを申し出たのだ。王族の血を引いていないライカは厳密には王族に向かい入れる事はできない。だがそれでも頑なにライカを引き取ろうとしたクララクランに、夫で皇帝のケイロス・ノイシュヴァンシュタインが折れ、ライカを客員貴族として引き取ることが決まった、という一連の流れをファリナが理解したのはこの出来事が起こった大分後になってからだった。
当時は突然生まれた一歳年上の兄に何が起きたのかさっぱり分からず、またライカも既に今の性格が完成されており対処法が分からず仲良くなるどころか会話も殆どしなかった。
そんなファリナは、ライカという兄と親しくなったきっかけを今でも鮮明に覚えている。
当時ファリナは勉強が大の苦手であり、さらにその日は丸一日使った定期テストの日であり、嫌々受けた結果は散々だった。家庭教師にこっぴどく怒られ、使用人にも冷たく接されたと感じたファリナは、泣きながら図書館に引きこもった。そこでファリナは本の山に囲まれているライカに出会った。
当時ですらライカは遊びで受けた役人の試験において、非公式ながらトップの成績を残しており誰も教育をしたがらないどころか、誰も近づこうとすらしなかった。だからライカはいつも図書館にこもっており、なんだか難しい本を読んでいた。
そんなライカはファリナが泣いていたところ、「どうしたの?」と聞いてきた。素直に勉強が出来なかったことを告白すると、ライカは笑ってファリナの頭を撫で「じゃあ君の代わりにその問題を僕が受けようじゃないか」と言い図書室を出て行った。
翌日、家庭教師が急遽変更されることになった。ライカが何かをしたのは幼心でも理解できた。事実、ライカはそのスパルタ女性教師を問答により、心をへし折るほど完膚なきまでに叩き潰してしまったのだ。
そして気付けばファリナも図書館に入り浸ることが多くなった。勉強は未だに嫌いではあったが、ライカに尋ねれば分かりやすい答えが返ってきたため、前ほど苦に感じることはなかった。はたしてそれを懐いたといえるのかは疑問が残るが、ライカとの仲が深まった瞬間であると認識していた。
しかし、そんな本の虫とも言えるライカは今ではただの嫌味な女垂らしに堕落になってしまった。ファフニールの総合学府への留学から帰ってくると、もうこのようになっていた。
気安く話しかけられると考えれば進歩と言えるだろうが、ところ構わず女性に声をかける姿には昔の面影はまったく感じられなかった。
「だったらその妹の目の前でだらしない姿は晒さないでくれる、お・に・い・さ・ま!?」
「止めてくれ、君にお兄様なんて言われたらいい夢も見られなくなるじゃないか」
冗談なのかそうじゃないのか分からない言葉だ。常にニヤついた表情なので、何が本心なのかがまったく掴めない。
「どうでもいいけど本当に仕事を全部すっぽかしたわけじゃないでしょうね?軍事局の副局長がそんなことしていいと思ってるの?」
「そうは言ってもね、君も知っていると思うけど僕の仕事なんて殆ど無いんだ。副局長なんていないも同然さ。デューク局長が一人いれば軍事局は十分やっていける」
「ずいぶん局長の肩を持つのね」
「だってそうだろ?彼が今の帝国の侵略の要なんだからさ。いや、もう既に軍事局だけじゃない。行政の全て、帝国という国が彼の息がかかってると言ってもいいね。まったく、こんな広い国を自由奔放に扱えるんだから大したものだよ」
ライカは嫌味に聞こえない笑いを上げる。
昨今の帝国侵略の立役者にして元凶。帝国軍事局局長、別名最高軍事顧問デューク・ノゲイラ。その名は今や帝国の中で英雄に近い扱いを受けていた。その影響力は帝国全土に広がり、軍事局局長という地位を飛び越え、国政にすら口を出すほどであり、ライカの言う通り帝国を裏で支配していると言われるほどだ。
ファリナも立場上何度か顔を合わせており、デュークの人となりを分かっているつもりだ。その第一印象にして決定的な物が、激しい嫌悪感であった。
デュークは元々帝国の人間ではなく、七年ほど前、ちょうど母であるクララクランが死去した当時に、帝国に対し新型の兵器を売りに来た一介の商人であった。軍事国家である帝国はその兵器に惚れ込み、そして皇帝であるケイロスと意気投合したデュークを軍事局の一員に向かい入れたのだ。
傲慢で自尊心の強い、決して人当たりの良いとは言えない性格、逆に人を寄り付かせない一種の危ない雰囲気を醸し出している人物なのだが、その能力は極めて高く、帝国の人間としてもまだ新参であるはずにも関わらず、実質的に帝国を牛耳る存在になっている。
「それは……分かっているわ」
口惜しく言葉が出た。これまでの経緯を考えればデュークがどんな人物であれ、人として高い能力を持っている事は分かっているし、父親で皇帝のケイロスも信頼を置いていると知っている。だからこそ、ファリナも手が出せない。表立って反論したら最後、王族であるはずの自分すら跳ね返されてしまうのではないかという心配が頭を過ぎる。
そういうことが起きるかもしれないという雰囲気、環境が今の帝国には確かに存在する。
「次期皇帝である君には申し訳ないけど、もう帝国は彼の国だよ。皇帝ももはやデュークの言いなりだし、きっと君が即位してもそういった空気が続くだろうね」
まぁ僕には関係ないけど、とでも続きそうな口調でライカは言う。その態度にファリナは気持ちがざわつくのを感じた。それがなんなのか、よく分かっている。ライカに対する失望が表立って現れたのだ。
「そういうあなたは気楽なものね。その局長に好き勝手やらせて昼間から逢引なんて」
「そうでもない。仕事が無いのに重苦しい肩書きをつけられても自由を制限されるだけなんだからたまったもんじゃないよ。局長はよほど僕を嫌っていると見える。それと、皇帝として跡取りを生むことが決まっている君と違って僕は子孫繁栄を自分の力でやらなくちゃならない。繁殖は人間の本能だ。人生の中でどこに重点を置いているか、結局その違いでしかないよ」
「……」
「そう言えば聞いた所によると君は各局の不正を粛正しに回っているようだけど、はっきり言って寝耳に水だよ。まるで意味が無い。そんなもの払拭したところでまた局長の後ろ盾を得て好き勝手やるだけさ。今は局長も王女の正義心からくる戯れ程度だと思って見逃しているけど、そのうち本当に酷いことに―」
「うるさいッ!!」
我慢が聞かず、気付けばライカの頬を平手で叩いていた。手に伝わる反発力が、今度はしっかりと当たったことを告げた。しかしライカは涼しい顔を崩さない。少し頬を赤くしたまま、憎たらしいにやついた笑みを浮かべている。
「あんたに……あんたに私の何が分かるのよ……」
「体に同じ遺伝子が半分流れている事くらいしか知らないよ」
自然と拳を強く握っていた。今すぐここから去りたい衝動に駆られた。
ライカは変わってしまった。昔泣いている自分を颯爽と助けてくれたライカはいなくなってしまった。今ここにいるのはただの木偶の坊、期待するだけ損だ。
「泣いてるのかい?」
言われて、ファリナは自分の頬を伝う涙に気付いた。何故涙が?と疑問が浮かぶがその間に涙はとめどなく両目から毀れた。
するとライカがファリナの目元の涙を指で拭った。あまりに自然な行動であったがために、ファリナは抵抗する暇なくあっさりと受け入れてしまった。
「やれやれ、君も強情な性格だなぁ。辛かったらね、辛いと言えばいい。助けて欲しければ助けを呼べばいいじゃないか。そうやって自分の思いを表に出さないと誰も君の気持ちに気付くことなんてできないよ。それなのに自分だけで溜め込んで気持ちを知れだなんて、無茶もいいところだよ」
ライカは肩を竦める。その表情に厭らしい物は何も含まれていなかった。昔の図書館で見せた笑みそのままだ。
「ヘラ、今度の軍事会議はいつだっけ?」
「明後日になります」
ファリナは背後から突然聞こえたヘラの声に驚く。一体いつ追いついたのか、いつの間にかにそこにはヘラの姿があった。
「そうか、ありがとう」
満足そうな笑みを浮かべるライカに、疑問が過ぎった。
「あなた……何をするつもりなの?」
その問いにライカはもう一度図書室で見せた笑みを浮かべながら、頭を優しく撫でてきた。
「腐りきった帝国を浄化するんだよ」