31,
空に浮かぶエンジェルは空爆を繰り返していた。そのうちの一つに当たった僕はジルを積載したトラックに拾われた。
目線を道から空へと一瞬移すとエンジェルが見えた。ジェットエンジンを使っているようではない。補給も受けずに、空中に長時間静止していられるのは強大な重力出力を持っているから。彼らは静止したまま、たまに爆弾を吐き出して地表へと落とす。
僕に向けてではない。詳しい事は分からないが、地球同盟軍の弁明によると”反コロニー的組織の殲滅”らしい。もっともそれを信じる人間はどこにも居ない。火星の人間であればこれが明確な抑圧であると分かるはずだ。それと同時に企業間のネットワークがやりたかったこと、なのか?
前者はほぼ確実と言っていいが、後者はまだ分からない。支配したいのならいくらでもチャンスはあった。遺伝子を大量に集める過程、人工筋肉の製造の過程。そういうやり方の方が穏当で楽だった。エンジェルを使って直接火星を掌握するのは反乱して下さいと言っているようなものだ。今になって、という事は妨害でもされたか。
トラックの中ではエンジンの音と風切音、そしてラジオの静謐な口調が聞こえていた。
『地球同盟軍は新型のマクスウェル機関搭載型ドローン、セラフィム級を製造。これを火星軌道上に配備したとの報告です。同軍の指揮官によりますと、これは度重なる火星圏でのゲリラ行動及び海賊的行動に対する行動とのことです』
『セラフィム級は全長30m程度、高い航続距離と高度な連携能力を持っているとされ、大気圏下では誘導爆弾による爆撃を目的に設計されたと考えられています。宇宙空間ではマイクロミサイルを配備、新型のクラスター親機によってこれまで以上の射程距離を持つとも……』
『このドローンの配備は少し強引との意見も散見されますが、これについてどう思われますか?』
ラジオのアナウンサーは軍事ライターに話を振った。彼は明確な見識を持ってして、決断的に語り始めた。
『これは重力爆弾についてのカウンターでしょうね』
『重力爆弾というと……あのTrappst-1dでの内戦で使われたという新兵器ですか』
「もっと前から使われたんだけどな」
『正確に言うと、ケプラー452bで使用されたのが最初の例です……この兵器は地球同盟が開発していない2番目の大量破壊兵器と見なされています。同盟軍側からすれば自分達が知らない場所で、ノア級空母レベルの標的を破壊できる兵器が製造されているかも知れない。これは看過出来ない状況です』
『それで火星に配備されたと?』
『ええ。火星は地球からも近く、ノア級を使わなくとも輸送が可能です。理由はともかくとして新型のエンジェルを製造して配備するなら、この星が一番早かったのは妥当と言えるでしょう』
陰謀論者にでもなった気分だ。確かに軍事的な目線で考えればそうとしか捉えられない。ちょっとした抑止力的な考え方、そしてちょっとした愚かな判断。歴史上で繰り返された戦争の引き金を下ろすであろう逸脱行為。
1番目の大量破壊兵器、重力砲を間近で浴びた身としては恐れることは理解できる。2回目もか。ともかく物理的な強度を無視して破壊が可能な兵器が造られるのは、一般的に言って危険だ。以前のように対抗できる技術を作るのにも時間が掛かるだろうし、その間にどれだけのやりたい放題できるかも想像に難くない。
だからと言ってやって良いこととは思えない、というのが僕の意見だった。ありふれている意見だ。言うことが出来ないことも含めて。
『なるほど……では続いての質問ですが、爆撃についてはどうお考えですか?地球同盟は先述の通り、火星圏での治安維持行為だと説明していますが』
『私の見解は違います』
彼が火星軍人だったかどうかは分からないが、誰でも同じように考えるだろうとは思う。しかしそれを直接言うとなると話が違ってくる。
『確かに火星で反社会的な活動が多い事は否定できませんが、このような対処方法は強権的と言わざるを得ません。そもそも地球同盟軍がエンジェルを使用して治安の維持をすること自体間違っているでしょう。いくらAIが戦術的倫理的に正しい行動をすることが可能とはいえ、選択は行わなければならない。責任を取るのは人間です。現場の、しかも人間との判断を任せられる媒体ではない』
『……つまり、エンジェルは根本的にこのようなことに向いていない。一方的な爆撃などはもっての他です。今地球同盟軍が行っているのは火星に対する抑圧です。よりにもよって地球経済圏との紛争があった場所で行うことではありません』
ラジオのあまりに正直な言い方に、僕は笑ってしまった。ハンドルが緩んでトラックが揺れた。
「まだ麻酔が効いていますか?地球同盟軍にバレますと大変ですよ」
「しょうがない。負傷してるんだ」
ジルの口調は至って平穏だった。産みの親が連れ去られたってのに冷静だな。育ての親に似たらしい。
僕の顔と右手、そして頭は半透明のフィルムカバーを被っていた。安物の緊急医療キットに入っていた外傷を一時的に保護するためのものだ。対向車のドライバーが僕を見たら驚くだろう。サイバーパンクバンドのように顔にオレンジ色のビニールが被さっているのだから。
加えて麻酔も使っている。フェンタニルがごく少量入ったナノマシンスプレーを使った。顔面の消えたタンパク質の部分に吹きつけたときには、かつてのミランのことが分かるようなひどい痛みを覚えた。しかし、今は酔ったようないい気分だった。ドラッグをやる人間がいつでも増える訳だ。
色彩は普段の視点よりも鮮やかに、光量はさらに激しく鳴っている。昼間の何の変哲もない道だったが、目の前で恒星が爆発しているような視界だった。ナノマシンとマクスウェル機関の影響が合わさってより強く頭に働きかけているのかも知れない。
そう考えて、それも頭のどこかに追いやられてしまう。冷静さを会話でどうにか繋ぎ止めているような状態だ。
「コワレフスカヤを救出するには急がなくちゃいけないんだ……この判断が正しいのか、今の頭じゃよく分からないけど」
「正しい、と私も判断します。あなたはいつも通り信じないでしょうが」
「その通りだ」
「彼女はこれからにおいて必要な人材です。もうセルもあまり残っていませんし、新しい人間を雇う事はできません。信頼できるかどうかも不明です。彼女は少なくとも私がいる限りは裏切りませんし……能力は評価に値します」
「まあ、そうだろうな」
妥協と言うべきではないのだろうが、コワレフスカヤ以外の人間を選べるような状況にはなっていない。結論はずっと前から変わらない。それ以外の理由を見つけるような暇もない。
アルギュレまでの街並みは崩れかかっていた。エンジェルからの爆撃のせいだ。仔細に描写するなら、それらの中には何棟か破壊を免れているものもある。地球同盟が言っていたことも間違いではない。AIか人間の将官か、誰かが破壊するべき目標を決めているらしい。
それが良いことなのかは分からないが、一応は狼藉がしたいだけということでもないらしい。それがなんだ。ぐちゃぐちゃのゴミの中から飴玉を見つけたって、ゴミはゴミなんだ。
この星は荒廃していくだろう。そう断定できるような情勢だった。ラジオで公然と批判的な言動を取れるし、それを咎められもしない。通常なら地球系列の企業からクレームが行って止まる。同盟側も不満を持っているのか、捌ききれていないのか。どちらも最悪だ。
どうしてここまで感情が動かされているのかも分からないまま、景色が激しく動き出す。空から爆弾は落ちていない。
アクセルを踏み込んでトラックのスピードを上げていた。幸いながら切るべき手札はある。何台か監視カメラの録画を確認して、コワレフスカヤが居るビルも分かった。後は犠牲を払うだけだった。手を押し入れて、僕はイポスに飲み込まれる。もうアクセルを抜いてどうにかなる速度では無かった。
ドアを蹴り破ってガンケースを取った。HDDはいつでもデカくて重いので、とんでもない圧縮率にせざるを得なかった。それでもジルの記憶にしかならない。ガンケースをバックパックに押し込んで助手席から跳び立つ。トラックの進行方向には廃ビルが。
「ジル、負荷を掛けろ」
「了解しました。範囲よりお離れになって下さい」
彼女の語調はどことなくぎこちない。旧式のデーモンの数少ないシリコンの中に入っているせいだ。揺られながらもトラックは違法速度で光なき道路を駆け抜ける。あっという間にそれは小さくなり、目標の廃ビルに衝突した。粉塵が舞い上がるとともに荷台から小さな光が漏れ出でる。
あれの中身は人工衛星のかけらだ。僕が現状持ちうる最大の手札であるジルが入っていた大量の半導体の集積体。今、それにジルはDDoS攻撃を仕掛けた。基幹システムにはもう彼女はなく、AIに生成させた無駄なものをインストールさせている。するとどうなるか。
小さな光は段々と強くなり、閃光になろうかという所で消えた。レーダーを見る。重力反応がその動きを止めている。負荷に負荷が重なり、コンデンサーから電磁パルスが発生した。
僕は走り出す。デーモンは範囲から外れた場所にいたため無事だ。相手もずっとそのままでいるということはないだろう。この目眩しが通用している時間は長くない。ビルまでたどり着くと玄関から入ることなく跳躍。壁から出たパイプに手を掛けて登攀を開始する。
視覚モードをサーモグラフィに切り替える。熱を探知すればいい。寒冷な火星では電線とケーブルが見やすくなる。カモフラージュした部屋でもそれを辿っていける。電気も通っていない廃ビルを選んだのは愚かだった。後は敵機次第だ。
「デーモンにプログラムは送れるか」
「可能です」
「やれ」
僕は彼らが行動する前、早めに妨害を出す判断を下した。ヴォーソーのEMP攻撃に対する耐性なんて分かりもしないが、諸々の技術の進化で立ち上がりも早くなっていると考えるのが妥当だろう。だから2番目の妨害も考えてあった。僕が殺したヴォーソーだ。
階下から赤子の叫び声のようなものが聞こえた。重力レーダーに新しい点が増える。その点を追って3つの点が動いた。予想通りだ。デーモンにはマクスウェル機関と人工筋肉がある。それを繋げて暴走させる。この考えは上手くいったらしい。
窓を割って建物内部に侵入する。床、壁、梁と柱。熱源反応は無い。剥き出しのコンクリートで構成されている。手は加えられていないようだ。罠を仕掛けられるようなオブジェクトひとつ無い……暗闇と静寂だけが支配する廃墟だった。
些細な痕跡に注視する時間がない。警戒を怠ってでも早急に調べなければ。ライフルを腰だめに構えてクリアリングを簡易に行いながらフロアを移動する。早く移動すると何処かしらの部位が痛んだが、それだけだった。無くなっていないだけ十分だろう。
フロアを探し終えて階段に向かう。破損した建物の角から冷気が流れ込んでいた。恐らく月光もだ。最上階への踊り場に緑色の線、ケーブルがあった。
最上階へとケーブルは続いている。芸のない考え方だが、面倒極まりない。もしも増援を呼ばれたら彼女は連れ去られ、僕はミサイルで死ぬだろう。そしてそれを防ぐための手段はさっき失った。
重力レーダーに歪みが生じる。重力湾曲爆弾を敵が使ったらしい。敵機体を察知する手段を失った。僕が攻撃に来たことがもうバレたのだろう。イポスに高性能なレーダーなど無い。そもそも悠長なことはやっていられない。
サーモグラフィから暗視に切り替える。どれだけ先端的な技術であろうと目視の延長線上にあることは変わりない。どうしようもない部分はある。最上階フロアは階下と同じく打ちっぱなしのコンクリートで構成されていた。しかしその隅、窓際に通信機器や雑多な資材が積まれている。
何の変哲も無い物たちだ。神経を尖らせるには十分すぎる。重なったケーブル、机がわりにしたキャリーケース。その上に置かれたレーダーとラップトップ、仕切りのビニールシート。どれも今さっき運ばれたか、数日間程度使用された形跡しかない。視界を塞ぐ量でもない。あまり整頓はされていないが突貫で出来た指令基地なんてこんなものだろう。何処にも脅威は見つからない。
この中にデーモンが居ることは間違いない。もしくは兵士か……何らかのチャフを撒かれているのか、電磁波から大まかな場所を当てることも出来ない。熱源も同じだった。ヴォーソーをスリープ状態にすればそもそも見えやしないだろうが。ライフルを使って機材ごとやるか?いや、その間に攻撃される可能性の方が高い。その前に何処にいるかも分からない彼女がいる限り出来ない。
戦わずに、コワレフスカヤを見つけて離脱するのが最善手だ。僕はフロアの一角へと近づいていく。危険を承知で見つけなければいけない。引き金から指を離さずに一歩、また一歩進んでいく。ケーブルを踏んで、養生テープを踏んで。
がさがさした何かが足に触れた。銃口が掩体の影へと揺れる。揺れるさなか、僕は一番奥にあったビニールシートに近づいていく。パッシブ式の暗視が何処まで作用できているのかも怪しいが、外から見る限り異常はない。そんな情報は要らない。
片手をグリップから離してシートに向かわせる。端を持つために屈まなくてはいけない。それもぞっとさせるような動作だった。打撃を行うような素早さで捲り上げて、ライフルを突きつける。燃料タンクだ。
後ろから銃声がした。グリア粒子が飛び散る。跳躍を開始、宙に浮かびながら回転。再び銃撃。何処に隠れていた、ということは考えなくともいい。もう終わりだ。目の前に銃口がある。
ヴォーソーの輪郭は所々黒くなっている。敵は自身に掛かっていた膜のようなものを剥いだ。ナノマシンで出来たカモフラージュか。経験には無いからどうしようもないな。デーモンは銃口を突きつけたまま僕を蹴り付けた。何回かをそれを行なって、完全に僕は動けなくなった。
ライフルを床に落とされた。ナイフと拳銃は背部ラックの中。手を挙げた状態からなら何処でも問題なく遅すぎるか。
部屋の隅、機器が置かれていた所とは別の部分が歪んだ。キラキラと僅かな光を反射しながら、ナノマシンが自己分解する。景色が歪んで本来の部屋、機器が置かれたもう1つの基地が現れた。その中には2人の女性が居る。コワレフスカヤとネリー・デーンホフ。奇妙に整えられた顔に、暗視状態でも分かるせせら笑いが見える。どうしようもない。
デーモンが使ったものと似たようなものだろう。問題はいくら旧式とはいえ赤外線や電磁波をほぼ漏らさないことだろうが。
コワレフスカヤの様子は……パーカーを剥がされているが無事だ。見る限りの外傷は見当たらない。表情は何も無い。思い返せばあれが無い時は常にあのようなものだった。
確認は済んだ。暗視を切っておく。破壊された天井から月光が降り注いでいる。その辺りぐらいしか見えない。
「何ともまあ、呆気ない終わり方だね。リュラ」
「いつ死んでも呆気ないさ」
「まあどうだっていいが。あんたがやって来るとは思わなかったね」
この防衛体制を作っておいてか?白々しい。
ネリーはゆっくりと僕に近づく。コワレフスカヤを拘束するものは見つからない。彼女のことだろうから、何らかのナノマシンを使って動けないようにしているのだろう。
「てっきり血も涙もない人間だとばかり。あんたの理由は父親のことを探るだけだろう?こいつをわざわざ救おうとするなんてのは無駄そのものだ。始末する手間も省けただろうに、なぜここまで追ってきたかね」
「そいつが居なくなると色々面倒なことが起きるんだ」
「ふん、あの手遊びかい」
「手遊び?少なくともそいつは人生を掛けていた」
僕は自分からそんな言葉が出て来ることに驚いていた。
「それが。無駄だったんだよ。あんたみたいなちっぽけな傭兵一人助けるに留まった、惨めなプログラムに過ぎないのさ。せめてもっと派手にやってくれたら私たちも興味を示したのに」
デーモンの排気音が大きくなる。ヴォーソーにそんな無駄な機能はない。勿論イポスでも同じだ。感情ほど邪魔なものは無いな。
「それならあんたたちは喜んで使うのかよ。経済を支配したい訳じゃないんだろ?コワレフスカヤみたいなのを作って何がしたい」
僕が笑うと、目の前のヴォーソーが蹴ってきた。肺の中の空気が押し出された。内臓も恐らくは損傷した。
「私たちは与えられたが故生きるのみさ……マクスウェル機関について、あんたはどれくらい知ってるんだい?」
「ゲホッ、重力を発生する機関だろ」
「それはそれは、博識なことだ。しかしアンタはデーモンを暴走させただろう。便利なエネルギーを放出するのはマクスウェル機関の一つの機能に過ぎないのさ」
また一歩、僕の方へ近づく。敵のデーモンはネリーを制止するように手を差し出す。それも下げさせて目前に。
「アンタ、考えることは出来ても実証実験を行わなかったんだね。空間と時間を無視する重力が操るのが、人工筋肉だけかと?脳みそだって、人間だって同じさ。どうして操れないと思ったのかい」
「……構造が違いすぎるだろ」
「人体での役割は同じさ。結局は運動器官のために存在することは変わりない。ま、アンタみたいなのに言っても仕方ないだろうけどね。結局分かりもすまい」
こういう人間と付き合わなければ行けないラウンケルの会社員が不憫だな。能力では足りているとしても、過分に性格が悪い。
「私たちは既にそれを手に入れた。デーモン部隊の行動を見たかい?美しいまでに連携が取れていた。マクスウェル機関を基にして全員の意識を統合させた」
「見てない」
「そうかい。じゃあ目の前にいる。デーモンではないがね」
僕はコワレフスカヤの顔を見る。凍ったように無表情だ。ネリーの表情は見なくとも分かるのでいい。
コワレフスカヤを誘拐したのはそういうことだろう。通信を使って連絡するよりも速く、意識を飛ばして侵入者のことを知らせた。だから爆撃の前後で素早く行動が出来た。僕はというと重力湾曲爆弾でその行動も分からなかった。
クローンをわざわざ作る理由もこれで理解できた。コワレフスカヤという人間は、ネリーという人間になる。もしも彼女が言ったことをそのまま信じるなら情報と知識の共有も……可能になる。
「もしも自分を増やせられたら、なんて考えることは誰でもある。それが出来るのさ。私は我々で、我々は私だ。重力の中でこそ私は永遠になるのさ。そして頭の中も一緒に出来たら……最高なんだがね」
「こいつに金と時間を与えたのが間違いだったさ。結局の所クローンも遺伝子的には同一だが、組織的には同一でない。それに学習もしなければいけない。大学に入れて下らないことをやったと思ったら戦争に行く。思い通りにならないことも偶にあったが、ここまで歯向かうのは想定外さ」
「……何処まで一緒なんだ、あんたらは」
「私を中心にしている。全く自我が無くて、あんたに殺されるぐらいのことを平気でやる奴もいればこんなのも。全員の意思が消えれば良かったのにね」
まあ、それはそうかもしれない。そういう意味で言ったのではないだろうけど、僕が苦しむのは無意味に自意識を育んだせいだ。コワレフスカヤが苦しんだのも。ただ、僕とは違って彼女は何かを残した。それは尊敬に値することだ。
ネリーはコワレフスカヤに近づいて彼女を蹴り上げた。訓練を受けたことは無いらしい。何回か不恰好に平べったい靴を打ち付けた後に、ナノマシンを打った。コワレフスカヤは痙攣した。センサーが死んでいるので生死は分からない。
「別に愛想も良くはない、才能もない。そして私に従わない。そんな人間、いくら死んでも心も動かないさ……アンタは違うのか。寝たのかい?」
「いや」
「ふうん。ま、話はここまでにしておこう。ファインマンの作った資料は何処にある?」
「自分で焼き払ったんだろ?エンジェルに指示させて」
「指令系統が違くてね。腹立たしい」
「自分が手に入れて、その技術を手に入れたいだけじゃないのか」
「どうだろうね」
多分、当たっているだろう。ネリーは結局の所企業間のネットワークに支えられている、それなりに大きな権限を持つ中間管理職でしかない。でしかない状態に甘んじるということもしない人間だ。
「暴走は下らないリバースエンジニアリングの結果でしかない。彼の技術があればもっと完璧なものが出来る、エンジェルだってデーモンだって人間だって操れるようになる。そうすればラウンケルはもっと上に行けるんだ。分かったかい?」
「多分だけど、あんたの上の人間はそんなことはどうだっていいんだろうな。本来の目的じゃない」
「ああ、そうさ。それが私に何の関係があるってんだ」
聞きたいことは聞けた。ジルが未だデーモンの中で存在することを彼女は知らない。誰も居ない通信に簡易信号を打ち込んだ。デーモンの骨格に阻まれる程度のか細い声で、”脱出する”と言う。デーモンから液体が生成されていく。
瞬間的に人工筋肉が緊張、僕を前方に押し出した。銃撃が頭の上を通り過ぎる。月光は増殖した体組織によって隠された。僕が居なくなったイポスは暴走の条件を満たしている。ネリーとデーモンを飲み込んで筋肉と臓器が増殖する。
ライフルを地面から取り上げてハンドルを弾き、デーモンに向かって構える。暗順応は済んでいる。途轍もない破裂音が連続する。僕と敵機のものだ。ただ熱源も暗視も視界を塞がれていては無駄だ。ピンク色の人型になったそれの中へと銃弾が入り込み、グリア粒子を撒き散らす。
反動が僕の体を殴りつける。肩の辺りを連続して打撃されているような感触だ。それでも耐える。このライフルを使ってきた経験だけが僕を支えていた。
音が止んだ。耳がさほど痛くないということは、体感する時間よりもずっと短かったのだろう。A.G.弾薬は便利だ。デーモンが少なくなるのも分かる。生身の兵士だってうまく行けばパワードスーツを着た人間を殺せるのだから。ヴォーソーは完全に沈黙した。ばたばたしていた肉はもう動いていない。浮き出ているその姿もすぐに見られなくなるだろう。
だんだんと痛みに追い付かれる体を引き摺って、ラックが完全に肉に飲み込まれる前にガンケースを引き出した。
ネリーは近づき過ぎた。暴走によって製造されゆく人体の中に飲み込まれて、原型さえも分からなくなっていた。
窒息か、圧死か。わざわざ近づいてとどめを刺す理由はない。僕は肉塊から離れるために歩いた。負傷に負傷を重ねた身体ではゆっくりとしか動けない。基板が生きていたらジルは暴走を止めてくれるだろう。コワレフスカヤを見た。脈を取る。まだ心臓は動いている。端末のライトを使いたいが、腕が上がらない。
「生きてるか。コワレフスカヤ」
「……あ、あ。きたのか……」
「来たんだよ。どうしてか分からないけど」
こんなに負傷してしまってはジルがどうこう言ってられない。彼女を助けるメリットが現在の状態を上回ることはないだろう。どうやって医者に駆け込むか、その手段が思いつかない。下のデーモンたちが撤退を選んでくれると嬉しいんだが。
どうしてこんな事を?僕はどちらかというとコワレフスカヤのことが嫌いだ。研究を優先する面倒な人間だし、正直僕も鬱陶しく感じるくらいにジルの事を好きだ。そう、僕には貰えなかったものを……それが何だってんだ。ただ助けられるべきなら助けるべきだ。
彼女は、やはり何かしらのナノマシンを打たれているらしい。手を握っても反応がない。もっと使えるだけの筋力が残っていたら確かめられる。僕は彼女を引きずってどうにか動いた。お互い限界だからか文句を言わなかったのは有り難かった。
「……なあ……」
「何だよ」
「……ありがとう。これで、まだ……ジルを……」
爆発が近くで起きる。エンジェルからの爆撃だった。熱源を検知して投下したのだろう。この寒空の下では蠢いた筋肉はよく見えるはずだ。暴走した人工筋肉を脅威と認定するのも全く持って正しい。そんなこと頭に無かったんだな、僕は。もっとよく考えるべきだった。
頭の中を占めていたのは後悔だった。どうしてこんな愚にもつかないことをやったのだろう。感謝が欲しいわけでも無いが、得る物が無い。爆炎が僕たちを照らした。人形のように固まった女性と、フィルムと包帯だらけの負傷した男が見えているだろう。ちょっとしたレイプ犯に似たような状態だ。間違いなく空爆が来る。
空から降りてくる死を僕は受け入れようと思う。それ以外の選択肢がないから。
「……ほんとうだぞ……ありがとう……」
弱々しく、彼女が僕の手を握った。ナノマシンが代謝されているのだろう。
考えることがもう面倒くさくなった。ジェットエンジンの音がけたたましく響く。フリゲートのサーチライトが月を塗り潰して光る。どうやら火星の地球同盟群までやってきたようだ。いよいよ終わりだな。空で爆発が起こる。爆圧が僕たちを吹き飛ばした。覚えていられるのはそこまでだった。




