26,
作戦が上手くいったのはどれくらい前の事か、僕はもう思い出せない。少なくとも前の2つとそれに追随した細々したものたちは、それぞれぐちゃぐちゃになった。結末だけが成功と言えるようなものだった。
トラピスト1dでの問題は戦況が膠着してしまった点にあった。僕の、ラウンケルの目的はあくまでもファキオにある遺伝子のデータ、それと企業たちの繋がりを示す証拠たち。ここがどうなろうと関係がない。ここの将来を考えてどちらかに勝たせるような道理もない。だから僕はこの手を選んだ。
ジルが獣のような声をあげてインターネットの濁りを濾過している。いくら衛星級のサーバーだとしてもこの星に降り掛かる破滅的な情報の流れを受け取っているのだから、とんでもない苦痛を味わう事にはなるだろう。AIには神経がないから、思考を妨げられるぐらいのことか。
「この蒸気で肉とか焼けんじゃねえの?肉あったか」
「冷凍ターキーならあったがよ」
「めちゃくちゃいいじゃん。やるか」
「君たち……」
2人は驚いて開いたトラックの荷台から離れた。彼らに近づいているのはツナギを着たコワレフスカヤだ。どうやって改造したのかは分からないが頭にも同じ素材でフードが被さっている。彼には麓近くで装甲車を任していた。ファフロッキーズの引き金を引く役だ。そして、作戦が終わってから真っ先に彼はここにやって来た。
肩を粉砕骨折した哀れな男を忘れてまで、だ。間違いなくジルの為だった。彼は自分の被造物を愛していた。今も馬鹿でかいブースターケーブルを持っている事だし。僕にはまだない感情なので、良くは分からないが。
「君たちが我が子を利用するなら……電流を流す。何Aかもう分からないが確実に心臓を止めるぐらいのやつだ」
「冗談、冗談だってさ。なあ?ジョージ」
「ああ。少なくとも俺は何もやってねえな。あいつのコーンと違って」
「おまっ……あいつマジでやる気だぞ」
「お前の方が足は速いだろ」
僕は下らない会話を聞きながら肉を焼いていた。白い煙が木々の隙間をすり抜けてあがる。流石にジルとは離れている。弾けて燃えるのはエクソダス種の脂肪だ。今まさにこの植民星の情勢が変わろうとしている中で、陽気に僕たちはバーベキューをしている。
最初から言うと作戦は成功した。トラピスト1dの内戦、その膠着を打ち破るためのものだった。色々とこの状況になった原因はあったけど、要はこの大陸の戦力のみになってしまっているから拮抗している。なので情報を流してしまえば企業たちはある一方に尻尾を振るだろう。
少し変だと思っていた。こういう作戦には地球同盟軍やら他の星の企業やらがわらわらと集ってきてさらにどうしようもない状況にする。それなのに一向に爆撃の雨は降ってこない。その原因は容易に推測できた。僕たちがここの状況を知らなかったことと同じだ。情報が外に出ていない。
何回かコンピューターを使うと、なぜそうなったかも分かった。絶望的に通信が遅い。山ほど届いていた通販サイトからのクーポンメールを確認するのに数分かかった。これではSNSに蔓延ったインターネット怪人たちに拡散してもらうこともできない。
ジルが入った衛星の破片にファキオの通信と電力ケーブルを接続して、トラピスト1dの状況をインターネットに流す。それが今回の作戦の概要だった。ここの情報が渡っていないのはインターネットがパンクしていたから。それの原因はこの星が農業を主要産業として考えていたので、通信に使うキャパシタが足りないこと。
サーバーを設置して、ファキオが使っている電力と通信網を一部貰う。そしてこの星の情報をわずかながらも宇宙に流していく。そうすれば企業たちはトラピストに降りてくるだろう。衛星エレベーターだって普通のそれと同じように、昇るためには降りる必要があるのだから。
「……これで全部終わってくれると良いんだが」
「相変わらず辛気臭いな」
「変わってないって言ったのは君だろ」
「そうだった。貰っても?焼けたんだろ」
「ああ」
僕の横の皿には焼けた肉が何枚か重なっていた。黙々とやっているとこうなる。ミランは左腕で器用に肉を持っていって、口に放り込んだ。
彼の風貌は怪我人そのものという感じだった。振り乱した金髪と、肩と胸から右腕にかけて付けられた包帯。それを首から提げている。ミランの怪我は脱臼という生優しいものではなかった。粉砕骨折だ。到底人間が扱える口径を越えた銃器を乱射したのだから当然だろう。
「……思ったよりも美味い。やっぱり生の火は違う。オーガニックだ」
「そんな原意はない。使い過ぎたのか」
「うん。どうも、説明して回っていると頭に染み込むんだな。ナノマシンのせいかもしれないが」
ミランには当然ナノマシンを投与している。デーモンに備え付けてある応急処置用のものと、装甲車にある医療キットのもの。ストックに当てていた鎖骨辺りが折れたので、相当な量を彼の体に入れなければいけなかった。ヴォーソーには外装を解放しなくとも液体を入れられる機構があったので、苦痛を味わう事にはならなかったのは良かった。
ミランは無言で肉を食べていた。部位は分からないが、赤身の肉だ。脂肪はほとんどない。企業の求める資源に突き動かされ、エクソダス品種は現在も現役だ。少し歳を取ると収穫が外部的要因にほぼ左右されないという点で、数多くの農家を救っているのではないかと思ってしまう。
どうしてこんなことになったのか、僕は少し思い出す。始まりはミランがここを出ていく企業の機器を引き取ったことだ。そういう会社に処理させるよりも費用が掛からないから。つまりは逃げるにあたって打ち捨てたのと同じだが、痛みでひどいことになっている彼はそれでも受け入れた。その時はトローチを舐め始めたばかりだったのに。
あとは流れに任せたようなものだ。コワレフスカヤが使うちょっとした電子部品を集めていると、なぜかピットグリルを見つけた。普段はタバコの火も許されないが、あんなにごうごう唸るコンピューターがあるのでは関係ない。死ぬなら死ぬだろうと判断して僕は許可した。
「お前も食え。冷めると多分そんなにになる」
おそらく下の方はもうそうなっているのではないか。僕はそう思ったが、使い捨てのフォークを刺した。余計なことを考えると疲れるのだけど、疲れていると余計なことしか考えられなくなる。
「……もうそんなにじゃないか?」
「そうか?味ついてないんじゃないか?あれあっただろ、シーズニングが」
「どうでもいいよ」
食べているのにまた味をつけるのもなかなか面倒だ。それに食事も同じくして。肉の味がしている。繊維質が歯に絡まるような気がして不快だ。新しく紙皿を取り出して、一口齧ったそれを置いた。僕は何かの話題を取り出そうとして、結局作戦のことしか思い浮かばなかった。
「多分、上手くいってるはずだ。アンテナもない、突貫で無理やりに人工衛星ハッキングしながらSNSの通信容量を伸ばす。そうすればいつかは……」
「ここが焦土に変わる」
「まあね」
僕は彼を見た。肉のわずかな油によって唇がてらてらと輝いていた。
ここへ企業たちが来れば、間違い無くこの内戦は激化する。恐らく多くはウラジスラフに味方するだろうが、人工筋肉の需要からイワンを援助することも予想できる。感情はここに生まれ住んだ人間たちしか持つまい。つまりはどちらも可能性がある。そしてどういう状況になったとしても、トラピストでの戦いが続くことは変わりない。
「本当に良かったのか」
「何が?手段として、これ以上はないと私は思う。まさかたった数人でファキオに挑むわけにはいかない。昔みたいにな」
「それはそうだろう。今になって考えることじゃない。僕が言いたいのは、参加して良かったのかってことだ」
考えていたつもりではなかった。口をついて出た言葉は後悔そのもので、全くの無意味でしかない。それでも言ってしまった。ミランを巻き込んだことを申し訳なく思っていたからだ。
「今更か。これはもう私だけの問題じゃない。もしも大規模な戦闘になったら、農業も何も出来なくなる。つまりはこの地域全体の問題だ。お前の為だけじゃないって言った方が良いだろ?」
「そうかもしれない」
「第一、私が決めた事だ。お前がどうこうすることじゃないんだ」
「それもそうだ」
全くもって反駁する気も起きないほど完全な論理に思えた。いや、ただ僕の中でという意味で。無駄なことをした。しかしながらミランはそれでも収まらないようだった。
「何なんだ。お前は自分がどうなっても良いのに、私を巻き込むのは間違ってるって言うのか?」
「感覚的には。僕よりも生き残るべき人間はいる」
「それが私か?何が違うんだ」
「多分、僕よりも隊長をうまくやれただろうと思うから」
「はあ。お前がやってきたことだろう。何がしたい?懺悔するような失敗をしたのか?」
ミランの表情は怒りから悲しみに切り替わった。頬や唇に見える食いしばりは消えて、弛緩して力の抜けた表情。絶望にも似ている。もう嫌になってきた。それでも機械的に焼いた肉を皿に避けた。
「この小隊は生き残ってるだろ。セキスイから聞いたよ。いつも通りにとんでもない状況だったな。それでも誰も死んでない。ま、かなり主観的だったが。お前がやった功績を、お前が否定してどうするんだ。事実を否定するな」
「功績じゃない。これは……」
ただ僕の目的のために行っているだけで、それはタイヤの跡に過ぎない。そう続けるのを踏み留まった。そして、彼の言葉も腑に落ちなかった。事実は事実だが、それは間違った選択の果ての事実だった。きっと言っても分からない人間になってしまうとは、本当に僕は度し難いほど愚かになった。
何もかも無意味に感じた。彼の言葉も、立ち上る煙も、目の前の肉も、やや遠くに見えた隊員たちも。この乾燥した心はきっと、父親のことを知るまでは治る事もない。僕は何を求めているのかも分からないまま探し続けている。
「はあ。怒る気も無くなったよ……こういうことだったのかな、あいつの言ってたことは」
「何が」
「トラヒコだよ。リュラ、お前は幸せを感じるようにならなきゃいけない。まずは肉からだ。食べろ」
「僕の焼いた肉だよ」
「私が買ってきた肉だ」
ミランはプラスチックのフォークを突き刺して、あまり美味しくない筋繊維を差し出した。僕が機械的作業を続けていた成果だ。何で受ければいいんだ。あまり美味しくないんだ。この肉は。
どうしようもなくなったので、僕は避けていた皿で受けとった。肉が二段重ねになっているのはわんぱくすぎる。さっさと食えと言わんばかりの視線を受けて何とか口に入れた。やはり食べている気がしない。味覚として感じてはいるが、それが感情としてまで伝わらない。
緊張しているわけでもない。目の前にいるのは友達だ。僕は変わった、違う。元に戻ったんだ。5年前と15年前。幸せだったはずの食卓を思い出した、寒気がしてくる。あの時だって僕は周りを見ていたんだ。食事はただの苦痛だった。
「やっぱりそんなにじゃないか?」
楽しいはずの何かを、今となってはただ早く終わってほしいと願うだけにした。木々のざわめきを塗りつぶしてジルの吐息が響いていた。
珍しくと記したのは間違いではなかった。電子的トラフィックが解消されてからというもの企業からの援助が目立つ。毎日山の上を巨大な輸送艇が飛んでいき、誰かのタバコの火を消した。本来天候や運輸の情報を流すはずのラジオでは連日ウラジスラフ側の優勢を語っていた。それの後には必ずコマーシャルが続いた。
間接的な情報だけではなく、僕たちは直接にそれを見た。ちょうどジルを設置した山の中腹から夜毎になって戦火が見える。破壊され尽くしたファキオの平地はひどく暗く、発砲と破壊がはっきりとわかる。俯瞰して見るとまるで祭りのようだと思った。弾け、消えていく命があると知っても。
戦っていると神経に重大な欠落が生じる。恐らくは僕だけのことだが、そちらの方が楽だと感じている。
いくらか小規模な戦闘があった後に、端末が繋がるようになった。もうメールを見るのに時間を取られない。少し調べるとノア級から放出された衛星が通信を担っている。恐らくは作戦行動で企業が使い捨てたそれを、地球同盟が買い取ったのだろう。
ジルをこれ以上ここに置いておく必要が無くなったので、僕たちは次の作戦の準備を始めた。閉鎖されていた海からも兵器がやってくるようになった頃には終わった。内戦が終局に向かっている。
「それで、ファキオの何処に行くんだ?結局その場所が分かっていないんだろ?」
「具体的にはそうだ。通信量の多寡から大体の場所は分かっている。あとはまあ、しらみ潰しだな」
「はあ。ま、どうにかなるだろ」
アゲナにしては珍しく楽観的だと思った。僕以外の前ではそうなるのかもしれない。
「それで、頼むぞ。セキスイ」
「え。その、はい。え?私ですか?」
「そうだ。斥候に使えるのが君のデーモンしかない。安全圏でしか使わないから、大丈夫だ」
「本当ですか?」
「うん」
セキスイのデーモンにはドローンとそれを運用するための高強度通信機能がある。未だに起こる戦闘による、ちょっとした電磁波の交錯にも耐えられるはず。あとは彼女が居なくなっても特に問題はない。選択したのは設定を変える時間が惜しいからだった。
山脈地帯から降りて、再び僕たちは平野部に戻ってきた。重力反応と熱源に怯えながらドローンを飛ばしていく。一応アゲナとジョージにデーモンを着用させてスクランブルに備えた。あとは僕たちの意識の偽物たちの興味を惹かないことを祈るだけだ。
度重なる砲撃によって地上の建物はほとんど潰されていた。普通、ただの空爆なら建造物は残る。最近のスマートなやり方なら殊更に。だけど現在の平野に残ったものは何もない。判別できるものはエンジェルの残骸くらい。残りはビニールハウスや納屋の残骸で、それも風や夜盗に重要な部品が拐われてしまった。
黄色い肌を見せた原野に吹く風はごうごうと唸る。破壊され尽くして、建物がなくなったせいだろう。様々なオイルが染み付いた大地にタバコの葉が生えるまでどれくらい必要だろうか、と僕は思った。小さい飛行機のような形のドローンが飛んでいった。
それから小さなものが投下される。爆弾では無く反響を使って地下空間を探るソナーだ。ここが農業をやっているからして、地上には作らないだろう。周りがビニールハウスだから怪しいことをしているとすぐにバレる。そうで無くとも破壊されて、終わりだ。
『本当に何もありませんね……』
「地下の施設も規模からして多分普通の地下室だな。いじらしく生き残った奴らがインターネットを使ってるんだろう。哀れ〜。次行こう」
「正直言って、キリが無いな。このまま平野全部を探し回るわけにもいかないのに」
時間が経てばそれだけエンジェルに検知される可能性が高くなる。現在は明確な標的がいないのでそこらを彷徨いているか、ファキオの拠点を防衛しているかだろう。地上にも上空にもそれらの姿は見えない。企業たちが相争いながらも制空権を握りかけているのだろう。
白昼遠くの空では何かが弾けている。黒い破片を飛び散らせながら、花火のような音を出す。一人を除いてそれに反応する者はいない。ほぼ日常になってしまった。識別コードからしてこちらを攻撃することは無いだろうが、一応車は2台ともエンジェルやデーモンの残骸のそばに置いている。
また、攻撃されなくともこのまま時間が過ぎればいずれ内戦は終わる。勝利する方に興味は無いが、それだけは事実だ。勝利した側はこの大陸を支配して統制化に置くだろう。そうなれば施設を調べるような状況ではなくなる。
どちらとも最悪だ。もしもなんて考えたくないが、そうなれば失敗だ。僕が頭を無くすほど求めた情報を得られない。つまるところ僕たちの目的を果たすには今しかない。
『その……一つ思い当たることがあって。提案でもないんですが話してもいいですか』
「構わない」
『ありがとうございます。えっと、その、ラウンケルでの事なんですけど。又聞きで、重要な仕事をする時はタイプライターを使う、らしいんです』
『タイプライター?何だそれ』
『昔にあった、文字を紙に刻む機械のことです。パソコンのキーボードだけみたいな』
「……確かに、そうだったな。覚えてるか?リュラ」
ミランがコワレフスカヤを跨いで話しかけてきた。彼は彼でコンピューターから全く離れようとはしていなかった。
「もちろん。重要な場所では紙を使う。確実に後世に残せるし、EMPでぶっ壊れることもない。もちろん馬鹿みたいにコストが高いからごく一部でしか使わないが。それでいうとこれはコストを払うに値する業務だ。ありがとう、セキスイ」
『へへへ』
そして火星の中でしか見たことがない。それは僕の企業勤めの経験の無さかもしれないが、もしも前時代の名残を受け継いでいるのだとしたら。考えすぎだ。
「そうだ。コワレフスカヤ、逆だ。トラフィックが少ない場所は?」
「そんなの何処にでも……ああ、つまり見られたくないなら完全オフラインにするか。今時山の中にでもケーブルは通ってるのに。もうすぐだよ〜ジル〜」
「気持ち悪いので普通にやめて下さい作戦中です。重力反応は安定しています」
「トラフィックとソナーからのデータを重ねるか……いや、本当にもうすぐ終わりそうだ。先に少ない場所を割り出してそこに打てばいい」
何か言おうとしたが、自己完結したようだ。彼はジルと居るだけでパフォーマンスが上がっているような気がする。事実以前のように雑用に手を回しているのにあまり不機嫌でもない。がちゃがちゃキーボードの打鍵音が聞こえたあと、鋭く彼が言った。
「よし!座標地点にドローンを飛ばしてくれ」
「お願いします、セキスイ様」
『あ、アクティブソナー発射します!』
ドローンからソナーが発射される。音響のことに関してはさっぱりだが、とにかく打って地面にあたれば大体の構造が分かる。程なくして、デーモンが組み立てた地面のデータが送られてきた。129、規模から除外。103、構造から除外……最後まで行うと29まで少なくなった。これでもこの大陸に有ると分かっているだけマシだ。
「流石に全部消える、とまではいかないか。あとは」
『ファキオの看板でも探すか?』
『ここ全部が筋肉工場だったんだぞ?そう上手くはいかねえ』
「しらみ潰しか」
言葉通りに、僕たちは実際にそこまで赴いて確認することになった。完全に破壊されてでもいなければデーモンで瓦礫は排除できる。あとは根気と運任せの作業だった。
僕は地下の構造物を率先して調べた。他の隊員を警戒に当たらせているからでもあり、隊長の権限の便利さでもあった。狂気に似た執念は僕の退屈を溶かし、何日かの野営もすぐに記憶から消えた。それが見つかるのは時間の問題だった。
『は〜、早く終わらせろよ。エンジェルがやって来たら、今度こそどうにもなんねえぞ』
「ああ」
リキベント混じりの声が聞こえた。感覚がひどく鋭敏だ。神経か。
コンクリート片や鉄パイプを退けながら、階段を下っていく。爆発で剥がれ落ちたり運ばれて来たのだろう。それらを中腰体勢になって持ち上げる。辛くはあるが、問題はない。現れた鉄製の扉に手をかけるが、開かない。電動鋸を間に突っ込んでスイッチを入れる。少しの揺れの後、刃が軽くなった。
これで開かなければグリア爆弾の出番だ。目当てのものに被害が及ぶ可能性があるため、密室で使うのは出来るだけ避けたい。さらに階段を下っていく。
赤いランプが揺れていた。コンクリートの質感は流石に分からないが、指で触れると表面が剥がれて落ちた。相当古い施設らしい。レーダーには重力波どころか熱源もない。少なくともエンジェルの心配はしなくともいい。
待ち望んだ景色は、随分と呆気なく訪れた。整然と並べられたキャビネットの山が視界を埋め尽くした。指をかけて引く。鍵はかかっていない。中にはシュワンフィルムと書類が入っている。詳細な事を今読んでいる暇はないが、”遺伝子”という語句は目に引っ掛かった。間違いない。
通信を開きかけて、止めた。代わりにジルに話しかける。
「ジル、通信を止められるか」
「はい。可能ですが、何かしらの言い訳をした方がいいです。あちらにもレーダーはありますから」
『まだかー?暇だよ』
「……面倒だし、思いつかない」
「……マスターはドローンの警戒のため、通信を封鎖しました。私もデーモンの中に居るため、これで失礼します」
『えっ』
僕よりもジルは言い訳が上手くなった。そのまま皿洗いとかやってくれればいいのだが。
奇妙な感覚だった。それが何から来るのかも分からないが、どこかで見たような。恐らくはまだ家で解析中のトリチェリのフィルムと同じものを見たからだろう。しかし、センサーがナノマシンのこびり付きを捉えた時に全く別のものだと分かった。
タバコの煙を封じ込める為のナノマシン。経年劣化か、自然な分解によって壁にこびりついたそれ。小部屋が喫煙所にあてがわれたのだ。あの時のトリチェリの裏切り、喫煙室に入っていった傭兵たち。そしてそれよりも以前。とある人間の死、彼のニコチン中毒たるやを。
かぶりを振って、短絡的な回答を否定した。人間は経験を重視しすぎる。自分が見聞きしたものが繋がっていると考えるには何百光年も離れ過ぎている。いくら彼が人体実験、そしてデーモンによる何かを行っていたとしても。いや、それも火星という一点によって結び付いている。
人体のように構成されるマクスウェル機関と人工筋肉。それの暴走。仮にそれがもっと以前から研究されていたら、デーモンを使うのではないか。証拠はある。それの犠牲となった人間を僕は知っている。いや、違っているはずだ。
名簿を見つけた。事務室らしき場所のキャビネットには鍵が掛けられていたが、デーモンの腕力には造作もない。少し力を込めれば奇妙な音を立てて開いた。そこにはある男の写真とともにこうあった。【Trappist-1d研究施設最高責任者:R・P・ファインマン】。




