34,
「ひどい任務だ、うん……ひどい任務……」
うわ言は、僕の肩にのしかかっていた。トリマンは長時間労働によって完全に破壊され、助手席で熟睡するに至った。僕はストレスによる医療事故が起こらなかったことを感謝するつもりだった。この程度で済んでいればいいと。だが鬱陶しくなって彼の体を押し退けた。戻ってきた。
火星の道は広くて障害物も少ない。一旦首都から離れればあとは荒野と道路が広がっているだけ。まばらに点在する農業、工業コロニーへ資材を投入するためのものだ。火星の少ない美点は比較的産業が経済圏内で完結していること。そのためにインフラは整備されている。
滑らかな道をただ進むだけ。目的地は変な場所じゃない、ただの準都市コロニーだ。道を逸れる必要はない。それなのに車が縒れている気分になる。現実感がしない。計器や景色を見る限り真っ直ぐに進んでいるはずだ。何回かハンドルやアクセルを意識しないと、どこかへと飛んでいってしまうような気がする。
運転席に座った僕は何錠かのカフェイン剤と大量のエナジードリンク、治療用ナノマシンによって意識を保っていた。これに比喩表現はない。一ヶ月にわたる数々の出撃と完全に割り当てる量を見誤った業務量によって、僕の身体は完全に打ち砕かれた。今となっては合法的に使える、又はまだ規制されていないだけのナノマシンを使ってしか動かない。
トリマンも似たような状況だ。彼は基地で負傷者の治療を行っていたため、もっと酷いだろうか。絶え間なく送られてくる患者相手に治療と補償の説明をして、ベッドに送り込んだり病院に送ったりする。そういうものの煩雑な事務仕事まで彼の仕事だ。結局睡眠時間を考慮しないことでしか対応できなかった。
こういう時のためにジルが居るのだが、肝心なハードウェアが足りない。デーモン2機は出ずっぱりで使えない、かといってラップトップパソコンはジルには窮屈だ。健全に切り離せる人間は死んでしまって、今あるのはぶくぶく肥え太った訳の分からないプログラムだけ。それを無理やり切り取って業務を遂行させるだけの能力は僕たちに無かった。
本当なら彼は起きていないといけない。助手席は視界が塞がれる大型車にとって寝て良い席ではない。それを抜きにしても、僕たちは軍人だ。多数の状況に対処する必要がある以上は寝ていられない。曖昧な頭でそう考えた。
「もう……なんにもやらないからな……おれは……信用金庫じゃない……」
「起こさなくて良いのか?」
「君の方が近いぞ。起こした方がいいんじゃないか」
「……今って仕事中では?」
「あいにく君の方が先に口調を壊したんだ。トリマンは死ぬほど疲れてる。私たちもな。一人ぐらい休むべきじゃないか?」
それはそうなのだが、かと言って寝ていい立場なのだろうか。回らない脳みそを使っていたので、少しだけ装甲車が揺れている事に気がついた。これ以上言っても讒言じみているだけだと思って止めた。
「もう面倒臭いからこのままでいいか。どうして僕たちなんだ?こいつが寝ていられる以外に旨味がない」
「アーチボルドの護送。確かに重要任務だな。だけど実際に指令が来たってことは、あっちにはあるのさ。というか動ける部隊が少なすぎてさ……こういうの言って無かったっけ?」
「言ってないな。僕が聞き漏らしたか、君が言い漏らしたかもう分からないが」
「どちらでもあると言えます。少なくともログには存在しません」
バックミラーの中のオフュークスは、傷病者のリストが表示された端末を置いた。隣で寝ている奴の業務だ。そして僕が言ったことの裏付けでもある。甘ったるい匂いのする長い缶を飲み干してから僕に向き直った。彼女の度を越した肉体ならストレスが低減されるという訳でもない。
僕たちはもう論理的思考ができない。当然ブリーフィングの時に聞いてあるであろう事を、そうしていないかもと思えるほどには。デーモンに乗ればもう少し思考もまともになる。もしくは寝れば。僕はまた傾いたトリマンを垂直に戻した。
「まあ、確認だ。確認。理由は大きく分けて2つぐらいある。一つ目は地球同盟軍には人手が足りないということ。特にデーモン乗りは」
「そこらの兵士を機械の中にぶち込めば、それだけで殺戮機械が完成するのがデーモンの良いところなのに」
「私たちみたいに兵士以上になれるのは一握りさ。ただ銃を撃つだけの人間が居てもしょうがないだろう。飛行訓練も受けてないやつに貴重な資源を使えるとは思えない。それなりに私たちは精鋭部隊だってことを知るべきだな」
そうは言っても、いくら精鋭だとしても3人だ。対処可能な問題にはどうしても限りがあるだろう。どうして僕たちが健康のリスクを度外視してアルギュレを救うことに腐心していたか。人が足りないからだ。もしも20数人だけでも兵士が居れば適当に働ける。
リソースというのはそういうものだ。誰かひとりが壊れるぐらい頑張って達成可能な目標へ、ふたり居るならそれなりにやれば達成出来るようになる。
「ま、要するに人手不足さ。そもそも隊員が足りていないからこんな事になってる」
「そういえば、火星はむしろデーモン部隊が多かったんじゃないのか?」
「少し前まではそうだな。最近になって人工筋肉の入れ替え、火星軍残党の活発化による治安と収入の悪化が起こった。特に酷かったのは後者だ」
彼女は軍服のボタンを留めようとしてやめた。奥に広がる荷台兼搭乗席から立って僕の真上あたり、耳元で話す。鬱陶しいので止めてほしい。もう少しだけ声が高かったら不快でしか無かった。
「それが二つ目。火星には面倒なイデオロギーがある。知っての通り、今の火星には第二次火星大戦を引き摺った人間が大勢居るのさ。もちろん地球同盟にも」
「どうしようもないな」
「そうだな。しかし、上層部は他の星系から引っ張って来られた奴らで構成されている。地球同盟軍としてはまた反乱を起こされたくないからな」
「……結果として頼れる相手が居ないってことか。逆にこの星で、まっさらな経歴の方が珍しい」
前提として第二次火星戦争で蜂起したのは、火星にいた地球同盟軍だ。さらに間接的に関与したものを含めるならそれ以前に存在していたほぼ全ての企業たちも対象になる。戦争下で他植民星に移動できない状況だったために、半強制的に協力していたからだ。
「だから火星軍と繋がりのない兵士を探していた。そして僕たちに行き着いた」
「その通り。私が火星で散々戦ったのを上層部はご存じでらっしゃる。火星の民族主義者たちとも繋がってない。完全にクリーンな相手だ。使いたくなるのは分かるさ」
オフュークスはおどけて言った。実際彼女は優秀だ。実務部分では知っての通り。内務部分でも下手なせいでこんな事になっている訳ではない、ということぐらいは分かる。
「君の経歴は奇跡的に火星と被ってはいない。トリマンも同じだ」
「そう言えば、こいつは火星の出身か?」
彼はよだれを垂らしながら白目を剥き、装甲車のけして良くはない乗りごこちでも昏睡していた。カーブを曲がるたび頭をシートやボディにぶつけている。
「いや。確か……ケブラー452bだったかな。士官学校を出たらしい。その後何回かPMCを転々としてから火星に来た」
「セルを稼げないのに、こんな所で何をやるってんだ」
「……未成年をな……孕ませてしまったから……」
「聞いて損した」
医療知識を備えている点から、僕たちとは違ってちゃんとした教育を受けているだろうことは想像に難くなかった。下らないとは言わないが、間違いなく人間として選択すべきことではない。
「まあ責任を取るために火星に住んでいるんだから……まだマシだろう、うん」
「過ちは過ちだ。僕が罰するということも無いけど、少し引いた」
「……話が逸れた。ともかくこれが向こう側が私たちに仕事を投げてきた理由だ。それとは別に、私からも受けたいと言った。目的のためだ」
少しだけ僕は頭痛を覚えた。カフェインが痛みを少なくしている。頭上に広がる機械的色彩の天輪が重力波を放ったからだろう。
「協力は感謝する。それでも理解はできない」
「私から君に言った方が説得力のある言葉だな。目的のために何回も死にかけている人間が言うことじゃない」
「……」
「アーチボルド・ヒュームはR・P・ファインマンと繋がりがあった。これは多数の証言と証拠から間違いない。奴は火星を蜂起させた。そのために使ったのが重力砲と巨大なデーモン、モロク。アーチボルドが強力な兵器を作らせるために研究を支援され、終わった後はコネを使って別の植民星企業へ。筋書きとしては十分理に適ってると思わないか?」
確かにその線も考えられる。ファインマンは一介の研究者であって、火星の黙示録のために協力させられた。オフュークス等に行った非道な実験、ヒドラオテス基地内で別企業と通じて資源を持って来させたこと。莫大な資金源がなければ行えない行為だ。これらにも理由がつく。
ただ、僕としては彼がそれ以上の存在であるという疑念が拭えない。それはこれまでの旅路があったからだろう。それぞれの星で巡らされていた陰謀は、たかだか火星の独立のために使われたリソースだったのか?経験を重要視するのは危険だとわかってはいるつもりだが。
僕の父親がファインマンに協力していたことが腑に落ちないのだろうか。資料を見る限り実験のために遺伝子データをかなり手広く集めていた。いくら非合法だとしても、セルの為に行った行為なら説明はついてしまう。それだけなのか?巡らせた陰謀に気が付かない筈が無いのに。
オフュークスの推測か、僕の経験則か。どちらが正しいのか。何にせよこれから明らかになる。作戦内では間違いなくアーチボルドと接触できる。その時を待つばかりだ。
太陽が出ている事に気が付いたのはそう思った時だった。まだ昼だったな。ごつごつとした岩肌と何らかの破片が赤い砂の上で転がっていた。空には無機質で威圧的に光るアツィルト、白い雲が散らばっていて割れた卵のような空だった。ありふれた光景だった。
「ああ、ようこそ。所属は……」
「第三治安維持部隊アルギュレ十二分隊です」
「あ、そう。じゃあ地下に行って。道なりに歩けば第五基地に着くから。よろしく」
白髭を生やした男は無意識的に僕たちを無視した。暗いオリーブ色の軍服には勲章が多い。彼のことをジルが調査した限りではどちらの大きな戦争にも参加していない。僕は上の人間になればなるほど業務の複雑さから人間を数字でしか見れなくなることを知っていた。また、それなりに会社に勤めていたのでどうとも思えなかった。
気怠そうに敬礼を返したあたり、いつでも反乱が起こるだろうと僕は思っていた。彼の名前を知っている。サミュエル・アプト准将。仰々しい階級とは裏腹に大した評価が見つからなかった。ついでに言うと全く技術畑の人間ではない。適当な人事によってここに来た人間だ。
業務上のあれこれで現場に出れないのは分かるが、せめてアルコールの匂いぐらいは分解するべきだと思う。
太陽湖基地の地下、換気扇の音が煩い部屋だった。案内されるまでに見た人間は彼以外にいない。火星に降り注ぐ太陽光や電磁波を解析するための基地で、本来は罪人が繋がれているような場所ではない。クリーム色に反射する光を眺めながら、僕は彼女が爆発しないかと思っていた。
「……それだけですか?」
「それだけとは?ええと、そう。トリマン中尉」
「それは左隣の方です。私はオフュークス地球同盟軍中尉です」
オフュークスは我慢できなくなり、彼に質問をした。しなかったらトリマンの方からしていただろう。
「護送する目標であるアーチボルドはどこに?」
「そこに行ったら居るよ。そういうのはそっち側でやってくれるかな」
「危険な男です。少なくともMDMASSを着用して相対すべきかと」
サミュエルは失笑を隠さなかった。軍服の下の腹が出っ張り、卵型になったシルエットが震えていた。僕は怒りを感じたが発散すべきとは思えなかった。
「いや、いや。あいつはそんな奴じゃない。ああ、君たちは初めてだから知らないか。アーチボルドはほぼ廃人だ」
「……事前資料にはそのような情報はありませんでしたが。少なくとも最大限の警戒を持ってして当たる相手と」
「じゃあ、資料が古かったんだな。誰かの手違いだ」
手違いの責任があるのはあんたなんだけどな、という顔をオフュークスは一瞬した。ぎりぎり分かる程度に顰めた顔はよく見る。最近になって彼女は感情がよく出る方だと知った。もちろん怒りと暴力ではなく、普通のものを。羨ましいと思った。
「その資料は多分捕まった当時ぐらいのものだ。最近は全くおとなしくて、廃人同然だよ。どうやら自分の専用MDMASSに妙な機械を接続していて、それが脳みそに変な影響を及ぼしたらしい」
「変な影響とは?」
「さあ。私に分かる訳もないだろう。しかしあいつはもう精神病まがいの何かに罹った。部屋に変な模様を書いたり、頭を打ち付けたり。少なくとも自死は選んでないあたり演技じゃないかと疑っているがね」
ため息とともに吐き出された言葉を僕は反芻した。精神に問題がある。彼が唯一使える武器であろう弁舌が意味のない戯言になってしまったなら、確かに末端も末端な兵士たちでも任務が遂行可能と判断するはずだ。だからと言って僕たちに下すべきだったか疑問が残るが。
恐らく妙な機械というのが、ファインマンの研究の結果なのだろう。人間の脳とマクスウェル機関を直接的に繋ぐもの。僕たちがやったことよりももっと根源的な何か。もっと情報が欲しいが、資料を間違って悪びれない人間がそれ以上知っているとは思えない。
「これでいいだろう。君たち、デーモンを持って来たらしいが、そんなもの不要だよ。拘束具を着せてある。しかも通るのは地下1500m以下の部分だ。誰も来やしない。遭難する方が先だよ。これで任務の情報は十分だろう」
サミュエルの主張は概ねこの言葉に纏められた。アーチボルド・ヒュームはもう危険な人間ではなく、ただの精神障害者でしかない。しかも拘束されているので生身で移送して問題ない。これで任務の情報は終わり。とんでもなく希望的な物言いに過ぎない。
部屋から出たあと、僕はそう言った。幾つか脚色を加えたかもしれないが覚えていない。とにかく任務を遂行するだけの情報が少なく、また信憑性にも欠ける。白衣の人間がちらほら見つかる廊下を早足で通り抜けながら作戦について話した。
僕の主張はサミュエルの情報はあまりにも端的であって、さらに信用もできないということ。ジルに探らせた限りでは確かに火星地下深くのトンネルは存在するが、太陽湖基地内からの経路も多い。簡単にアクセスできる以上は火星軍残党勢力が襲撃を仕掛けてくる可能性が存在する。
また、アーチボルドの状態も疑わしい。実際に見るわけにもいかない以上は警戒するしかない。精神病と言っていたあたり、健康状態はただの人間と大差ないのだろう。
ただの野心に目が眩んだクーデターの首謀者、良くある軍で人望を集めただけで政治の見えない人間ならいい。多数の非人道的な行いと星間を跨いで火星の独立に腐心した人間がそうなのか?
全てを確かめることは出来ない。疑念だけで動くことは正しいとは思えない。だが起こり得ることは全て起こる。軍事的に考えるならそうだ。
「やはりデーモンは必要です。准将の仰られたことが正しいとは思えません。火星軍の残党は何処にでもいる」
「そうか。私もそう思うが……そうするか」
「え!?い、いいんですか?」
トリマンは驚いてやや大きな声を出した。黄ばんだ壁紙が目につく、清潔さだけが保たれている廊下に声が響いた。
「その、だって……いくらあんなのでも階級は上でしょう?命令じゃないにしても逆らうのは軍規違反ですって」
「そうだな。だがやる。私たちが奴らの生贄になる理由もない」
「そりゃ……そうですが。いいんですか?あなたの立場は、その」
「私が勝手にしたことだ。何、それこそちょっとした行き違いでいいだろう。大したことでも無いさ」
そんな訳はないのだが、彼女はなんてことのないように言い放った。トリマンが言ったことはおおむね正しい。正式に命令されていない以上軍規違反では無いだろうが、人間的な関係が悪化することは間違いない。昇進の芽は潰れるだろう。
僕たちは彼女の命令に従った。準備と言えるほどではなく、デーモンと武器を持って地下に行くだけだ。金属と遺伝子から出来た悪魔に身をうずめる前に、自分のことで巻き込んだ罪悪感が襲った。半分はオフュークスが望んだことであっても、そうだ。
「姐さんはああ言ってるけど、いいのか?本当に」
「命令だ。従うしかない」
「はあ、何であんたの方が馴染んでいるんだか……ひどい任務だ」
装甲車の荷台には3機のデーモンが縛り付けられていた。一応僕たちはデーモン部隊なので、人数分集めるぐらいはできる。後は基地内に留まった隊長に届ければ体裁は保たれるだろう。
もっとも武装は隊長が持つグラディウスを除けばSARライフルのみ、近代的なドローン一つない。不安だった。仮想敵は火星軍が持つデーモンだ。彼らは僕たちよりも装備に気を使えるであろうことは、これまでの任務からわかっていた。非合法な商売は儲かるらしい。
隊長機のバックパックに刺さったグラディウスを見た。フィルムの中で見たような滑らかさはなく、チョコバーに棒を刺したような無機質な見た目だ。バトンよりも直接的な出力は落ちたものの、かなり制御が効くようになったらしい。少なくともビルはもう切り落とせない。全機とは言わないけどもっと配備してほしい。
死んだ人間を運ぶようにしてデーモンを基地地下まで持って行った。ジルが簡易的に調べただけでも地下へと到達できる複数のエレベーターが存在している。セキュリティも有ったが、施設内の人間が解除できるあたり信用はできない。
『ご苦労。じゃあ向かうか』
「……何故デーモンを?」
『不安でね。最近は物騒だろう?』
オフュークスは基地の人間と話していた。軍服ではなく白衣を着ていたので階級は分からない。黒髪を後ろ結びにした女性で、地味なスニーカーを履いていた。デーモンを見て少し面食らったようだが直ぐに毅然として彼女に言った。
「デーモンは彼を刺激する可能性があります。面会するならすぐに脱いで下さい」
『それは申し訳ない。しかしながら、我々は軍人です。彼を守り、移送することが目的です。最近の情勢からして備えることは理解して頂きたい』
「はあ……これだから話が通じない人種ってのは。着いてきてください」
悪態じみた小言はそれで終わって、代わりにクロックスの音が静かに響いていた。中年の足音をデーモンは奇妙な音だと判断したらしい。トリマンに肩を叩かれてライフルをバックパックに仕舞った。
地下道はかつて見たような遺構は取り払われて、無機質なコンクリートの洞窟になっていた。ライトが有ったであろう端子の下を真新しいケーブルが通っている。本当に彼一人のためにしか使われていないらしい。痕跡は今の所見つからない。
最新のデーモンならもう少しセンサーに引っかかるかもしれない。だが、それもごく僅かだろう。短時間しかここに居ないのか?それとも敵の方が上手か?考えている暇はない。
『それほど彼の病状は悪いのですか?』
「ええ。はっきり言うのなら、こんなことをしなくて良いのではと思う程度に。あの人はもう大佐ではなく哀れな小男です」
『ひどい言い方ですね』
「失礼。医者として恥じるべきでした。しかし本当です。不安障害と統合失調の合併症と言うべきでしょうか。薬も足りていないのに……だから刺激は与えるべきでないと言ったんですがね」
地球同盟軍の資金不足は相当なものらしい。重要な囚人なんて彼一人ぐらいしか居ないだろうに、それぐらいも守れないのだろうか。
何分か歩くと目的地に着いた。暗い地下の中でその部屋の周りだけが煌々と輝いている。野外を照らすための投光器の白い光の隙間、柔らかな光が部屋から漏れていた。他の部屋と違ってそこだけ新しい、まじまじと見なくとも分かるほど分厚い金属製の扉が設置されている。
その隣に銃を持った衛兵が2人。CV-7カービン。フラッシュハイダーを見る限り口径は落としていない。人間が扱えるギリギリぐらいの銃器だ。備えているだけだろうか。僕たちに気がついて敬礼した。同じくして僕はぎこちなく返した。
ただの人間だ。作業用のデーモンさえ着込んでいない。銃器、もしくは素手でも制圧は可能。仕草や表情で分かることはないなら疑うしかない。彼らと医者を制圧することは可能だ。
「移送の時間です。2人とも着いてくるように」
『我々だけで行うのでは?』オフュークスは淡々と質問した。
「いえ、どうせここに兵士を置いておくわけにもいきませんから……本当に伝達が上手くいってないようですね」
『お恥ずかしい限りです』
兵士たちが扉を開けている間、オフュークスは”お手上げだ”という感じのジェスチャーをした。僕はやらなかったがトリマンは同じことをした。
上中下に取り付けられた錠前を開き、扉が開く。見た目とは裏腹に音一つしなかった。少しづつ内側が見えてくるにつれ、奇妙な音が聞こえた。壁にやわらかいものを打ち付けているような。人体の音だ。中にいる灰色の服を着た男性が頭を動かしている。
血漿の色は鮮やかに白い壁の上に塗られた。激しくなっていく音と共に目玉がまろび出る。それに紙で出来たスプーンが付着していた。止めようとしたのは衛兵たち、その次はトリマン。僕とオフュークスは患者を取り押さえにかかる3人の様子を見ていた。医者は扉の中に入らず、自傷をただ見つめていた。
男は背中を丸めていた。もっとも、その状態に至るまではかなり暴れたが。壮年の男は目玉を取り零しながら涎を吹いている。眼が片方しか無いとそもそも表情が分かりづらくなるらしい。とにかく彼がアーチボルド・ヒューム。第二次火星大戦を引き起こした男。
精神病状態というのは本当だったらしい。こうなると情報を聞き出すことは不可能だろう。治療するか?そんな稼ぎはない。売り払える情報や発明もない。地道な活動をしながら父親の日記を解読するしかないか。それも電気が足りないからかなり時間が掛かる。
『いつもこんな感じかよ?!』
「か、感謝します。その通りです」
『デーモン居なきゃどうなってたんだ……隊長、とりあえず運びましょう。落ち着いてるうちです』
『そうだな。リュラ、反対側を持て。すみませんが安定しているうちに我々が移送します』
「困りますね」
ええ、とオフュークスが僅かに漏らしたとき、FCSに反応があった。重力波だ。
ライフルを取り出すよりも早く医者が部屋の中に踏み込んだ。ちょうどデーモンが3機いる中心部で彼女は弾けた。真っ赤に光る爆炎が見えた。グリア爆弾だ。人体は直ぐに炭化していくだろうことを知っていたから、何故そんなことをと。




