第九話 彼女はメルヘンだったらしい。
天ヶ原はおもむろに俺のベッドの上に座ると、靴下を脱いで生足を俺に向けてくる。
「えーと、これは?」
「誓いの証明。足上げてるのもただじゃないんだから、早くしてくれる?」
くいくい、と天ヶ原は指でしゃがむように示唆してくる。
「いや、俺に、この足に何をしろと?」
「や、舐めるに決まってんじゃん。そういうもんでしょ普通」
「なわけないだろどんだけ偏った知識だそれ……」
ばかばかしすぎて至って俺は疲れた声で突っ込みを入れる。
「友達から借りる少女漫画で結構こういうの見るけど……?」
「やるか! ……ったく、そもそも契約違反云々の下りの辺りから色々おかしいと思ってたけど、その友達相当性癖偏ってるぞ……」
さっきから命だの貞操だの、妙に重たいと思ってたんだ。
……そういえば、ヨゾラもちょっとファンシーな部分思考をしている節があったっけ。垢抜けた見た目とは裏腹に天ヶ原の頭の中は想像以上に乙女チックなのかもしれない。
「いいか、そういうちょっとアブノーマルな表現は絶対に配信で言うなよ。ヨゾラは清楚系を地で行ってるし、解釈不一致起こして炎上するぞ」
Vtuber界隈は意外といい加減で、だいたいみんなデビュー当初は清楚なのに、半年とか一年経つと平気で下ネタ言ったり、リスナーにヘラるようになったりする。それを、ヨゾラはデビューから一年以上経っているのに崩してない貴重な存在なのだ。
少しくらい無知なのは可愛げがあるからいいが、足を舐めて契約はちょっとまずいだろう。
「わ、分かった言わない。なんてゆか、え、やっば。めっちゃはずかしくなってきたんだけど……」
天ヶ原はみるみる顔を赤らめていき、色々耐えられなくなったらしくとりあえず靴下を履きなおす。
「け、けど、契約だし、何もしないわけには……」
どこでどう間違ったことを学んできたのか、天ヶ原は契約というものに並々ならぬ執心があるらしい。
「別に、握手とかでいいんじゃないか? ほら、よくやってるだろ、政治家とか企業とかが記者会見で」
「い、いや、それじゃビジネスだし。命賭けるなら、もっとちゃんとしないとでしょ……」
命を賭ける云々は健在なのか……彼女の価値基準がいまいち掴みきれない。
「……キス」
「は!?」
「い、いや、もちろんくちびるじゃなくて、その……手の甲、とかに」
足を舐めろと言ったときはずいぶん堂々としていたのに、手の甲にキスするのは恥ずかしがるのか? ほんと、最近の少女漫画はどうなってるんだろうか。
「……はぁ。まあ、天ヶ原がそれで納得するなら。そろそろもう時間も限界だろ?」
「あ、そうじゃん! 多分もうパパ夕飯作り終わる頃だし、今日中には話つけるなら早く戻らないと。そうじゃないと飛行機とか、高校の転校手続きとか、キャンセルに間に合わなくなっちゃうし……」
「じゃ……ほら」
俺は顔を背けながら、ぶっきらぼうに右手を突き出す。
天ヶ原は座ったままだから、ちょうど彼女の顔の前に手がある……はずだ。見えないから分からん。
「うぇっ!? あ、あたしもするの……?」
「え、お前さっき俺にだけ足舐めさせるつもりだったの?」
「そだけど」
「何それ酷くない?」
どこのSMだよ。
もしかしてさっきから天ヶ原さんは相当な性癖の暴露をしてしまっているんじゃないだろうか。
果たして彼女の愛読書が本当にただの少女漫画かどうかが非常に疑わしい。
「まあ、確かに対等な契約なのにあたしだけしないのも変か……」
ぶつぶつと口籠もりだし、次第に彼女の口数が減る。
ベッドが僅かに軋み、熱い吐息が指先をくすぐる。
そして――、
「んっ……これで、いいんでしょ?」
手の甲。中指の付け根の辺りを、マグマのように熱く、羽のように柔らかい至上の感覚が襲った。
「おおっ……」
未知の感覚に、思わず声が漏れる。
「ちょっ、変な声出すなしきもい。……ほら、次あんたの番だから」
今度は天ヶ原が顔を背けて俺に左の手の甲を差し出してくる。
高さが合わないから、俺は仕方なく地面に跪く。フローリングの床がズボン越しに冷たさを伝えてくる。
すると、ちょうど目線の高さに天ヶ原の手があった。
自分の指とは全く違う、白くほっそりとしている指。爪なんてびっくりするくらいつやつやで、御影石みたいだ。
「――っ」
俺は今からここにキス……するのか? やばい心臓の鼓動がめっちゃ早い。気持ち悪いくらいに顔が熱い。
汚していいのか? こんなに綺麗な物を、俺なんかが。
緊張と恥ずかしさ。それ以上に、学校をサボった日みたいな、毒に全身を犯されるかのような背徳感に襲われる。
「ちょっ、止まってないで早くしてよ……」
急かしてくるものの、見れば、天ヶ原も顔を雛罌粟のように紅く染めている。それは俺も同じだから気持ちは分かる。しかし、
「……あの、出来ればこっちを見ないでもらえませんかね。恥ずかしいんだが」
「そ、その隙にあんたが変なことするかもしれないし……ダメ」
明らかに無理をしている風ではあるのだが、目は据わっていて、天ヶ原はてこでも動かなさそうだ。
もう、こうなったら覚悟を決めるしかない。
「じゃ、いくぞ……」
俺は天ヶ原の手を取ると、目を瞑り、ゆっくりと顔を近づけ……、
──柔らかく冷たい手の甲に、そっと口づけした。
「うわぁ……」
口づけの瞬間、天ヶ原が小声で息を漏らしたが、気にしない。そんな余裕はない。
彼女の手の甲が想像以上に感触よくて、ただこの感覚を海馬に鮮明に焼き付けることだけに集中する。
「ちょ、ちょっ、いつまでやってんの? 長過ぎだって……」
天ヶ原に咎められ、俺はゆっくりと彼女から離れる。
……つい夢中になってしまった。だって、たかが手の甲。そのはずだったのに、夏場の夜風みたいに冷たく心地よくて、本物のくちびると錯覚するほどに柔らかくて、正直、あのまま続けていたらどうにかなってしまいそうだった。
「それじゃ、これで契約成立だから。これからよろしく」
元々そんなに時間の余裕はなかったので、天ヶ原はまだ少し恥ずかしそうにしつつも、立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「ああ。それじゃ、パパさんの説得頑張れよ」
俺はその背中に、エールを送る。
ヨゾラでいられるかどうか、後は彼女自身に懸かっている。
「は? 何言ってんの? あんたも来るに決まってんじゃん」
しかし、どうもそうではないらしい。
思い切り何言ってんだこいつみたいな呆れた目で睨まれてしまう。
「な、ぜ……?」
「あたし一人で隣の同級生の男の家住むって言ってどうにかなるわけないじゃん。あんたが恋人役として、あたしを引き留めんの。そうじゃなきゃパパは納得させられない」
「聞いてねえ……」
早速契約違反じゃないのこれ。定款に含まれてないけどそんなの。よっしゃとりあえず一生ヨゾラと好きなときに話せる権利をもらおうか。
「言ってもあんたはまたごねるだけでしょ。ほら、だいたいはあたしがサポートするから。……あんたはただ、ヨゾラのことだけ考えてればいいから」
「ヨゾラのこと、だけ……」
あまりに突拍子もない事態に未だ何が何だか分からないが、ヨゾラのため。それだけはずっと、確かに揺らぐことなく俺の心に柱立っている。
俺は覚悟を固めて、天ヶ原と連れ立って部屋を出る。
そして、彼女の家の前に着くと、事情を説明してくる、と天ヶ原が先に中へと向かう。その去り際、
「ああ言い忘れてたけど、うちのパパめっちゃいかついから、頑張ってね」
そう言い残して、天ヶ原は去って行った。