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目覚まし時計  作者: nacare
2:覚醒
75/75

36.

 赤子の鳴き声が聞こえる。重力は恣意的に取り出され、取り出され、錬成された。本来ならマクスウェル機関一つからは得られないほどのエネルギーが放出されている。センサーとCPUの集合が無くとも、分かる。

 廊下は既に戦場に変わっていた。真っ赤な警告灯の光とアラーム音、それに混じって聞こえてくる破裂音と叫び声。発生源は人間とドローンだった。くすんだ赤色の軍服の上から防弾チョッキを着た兵士が倒れていた。素早く大型犬に似たドローンが飛びかかり、その直後に小さな爆発が起きて兵士の顔面が吹き飛ばされた。

 巻き上がった粉塵に紛れて緑色の粒子が見える。アウターシールド。ただのドローンではなくTrappist-1dの地下で見たエンジェル級のような、小型のエンジェルだ。周りに有効な兵器は無い。廊下の向こうへ逃げるか?人工筋肉と油圧アクチュエータの塊と競うことは不可能だ。

『対人戦用のエンジェルか。君は近寄らない方がいいな』

 悪魔に飲み込まれたアーチボルドはそう言った。彼は虜囚であるはずの僕を捕まえもせず、デーモンの機動力を活かすこともしなかった。ゆっくりとコンクリートを踏み締める硬質な音が地獄のエマルジョンの中で鳴っていた。

 もう一つ、聞こえてくる何かがある。それが本当は音ではないということを僕は知っている。強力な重力が発生した時に起こる余波だ。廊下の中に鈍い赤色の線が描かれた。横たわった死体、走り寄ってくるエンジェルを貫通して進む。

 その線が貫いた物体は不自然に歪んで見えた。レンズの端に触れたように目に届くはずの光が捻じ曲げられているのだ。やがて光は消えた。動いていなかったが、僕は数歩くらい光に近づいていた。数秒にも満たないはずの間に廊下に残ったのは灰とぐちゃぐちゃになった機械と肉、岩のようになった何か。

 局所的に発生したブラックホールを防げるものはない。そして、それを作る人間も存在しないはず。アーチボルドは確かめるように手のひらを握る閉じるを繰り返した。

「重力砲……ただの人間がそんなこと出来るわけが」

『あれは私の能力を解析して作られたものだ。ああ、それでも普通にオーバーテクノロジーだったよ。技術者たちはよくやってくれた……数ヶ月で地球同盟に同じものを作られたんだけどな。火星戦争をもっと引き延ばせれば』

「引き伸ばして一体何になった。無駄な戦争だったんだ」

『無駄じゃなかったんだ。少なくとも私たちが戦えている以上は』

 アーチボルドがマステマと呼んだデーモンはかなり古いらしい。背後にフライトユニットを接続するための端子がない。それどころかおおよそ武装と呼べるような物を何も有していない。彼はただ、教祖のように超然と歩いた。

 部屋に入ってきた兵士は倒れていた。ドアの近くで驚愕とも歓喜とも取れる表情を作っていた。負傷や欠損はない。アーチボルドが彼に近づいて頭に触れる。翳した手が離れると、そこにはもう頭部はない。首の断面は鋭利な刃物で切られたように綺麗だった。

『取り敢えずここはもうダメだな。出来るだけ戦力を持ったまま逃げたいが』

「どうして殺した?」

『話を聞いてるかもしれないから。警報をもっと早く鳴らしてくれたら良かったのにな。君の友達を拾っておいた方がいいか。ヤードは上だな』

 彼は平然とそう言った。自分の仲間を殺したことに対して何の感慨も抱いていない。本能的に感じた嫌悪はそのままに、思考そのものを理解してしまった。僕だって同じ状況になっていたら間違いなく同じことをするだろう。危険な兆候だ。

 彼はただの狂人で、しかも仲間を手にかけることを厭わない冷酷さを持ち合わせている。そしてどういう訳か重力砲を発生させることが出来る。危険すぎる。彼が言ったことを荒唐無稽と切り捨てることも出来る。全てがこいつが生み出した空想だったらどうする?何にせよ進むしかない。あんなことがやれたということは、殺害はいつでも可能だったということだから。

『私の力が不思議か?マクスウェル機関と直接的に接続した結果だ。普通の人間が使ってもそれなりに興味を惹くだけだが、私の場合ほぼ全ての意識が向こう側にある』

「まるでエイリアンと通信しているみたいな言い方だ。マクスウェル機関が生き物だとでも言いたいのか」

『ふむ。重力を発生させる機関が、どうしてそれだけに留まっていると?』

 アーチボルドは僕に質問した。かつての老婆を思い出すような言い方だった。そんなことが分かるわけも無い。僕はマクスウェル機関の専門家ではないのだから。触れたマクスウェル機関の特徴を思い返してみる。耐用年数はほぼ無限なこと、対して出力はほぼ一定なこと、感情に反応すること。

 重力とはつまり、空間の歪みだ。空間を操れるなら、時間を操ることが出来る。つまりほぼ全てのことが過程できるなら、何が起こっても不思議ではないと僕は思っていた。不可思議な事象は重力を取り出す動作の中で起こった副産物にすぎない。今も論理的に考えるならそういう結論に達するだろう。

 僕が無知なだけだったか?いや、むしろデーモンの事を知っていく過程で知識として覚えていった。暗黒物質(ダークマター)を使った理論としか書かれていなかった。それ以外の事実は現実の奇妙な出来事で知った。

「よく分からない。僕はマクスウェル機関のことを知らない」

『知らなくて当然だ。確か人間の意識を食って出力を増すってことは知っているんだな?』

「ああ。気持ち悪いぐらい僕たちの事を知っているな」

『AIと接続したAIが教えてくれた。まあそれは良いとしてだ。どうしてそんな反応を示すのか、その答えはマクスウェル機関が互いに交信しているからだ』

「交信……」

 意外に妥当な考えだ、と僕は思った。ここまで荒唐無稽なことが続いていたからだろうか。恐らくはそういうものも少しづつ未知が重なった結果だと思いたい。

『何となく理解はできるだろう。重力波は光速以上の速度、というか空間そのものの皺みたいなものだからな。互いに繋がり反応し合うことが可能だ。ついでに重力を取り出していれば刺激も生まれる。そうして機関によるネットワークが形成された』

「ふうん」

『もうちょっと驚いた方が良くないか?』

「いちいち疑念を呈してたら終わらないだろ。次は?」

『そのネットワークは、最初に私が触れた頃はただの電気信号を繰り返しているに過ぎなかった。単純な神経を形成していただけだ。しかしながら、同時に成長していっていることも分かった。この宇宙にマクスウェル機関が増えるたびに少しづつ、人間の脳に近づいていっている』

「……細胞が増えるみたいに」

 マクスウェル機関と繋がったとき、僕はジルではない何かを感じていた。海のような空間で魚に啄まれるようなくすぐったさを。あれが、マクスウェル機関が構築したネットワーク。本能的に理解してしまった。僕の中に残っている何かがそうさせるのか。

 廊下に飛び出してくるエンジェルと兵士を消し飛ばしながらアーチボルドは先導する。赤子の叫び声が聞こえる。巨大なデーモンが倒された時も同じものを聞いた。細胞分裂だ。受精卵から胎芽、胎児へと。神経系が形成されている。

 もしも、今も成長を続けているならばそれは……人間なのか?哺乳類である理由すらもない。昆虫のような神経節でもいい。植物のように神経がない生物でもいい。細胞は意志を必要としない。自らを地獄に叩き落としたがる器官、肉体を動かすためのプログラミング。僕たちはそれを使って思考しているために重要視しすぎるが、そもそもは身体がなければ無意味な一臓器にすぎない。

 コワレフスカヤとの会話や、自分の頭について調べていくうちにそういう知識が増えていった。この後に続くのは”だからいちいち悩むのは間違いだ。全ては身体を動かすためのプログラムにすぎない。それを知識として学び、現実に生かすことが最善の道だ”。虚しくあわれな希望だと思った。

「だけど、どうして人間になりたがるんだ」

『博士がそうしているからだ。肉体という容れ物を先に作れば、人間の脳にならざるを得ない。そこら辺の知識はコワレフスカヤから聞いてるだろう』

「だけど……マクスウェル博士は死んでいる」

 足音は止んだ。地下基地らしく重厚な金属の扉をデーモンが開くと、格納庫らしい風景が広がっていた。数機のエンジェル、フリゲートや装甲車、そしてデーモン。打ち捨てるように散乱している部品と工具は襲撃のためか、それとも焦りながらも分解と整備を繰り返していたせいか。

 不気味なほど静かだったがマステマ、アーチボルドのデーモンであることが分かると隙間からわらわら兵士たちが湧き出てきた。僕は囚人だったが、この状況下でとやかく言ってくる人間は居なかった。せいぜい歓喜の輪に混じれない程度だ。

 ガレージの中にはオフュークスも居た。ジルが入っているサブノックもあった。珍しく幸運を感じる日になるはずだったが、目の前の扇動家のために喜ぶような気分になれない。

『さあ、ここから出よう。地表までここから行ける』


 地表に這い出てきたのは僕たちが憎悪していたテロリストたちではなく、太陽に干される蚯蚓(ミミズ)たちだった。アツィルトはセラフィム級だけでなく既存のデーモンを製造することを選んだようだった。事実としてそれは正解だった。

 蜂起した火星軍は当初、順調に戦果をあげていた。僕たちが守っていた都市はひどく脆く、そして軽薄に火星軍を迎え入れた。火星の独立のために戦っていたアーチボルドがやってきたのだから当然だと言えなくもない。それかもう地球同盟軍の根幹にも火星の人間が浸透していたのだろう。

 住民のうち三割は熱狂、五割は静観、残りは明確な対立姿勢を見せた。軍事クーデターにしては十分すぎる支持率だ。ともかく企業たちから協力を取り付けて今度こそ火星宙域を掌握する……というシナリオを描きたかった。

 都市がある平野、基地とコロニーが点在する荒野と山間部。主要な拠点の上空はセラフィム級に塞がれている。彼らを退かすのに対空砲火なんて役に立たないので、宇宙から攻撃するしかない。進路は二つ。他の勢力に攻撃してもらうか、強行して艦船を打ち上げるか。

 前者はほぼ不可能だ。火星軍を支持する企業はそれなりに居るものの、アツィルトとセラフィム級の詳細なスペックも分からないなか地球同盟軍の本丸に突撃しようとするほどの狂信者は居なかった。火星軍の選択できる行動は犠牲を承知の上で宇宙に上がることだけだ。それでもアーチボルド・ヒュームは沈黙を保っていた。

 僕はそれが、新たなる悪魔を求めているからだと知っていた。

「大元帥閣下、アルギュレに駐屯している部隊の被害報告書です」

「ご苦労」

「閣下、その……恐れながら進言いたしますが、状況は極めて深刻です」

「らしいな。見なくとも知っている。エンジェルの数が多い」

「ええ」

 重々しい会話だった。安普請の壁と扉は薄い。地下から這い出たメリットはせいぜい湿気がないぐらいのもので、空爆や襲撃の危険は常に付き纏っていた。素早く建てられたプリント工法の建築物は耐久性で劣るが、他の選択肢はない。

 その時執務室の前に居たのは半分偶然だった。アーチボルドから呼ばれて赴いたのと報告が重なったというわけだ。誰とも知らぬ忠臣の報告は予想できるものだったし、進言は妥当性に満ちていた。

「我々はこの都市にあるエンジェルやデーモン、その他兵器を接収しました。大戦果と言っていいほどです」

「知ってるさ。8機のケルプ級、37機のガルガリン級、149機のデーモン……感謝しかないな」

「ええ。加えてパイロットや整備兵も潤沢、兵站も現状は構築できています。つまり、我々が現時点で活用できる最大戦力を持ってしても対処できないほどにアツィルトの戦力は強大です」

「最大ではないよ。私の力を使っていない」

「では何故です!?あなたが動かなければ現状が打破できないと何より分かっているでしょう!」

「ああ。重力砲を使うしかないだろうな。その機を待っている」

「その機会が今だと言っているのです!出撃しなければ我々は今度こそアルギュレで死にます。昔のようなことをあなたは繰り返すつもりなんですか!」

 段々と語気を荒げていって最後には叫んでいた。名前も顔も知らないし見てもいない、声だけ聞いただけの人間だ。それでも火星の独立を夢見ている将校だというのは重々理解できた。その熱意を一番間近で見ているのに、アーチボルドは否定も肯定もしなかった。

「……申し訳ありません。出過ぎた真似をしました」

「いい。構わないよ。いつだって頼りにしているさ」

 執務室から出てきた彼は不明瞭な顔をしていた。自分が信じた人間の言葉が疑わしく思える、そう顔に書いてあるようだった。信仰を疑うということは自分を疑うことだ。一瞬のうちに浮かんだその言葉は、今の僕を正確に表現していた。

 数週間の間アーチボルドが静観を貫いていたのは、マステマの所有権を譲渡するためだ。技術者は簡単に彼に従った。彼は火星軍という忠実な部下を持っていた。僕たちが何をしているのかも知らずに準備を進めていた。あまりの信仰から知らないふりをしているのかも分からない。それはもうどうだっていい。

 マステマにはアーチボルドの意識が入っている。もしもIDを変更したなら彼は接続していないときと同じように狂うだろう。そして新しく玉座に座るものはこの宇宙を手にすることになる。

 そんな野心は僕にはないが、それでもやらなければいけないことだ。


 数週間の準備時間は僕にとって最悪の時間だった。電力と時間が手に入ったために残りのフィルムの解読に取り掛かり、あっけなく成功したからだ。その内容はひどく受け入れ難いが現実のようだった。父親は僕の為に動いたという証拠がそこにあった。

 ジルには知らせなかった。誰にも言わなければ知られることもないだろうと考えたから。そうして何になるのかと思った。自分を恥いっているならば、そんなことしなければ良いのに。

『Dec 19th,2365:今日、ようやく決意を固めた。リュラを、あの子を助けるためならどんなことだってする。まさしく世界を覆う暈、響き渡るレクイエムの一助になってしまうとしても』

 これが最初に見た日記の内容。データを刻んだ逆の順番で解読は進むのと、日付からして最後の記述だろう。

 前提として父は今の地球同盟軍がやっていることを知っていた。地球同盟というか、マクスウェル博士か。その上で協力したのが疑問だった。いくらこの大流の小さな一雫、それにすら満たないmolだとしても悪は悪だ。

 僕の中に巣食う無用な思考はそう言った。潔癖な考え方だ。いや、むしろそうでないからこそ、そうであってほしいと思うようになったのか。悪という簡単な言葉を使えるほど現実は一つの色でできていない。そう分かっているのだが、止められないくらいに疲れていた。

『Oct 10th,2365:これを遺伝子情報の中に入れることを提案したのは火星の業者だった。点数稼ぎか?自分でもどうかと思うアイデアでも、無責任に肯定されると自信が湧いてくるものだ。これをどこに隠しておき、誰に見せるべきかは考えなければいけない。リュラ以外に考えるべき人間はいないと結論づける』

『Oct 9th,2365:遺伝子データを抜き取った。と言っても血液や内組織やら……簡単な検査じみたことをやっただけだった。むしろ書き込みに二ヶ月ほど時間がかかるらしい。このデータを渡すという決断までの時間が増えると考えると、気が軽くなった』

『Oct 2th,2365:データを渡せば彼らはそれを元に研究を進めるだろう。そうすれば僅かなりとも世界は滅亡に進むはずだ。時計の秒針が一眼盛り動くのにも満たないほどだろうが。逆に渡さなければ、私たちは死ぬ。世界にとって見てすればそちらの方が良いはずだ。ほんの少しだって正しい行いをすることがヒーローだろう。ただ、リュラにとってはどうなんだ?』

 僕は落胆した。裏切られたと言い換えてもいい。とにかく醜い感情を抱えた。僕がどれだけ惨めで馬鹿で頭が悪い、期待を裏切った人間だということを表したいか。だからこそ正しくありたいと思っていたし、父親に正しくあってほしいと思ってきたか。

 期待だ。僕が仕事に行っていたトリチェリを待っていた間、無言に重苦しいものを感じる間、僕の為に使われていくセルを見る間。一番醜い感情というのはそれに尽きるだろう。膿を掻き出してようやく見えたのは傷跡で、もう塞ぐことも出来ない。ただ見るだけだ。無意味だ。

 それから彼の記述は取り止めのないものが続いた。日記らしいと言えばそうだ。僕のことが書かれていたことが多かった。電力を多大に使いながら大量の熱を吐き出すデコーダーの音が脳にこびりついた。不要になった貯金を使った最新式が出すそれは、激しく炎が燃え盛る音に似ていた。

 やがて日記は僕を拾った時へと近づいていった。まだ期待していた何かたちは折られていく。時間を遡るに従い、赤子を愛そうとした人間の姿があった。まだ可愛くも何ともない、鳥の雛のような何かを。

『Jan 21th,2365:病状はとりあえず抗生剤で安定している。これ以上悪化すればNICU(新生児集中治療室)に入ることになるだろう、と医者は言った。その後に訂正するように順調なら病院から出られるだろうとも。とにかく無事に育てばいいが』

『Jan 20th,2365:明日はようやくリュラと会える。リュラ。この名前は星から取った。こと座、またはベガを表す言葉だ。格好つけてラテン語から取ったけど英語読みだとライラになる。女の名前っぽいと言われるだろうか?気に入ってくれるまで成長できればいいが』

『Jan 12th,2365:昨日は忙しかった。赤子を病院に放り込んだ後、急いで地球同盟軍で手続きをした。時間が経てば色々と面倒な制度で強制的に働かされることとなる。火星の復興という名目で奴隷が欲しいだけだ。経済のことはどうでもいいが、この子をそれに巻き込む訳にはいかない』

『Jan 11th,2365:戦争は終わった』

 液晶画面に無慈悲に写っていく言葉たちを、僕は今すぐに消し去りたかった。無駄だ。いくらデータを消してもシュワンフィルムが残っている限りは現実から取り除かれることはない。フィルムは衝撃でも熱でも破壊は難しい。それこそ空間そのものを……

 読み飛ばしていた一部分に目を向けた。書かれていたことは全て受け入れ難かった。心臓が急きたてるように激しく動いていた。消えていたはずの情動が再び戻ってきたのは、何も喜ばしくはない。人間に近づくということは何も、何も。

『Jan 19th,2365:リュラ、赤子のことをそう名付けた。星の名前は孤児につけるものらしい。だが良い名前だと思う。綺麗な星だ。酷い扱いを受けてきた子供にそう名付けるのは、どの親でも一緒だということだろう』

『Jan 18th,2365:赤子は病気らしい。詳しいことはわからないが免疫系のもの。リキベントの中で生きていたのは奇跡だった。今は落ち着いているらしいが……今度こそ死なせるわけにはいかない』

『Jan 17th,2365:フェデリコ、俺の子供が死んだのは……ただの順番のせいだ。ぐずっていたから、俺が先に入って……安心させようとした。それだけだった。それだけで俺は生きてしまった』

『Jan 16th,2365:整理すると、赤子は私の子孫だった。我が子のフェデリコは冬眠から叩き起こされて……火星の植民に従事した。そこで結婚して……そのまた息子、娘、息子。子孫は火星の環境で、そのイデオロギーの一端になった。そして最後の……この赤子はデーモンの中に入っていた』

『Jan 15th,2365:赤子をべたべたしたリキベントからどうして取り上げたのか、それは分からない。生きていたから、殺さずには居られなかったのか。デーモンに乗っていたなら合理的な判断を下すはずだ』

 愛。書かれていたのはそれだけだ。想定していたような”別の理由”は存在しなかった。最初から最後までトリチェリは僕の為に行動していたと今になって分かった。

 マクスウェル機関が作り上げたネットワークは少しづつ完成に近づいている。人間の脳を模倣したのなら、壊すことも可能な筈だ。それこそがマクスウェル博士の目的だ。

 阻止する為にはマクスウェル機関を製造させないようにするしかない。地球と最も近い植民星である火星で戦争を起こし、製造能力を落とす。戦争を続けさえすれば、アーチボルドの能力によって機会が巡ってくる。トリチェリは僕のために行動を起こした。基地を裏切ってたくさんの人間を殺したのは。それもか。

 人間らしくあろうとした全ては無駄だった。もはや、僕が目指すことは出来ない。だから……せめてこの世界の大勢のために。


 手術台の上に横たわるような気分だった。事実としてガレージに置かれた作業台とデーモンの位置は医者と手術台に似ていた。僕は患者となってそこに寝る。頭に被されたヘッドギアがひどくうざったい。毛髪の下側まで電極が触れなければいけないから、剃髪ののちにべたべたとした液体で僕の頭は覆われてしまった。躊躇わずに太ったケーブルを、刺した。


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