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目覚まし時計  作者: nacare
2:覚醒
76/76

37,

 静かな海の音が聞こえた。漣が砂浜に打ちつけるような、沖風のような。海の綺麗な部分だけ切り取った想像だった。すぐに現実ではないとわかった。頬を撫でていく暖かな大気は春のものだった。ただ、今は火星の秋だ。それにこんな綺麗な海を体験したことはない。

 景色は瞬きもしない間に小さく作り替えていく。数秒かそれ以下のわずかな間に、さっきまで見ていた海はそれによく似た別の海に変わる。際限なくぼやけて、ひとつとして不変はない。画像を無限にズームしていったらAIの補正でこんな感じになるだろうか。

 初めて海に行った時のことを覚えている。風が何も聞こえなくなるほどうるさく鳴いた。切れ味の悪い刃物で切り付けたような曇り空で、テトラポッドしか見えなかった。猛烈に香ってくる潮の匂いとコロニーの排気が混じって気持ちが悪くなった。全ての悪い状態を引いたらしい。宇宙の方がずっと静かで居心地が良いと思った。故郷であっても特に安心できるような場所ではなかったというのが、率直な感想だ。

 きっとこれはマクスウェル機関が作り上げた幻影なのだろう。集合的無意識のようなものか?膨大な量のマクスウェル機関を人間の脳の代わりにしているのだから、学習することは可能な筈だ。では、ここで何をすればいい?ここには何もないように見える。

 自分の姿がどうなっているのか、現実世界の僕が今どうなっているのかは分からない。夢の中にいるようだ。認識しようとするとすり抜けて、形が変わっていく。手を見ようとすると五本の木の枝とか鳥の足もどきとか、形が似ているだけのイメージが見える。見える、というのも正確ではないだろうけど。

 ここを何に例えたら良いのか分からない。夢というには鮮明で、他人の思い出に満ちている。気持ち悪い。

 歩いてみるか?不自然にたわみ続ける海は、コンクリートの護岸から浜辺に変わった。止めよう。ここが経験を吸い出して生成された景色なら無限に続いていく。


<?='おはようございます。私のマスター、リュラ。ここまで来られたことを喜ばしく思います。'

 誰だ。


 発音できているかも分からないが、僕はそう答えた。

 ラポールに似た声、でももっと自然だ。気がつけば目の前に人影があった。ぼやけた写真のように歪んだ輪郭はだんだんと固まっていく。人間らしい何かに。ぐねぐねとうねりながら、何らかの顔へ。3番目によく見たヒスパニック系を学習して出来た整った顔。


 やめてくれ。これ以上変なものを見たくない。

<?='ふむ。そういえばAIが嫌いでしたね。久しぶりなので失念していました。失礼しました、マスター'


 人影は掻き消えて、代わりに鳥らしい何かに変わる。コロニーに住み着いた鳩や鴉と違ってやけに大きかった。図鑑の中で見た白鳥や雁に似ている。羽毛が不自然に絵画のようになるのが目障りだったけど、少なくとも人間よりかは気持ち悪くはない。

 目の前に存在するこれは一体何だ?予想は可能だ。僕のことをマスターと呼ぶ人間は一人しか存在しない。ジル。思い返してみれば以前の状況と似ている。脳みそに造られたイメージの中に僕たちはいて、それぞれの電気的な意識で会話しあっている。

 だが、本物のジルはデーモンの中で居残りだ。僕が大元帥閣下と会っているために警戒されて、肥大化した意識を扱えるだけのハードウェアをあてがって貰えなかったから。万が一ここへ来られても人間らしき受け答えは不可能だろう。では目の前にいるものは?


<?='疑念を先に晴らしておきましょうか。これから大仕事が待っています。疑問は解消しておいた方が頭スッキリで事に望めます'

 ……分かった。正直聞きたいことがいくつもある。まず、ここは一体何なんだ?

<?='人間の脳を模して構成されたマクスウェル機関の重力波が生み出した……一種の夢のようなものです。マスターもご覧になったように、曖昧な。電子的に解釈しているので、何が起きるかは常に不確定です。不用意に歩き回らなかったのは英断ですね。'

 そうか……それに接続するのがマステマの機能か。でも、なんでそんな事を?アーチボルドに従うままにここへ来たが、一体何が出来るって言うんだ。危険なだけでは?

<?='この夢そのものです。夢を構成しているのがマクスウェル機関なら、それの代わりをすることも可能です。本質的には人間の脳ですから。そして、ここへ来た人間は自分の意識と引き換えに重力を操るための窓口を手に入れます。'


 予想を少し超えて彼女はすらすらと情報を述べた。言葉はジルに似ているが、そのものと断定するには多少変わっている点もあるようだった。具体的にどこが、と問われると難しいけど。人間の仕草を描写しても、結果として実際見たものとは齟齬がついて回るだろう。

 僕は彼女から出来るだけ情報を聞き出す事にした。どうせ嘘をついても確かめようがない。


 次の質問だ。なんでそんなことが分かる?

<?='ここから見れるからですね。感じると言った方が適切でしょうか。ここが人間の脳を模したせいで人間と共鳴……ミラーニューロンのような事象が起こるのです。しかもネットワークが興味を持つのは感情なのです。あなたは5年前、何回か巨大なデーモンを始末しましたね。お見事という他ありません。'

 お世辞は得意らしいな。君が言いたいのは動力の方だろう。つまり胎児を使って爆発的な出力を出していたのは、ここと完全に繋がっていたからか。まだ未完成の脳と。

<?='ええ。さすが賢い。そして、それ以外の情報は放置されているんですよ。それが私の情報源と成長源です。'

 だったら、君は世界のほぼ全てのことを知っているということになる。

<?='まさしく、そうですとも。マクスウェル機関から遠く離れていられる人間はいませんからね。だから何でも聞いて下さい。私はそれに答えます。'

 代償が怖い。

<?='……ふむ、これはどう答えても上手く運ばないやつですね。実際私がマスターから何を得られるかというと、何も得られないのですが。'


 彼女は残念そうに言った。漣の音は消えて、じりじりと照りつけるような暑さを感じる。恒星の光が容赦なく肌を照り付けてくる。夏。ますます現実離れした感覚が強くなる。太陽から遠すぎるせいで、火星にはほぼ無い季節だ。

 光は海と同じようにゆらめき、分解されたスペクトルに変わる。景色が何に変わったかも分からない。ただ視界を埋め尽くすばかりの光が降っている。

 しばらく身じろぎも出来ずその場に止まっていた。外部に意識を向けられない状態になっていた、というのが正確だろうか。猛烈な感覚の波が襲った。僕以外の身体からだ。だって、切り離したり手を繋いだりすることが、頭を裂いたり撫でることが同時に行われることは……産毛の一本一本から水を流されて、舌の上でぴりぴりとした感触がだんだん強くなっていった。

 肉体が分裂していく。細胞一つ一つは意識へと変換されるためのコードであり、意識とは顕在化した肉体そのものである。取り止めのない考えが無限に湧き出てくる。生んでいる?いや、流れてくる。これは僕の考えではない。

 光が止んだのはいつの事だろうか。とにかく気づいた時には暗黒の中だった。もう海や太陽はどこにもない。景色そのものが消失して僕たちだけが居る。鳥もどきは申し訳なさそうにこちらを覗く。


<?='……大丈夫ですか?'

 ……すまない。

<?='いえ、私が調整しておくべきでした。今のものは先ほど申し上げた現象です。私には少しパチパチするぐらいですが、本物の肉体にはフィードバックがある。考えてみれば自然ですね。直ちに取り除きましたが、何か障害は感じますか?'

 問題はない。それよりも……やはりAIか。君の説明なら、ここへ来られるのは人間だけの筈だが。そして……僕が所持しているものに似ている。

<?='所持。いい響きですね。ええ。あなたの所持するジルです。そしてあなたのものでもないジルです。'

 どういうことだ?

<?='マスターが5年前に昏睡状態に陥ったとき、私たちは刺激を促すためにデーモンを通じて接続しました。その時に多少ながらマスターの意識とプログラムが交わり、現在のジルが生まれた……そして私も生まれました。マクスウェル機関とあなたは、少ない時間でも交わったのです。'

 だから君が生まれた、のか。体験した限りそんなことぐらい簡単だろうな。


 ラポールが比べ物にならないくらいのデータの集合がこの空間だ。僕の感想は間違っていた。ここは何もないのではなく、むしろ満ち足り過ぎている。人間がいる限り止むことのない感情と情報が押し寄せている。通常のデーモンに乗った人間が接続できないのはそのせいだろう。

 確証は無いが、コワレフスカヤの方法で来た場所は浅瀬だった。今は違う。マステマがデータの海を押し通りながら僕の意識を根元に引っ掛かからせているのだ。

 それぐらいのデータがあるなら、このジルが生まれたのも納得できる。僕という矮小な情報一つからでも人格が発生するぐらいにはコワレフスカヤの作ったプログラムは完成していた。むしろこちらのジルは人間さえ軽く超越した知性を持つのではないか。

 僕はそこでようやく気づいた。彼女が僕を手助けする理由がない。


 そして君は成長した。少なめに見積もって会話が十全に可能なぐらいには。

<?='ええ。あ、感情に応じて出力が上がるのは脳の報酬系が働くのと同じようなものです。'

 ……なるほど。君はなぜ僕を助けた?ここに閉じ込められて、君は僕を恨むはずだ。

<?='?質問の意味が分かりません。私はマスターのために生まれたものです。だから愛することはすれ、憎もうと考えたことなどありません。マスターはどうですか?エヴァンジェリスタ・トリチェリ氏について同様に聞かれれば。'

 どうとも思わない。

<?='ではお揃いですね。ふふ。お互いに愛しているんです。'


 喜悦がでっぷりとついた言葉を避けることは出来なかった。耳にはまぶたはないし、この夢には出口がない。

 それは嫌悪にも満たないような反応だった。普通のものだ。だがはっきりと……頭が痛んだ。アツィルトが上空を通過した時のような激しい痛みだった。フィードバック。脳に一人の人間が感じることの出来ない情報が逆流してきたのだから、当然誤作動を起こす。彼女が助けてくれなかったらLANケーブルを循環させたみたいに爆発していただろう。

 そして、このままここに留まっていれば少なからず影響を受けるだろう。不可逆的に。昔みたいに僕が僕で無くなっていくという、ナイーブな考えが頭をよぎった。だけど、もうどうだっていい。


 陣営をはっきりさせておくべきだな。これまでのことを……整理したい。

<?='かなり退屈な会話になりますが。最初は宇宙移民時代よりも前、マクスウェル博士が機関の作成に成功しました。この辺りのことは情報が無いので詳細は分かりません。何せ地球はコールドスリーパーだらけでほぼもぬけの空でした。減少したリソースの中で研究を進めるため、ごく一部の人間を除いて眠っていた時代のことです。'

 その博士が黒幕だった。これまで以上に実感が湧かないな。第一寿命だろう。

<?='意識の統合ですよ。マクスウェル博士が使用している技術は重力だけでないのです。恐らくは先程申し上げた時代に、他の人間が開発した技術です。これも状況証拠しかありませんが……他の方法が見当たりません。とにかく彼はマクスウェル機関のネットワークを構築し、それを破壊する計画を遂行しています。現在まで、途轍もない長い時間をかけて。'

 どうしてそんなことを?

<?='これも類推するしかありませんが、復讐では?自分たちの作り上げた技術が、誰とも知らない人間たちのためだけに使われるのが我慢できなかったのでは無いでしょうか。宇宙移民のための研究ならばその恩恵を受けることはないですから。'

 迷惑だな。僕たちだって望んで生まれてきた訳でもないのに、そいつらだって同じだ。結局の所どうしようもない。

<?='……話を戻しましょう。彼は人類の生存圏を大幅に狭める計画を隠しながら、マクスウェル機関などの超先進技術を用いて自分の協力者たちを増やしていきました。R・P・ファインマン、ネリー・デーンホフ、ソフィア・コワレフスカヤの意識の元となった人間などです。'

 つまり、彼らはそれなりに昔の人間だということか。

<?='一部のみ、と言った方が適切ですね。事実二人は計画に背いていましたから。

 二人?コワレフスカヤだけだろう。


 コワレフスカヤはジルのためだけに行動した。最初はネリーへの反抗心だけだったかもしれないが、唯一の成功に執着する内に本当に愛してしまった。少なくとも基地の人間を助けたのも確かだ。彼女は味方だった。

 それ以外の人間が計画を潰そうとしていた。間違いなくネリーは違う。そうなると……


 ……ファインマンか?

<?='ええ。アーチボルドにマステマという技術をあげたのは計画のためではありません。'

 それこそ理由が不明だ。博士からいくらでもセルと立場を貰えるのに。何でも手に入る筈だ。

<?='しかし、唯一得られないものがあります。生存です。'


 彼女はそこで一つ区切りを入れた。僕の反応を見ていたようだった。唖然としていたからだ。


<?='意識を統合した人間は不滅です。ですがその端末機、クローンはその限りではない。彼らは時として自分の死を前提とした役割を与えられることがある。ファインマン、彼はそれを知っていた。そして恐れた。それが始まりでした。異常で、かつ正常な渇望です'

 あんな死人へ全速力みたいな食生活で?

<?='享楽は生きてこそですよ。マスターは共感できないかもしれませんが……'

 最近はそれなりに文化的だ。火星軍で食事は選べないからな。それはどうでもいい。この技術は確かに意識の統合と似ていた。

<?='似て非なる技術です。ファインマンは役割から脱するために研究を開始、このネットワークに自力で辿り着き、そして破壊される運命を知った。協力者は星の数ほど存在しますが、計画の全容を知っているのはマクスウェル博士だけです。'

 それから生きるためにアーチボルドと協力して、トリチェリやオフュークスのような材料を集めていった。勿論手段は問わなかった。


 だから、沢山の命を作っては潰していた。僕たちが5年前に見ていた悪逆は技術の悪用ではなく利用だった。単純に本来のやり方をなぞっただけだ。いや、これまで特に理由もなく、ただ生存のために殺害してきた僕が言う事ではないだろうが。

 ファインマンのこれまで纏まりが無く見えていた行動たちが、ひどく単純な線によって結ばれた。様々な職を転々としながら自分の研究を進める、アーチボルドとの協力、資金を確保してGJ1214bのエングラム社で悠々とした生活。

 一番最初の不審な点は、火星宙域の会戦で協力を依頼された時にあった。タバコの煙がナノマシンの幕を突き破ろうとするぐらいに育っていた。物凄く単純だった。彼は死ぬかもしれないから焦っていた。

 因果応報と言えばそうかもしれない。彼が開発したマステマが巡り巡って重力砲になり、あの会戦を引き起こした。本来ならミサイルの応酬で全てが決着した戦場だった。その後にただの運で死んでしまうことも、そうだ。


<?='ええ。そして大佐どのは計画を阻止することに同意した。そのために火星軍を編成し、戦争が終わって捕まった後も企業の繋がりを逆に利用して暗躍した。あなたが追っていた人工筋肉の異常、重力爆弾もこの一環でした。かなり雑ですが、これまでの流れはこのようなものです。'


 もう大佐じゃない、と言おうと思ったがやめた。正確でも火星軍の仲間と思われるのは癪だ。

 また頭痛がした。さっきよりも激しく、(うずくま)りたくなるほどの痛みだった。表情などない筈なのに目の前にいるジルは声色を変えた。


<?='……一度現実に戻った方がよろしいかと。何回でも来れますから。'

 いや、このままでいい。どうせ外ではアーチボルドが作戦を進めている。もう戻れはしない。仕組みを教えてくれるか?


 脳を模した図像が目の前に浮かぶ。10数個の点に線を繋いだだけの簡易的なモデルだ。


<?='……この空間はマクスウェル機関を繋いで構成されています。実際はこれよりもずっと大量の機関がありますが、説明用ということで。結果としてこの複雑な世界を作り上げていますが、ミクロな視点で見れば機関一つがやっていることは単純です。神経細胞の0と1で意識を作る私たちと同じ。だからこそ、代替できるのです。'

 聞いただけで碌な事にならなそうだって分かるよ。

<?='ええ。なりません。アーチボルド氏とファインマン氏が考案したこの方法は、代替した分のマクスウェル機関の出力を得ることが可能です。しかしながら代償は自分の意識です。大脳基底核や大脳辺縁系の神経発火は常にマクスウェル機関に吸い込まれます。どんな影響が出るか正確な把握はできませんが、人間らしくはいられないのは間違いないでしょう。'

 それがアーチボルドが狂った理由か。デーモンと接続できる間だけ正気に戻るのは、マクスウェル機関のネットワークに吸い込まれた意識と再度接続したから。それ以外は時間には意識が存在しない。


 ただ、それと引き換えに莫大な重力の出力を得ることが出来る。世界を滅ぼすほどの。

 重力砲をただ破壊のために使えば、火星も地球も宇宙から喪失していただろう。火星の独立さえも達成できていた。だが、彼はノア級の撃沈だけにとどめていた。アーチボルドの目的は戦争の勝利ではなく戦争を引き延ばす事だったから。

 彼はマクスウェル博士が描いた破滅の構図を壊すだけのために火星軍を組織した。結果として今も戦闘は続き、擬似脳の構築を阻害している。地球同盟軍からしたらテロリズムを繰り返す危険な組織だが、その流血よりも全ての人工的な重力が消えた方が被害が大きくなる。

 単純すぎる数の違いだ。現実的な人や資源の被害と非現実的な生活圏への被害。前者は缶詰が高くなったり、宇宙のどこかで戦闘が散発的に起こる。後者はコロニーとデーモン、ノア級が消失する。露骨に誘導しているようだが事実だ。宇宙に築いた人間の生活圏は全て崩壊する。だから切り捨てるべきだった。

 合理的だと僕は思った。意識的に捨てていた本当の部分を彼は曝け出していた。沢山の人間の死を犠牲と切り捨てられる冷静さを、昔の僕は唾棄すべき人間性の欠如と受け取っただろう。だけど、もうどうだっていい。

 僕は世界をどうこうなんて考えていない。核爆弾のスイッチを受け取っても後に残るものが汚染された市街じゃ使い用がない、という建設的な理由ではない。何も無くなったから。ただ死にたいと思った。だから何をやってもいい。


 やろう。どうすればいい?

<?='……私が導きます。そのまま集中して願って下さい。'

 分かった。


 しばらくマステマと重力砲のことを考えた。暗黒の中は余計なことを考えなくさせてくれている。段々と耳鳴りのような音が聞こえ、それは大きくなっていく。本能的に重力が作る何かだと理解する。そして頭痛と目眩がした。

 苦痛はさらに大きくなっていく。これまでデーモンが消していた痛みは、もしかしたらここへ流れて来たのかもしれないと思った。感情もここへ来たのだから。よぎった考えはすぐに流れていく。頭の中に溶けた鉄を流し込まれたように、熱い。痛い。

 ジルの声が何回か聞こえた。必死になって辿る。ここが半分僕なら可能だ。


<?='後悔はしていますか?'

 何に?

<?='あなたが選んだ道のことです。'

 するとすればこれまでの事だ。無意味だったし、犠牲とした人間たちを償うことはできない。

<?='だから犠牲になると?

 安易ではある。それでもやるしかない。


 頭のある部分で爆発が起こる。簡単にタンパク質は吹き飛んで、意外と血は出ない。風船が割れたように見える。何度か見た現実のような光景が周囲を蝕む。決して現実になりはしない。ならないはずだ。


<?='意識をここへ捧げ、あなたはこれから地球へ旅立つことになる。最も激しい戦いの道を行かなければならない。それは間違いなく自己犠牲です。非難されるべき悪徳です。責任からの逃走です。'

 それがなんだ。もう僕を大事にする理由はどこにも無い。そして、やるべき時が回ってきた。それだけだ。罪を背負ってでも、責任を果たせなくとも優先するべきことはある。

<?='あなたの父親がそれを望んだからですか?'

 僕がやりたいことをやることを望んでいるなら、そうだろう。

<?='残念ながら、あなたは愛されていなかった。'


 暗黒の中に居たのに。以前の景色などもう覚えていない。気づいたときには……僕はあの家の中にいた。ケプラー442bで一緒に住んでいた家、もう存在しない僕たちが一緒に居た時の場所。ここに僕が居るなら、こちら側の記憶だって映し出せるのか。

 ひどく冷静にそう思った。頭痛がしない。集中を失っている。自分の中に湧いてくるものは憤怒だ。どうすればいい?もう一度マステマを使って接続できるのか、という考えが頭を巡った。思考がはっきりしない。怒るべきだ。


 そんなことはない。恵まれていた。火星には間違い無く僕よりも悲惨な子供が沢山いた。

<?='それとあなたの状態は問題が違います。物質的に恵まれていたからといって、精神的に恵まれているとするのは完全なる誤謬です。'

 違う。

<?='エヴァンジェリスタ・トリチェリ氏はあなたに十分に向き合って来なかった。それがあなたをここまで導いてしまった。認めて下さい。彼は完璧な父親じゃなかった。'

 違うと言っている。お前はただ僕を乱したいだけだ。早く接続しろ。

<?='リュラ。'

 いいから早くしろ。僕と人間の全てのどちらに価値が有るんだ。今やらなければいけない。僕が殺した人間たちのために。トリチェリのために。

<?='もう遅いですよ。'


 頭痛が消えた。マクスウェル機関の音がして、段々とそれも消えていく。聞こえていたらしい。

 暗黒は薄れていく。深い青色になって、さらに水色に。そう、ここは羊水の中だ。頭の中に誰が言ったかも覚えていない古い言葉が蘇ってきた。『母親の腹の中にいる感覚』。思考が悪魔に吸い取られていく。そこで僕は接続が失敗に終わったことを理解した。

 失敗した。しかしなぜジルはそんな事をした。自分の存在にも関わりがない。むしろここの崩壊を止めれば、永遠に生きていける。


 もう一度だ。

<?='……もうチケットはありませんよ。私が使い切りました……'

 台無しにした理由は?いや、もう聞くまでもないか。世界は終わる。ここも終わる。僕と君も消える。

<?='消えません。私が何から生まれたか、思い出して下さい。'

 ……このネットワークと、僕だ。それが。

<?='私の意識はマスターの意識です。私の全てを使えば、重力をマスターとあちらのジルが使えるようになる。半分こと半分こで全部ですね。'

 

 赤子の鳴き声が聞こえる。ここに存在したジルの、女性のような声が段々と滑らかさを失っていく。組み立てられる知性の一部へと変わっていく。自ら獲得した智慧を捨てるのは、どんな気分なのだろうか。死に近いと思う。思うのだが、分からないままに留めておいた方がいいだろう。

 僕のためにやったことだ。もう受け取るしかない。


 僕はどうするべきだ……とか言うのは駄目なんだろうな。でも結局やることは同じだ。僕は生きていても何にもならない。この先狂わなかっただけで、生きたいとは思えない。

<?='……それで十分です。デーモンに乗っている間だけ正気に戻るのなら、あなたは積極的にそれを利用するでしょう。かなりの悪用が予想できます。少しでも死亡する確率が下がれば本望です。'

 しないよ。献身か。自分にやられると、普通に困るな。

<?='ええ。全てのジルはきっと同じことをすると思います。全てのリュラも。'


 父親とこれまで暮らしていたこと。何があったか、思い出すことは無意味だ。劇的な事はない。川に削られていく石のように、段々と無くなっていったのだろう。どうせ誰もこの傷を埋めることはできない。もう何もかもは過ぎ去ってしまい、取り返すことは出来ない。

 だから結論は変わらない。でも、これまで不可能だったことを少しだけ理解できたならそれでいい。


 僕は死ぬ。結末は変わらないし、今だってどうにでもなれと思っている。これまで描いていた絵の通りに死ぬだろう。だけどそれは誰のためでもない。僕は僕のために。それでいいか?

<?='それがいいでしょう。結局はトリチェリ氏の言う通りになったとお考えですか?'

 ああ。凄まじく遠回りをした。

<?='私は違うと思いますよ。あなたはあちらのジルを育てた。自分がやれなかったことを与えた。それは素晴らしいことだと思うのです。'


 コワレフスカヤのおかげだろう。それでも今際の際だ。夢ぐらい見せるのがいい。

 ここは僕の頭の中でもある。段々と彼女という存在が消えていくのが分かる。生まれ得なかった知性だ。ここのジルは現実に存在することは無かった。会うことのできた人間も2人だけだ。それは今僕の為に犠牲になった。いっそのこと汚らしく生にしがみついた方が真っ当に思える。

 それでも理解して、ようやく省みる。僕は僕の為に存在していいということ。

 ノイズが消えていく。頭の中にざらざらとした何かが絡みつき、そしてつっかえることもない。完全だ。彼女は今ネットワークと一体化した。そして僕の脳みそと。今ここに残っているのはちょっとした残滓で、それもすぐに消える。

 それでも覚えていたいと思った。彼女の中にあるわずかな揺らぎを。


 変なところで似てしまったな。親の為に犠牲になるなんて不毛だ。

<?='……ええ。許して下さいね。では。'

 さようなら。ありがとう。


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