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目覚まし時計  作者: nacare
2:覚醒
42/75

3.

 最初に感じたものは匂いだった。アルコールが混じり合った壁紙の匂い。奇妙なほどに潔癖なそれは病院を思い出させた。父に連れられて、どこかの病院の待合室で中途半端な時間を過ごす。子供の頃にはそんなことがあったのだろうか。

 そして見えたものは緑色だった。濃い緑色のモリスの壁紙。緑色の仕切りカーテンは半開き。窓は無く、明かりは天井の発光ダイオード。目に優しくセンスのない病室のようでもあり、誰かを閉じ込めるための牢獄のようでもある。

 それ以外には茶色に塗られたドアと通風口だけ。もしかしたらそれから赤黒い水が溢れてきてしまいそうなほど均衡が取れていた。

 腕をあげる。痛みは感じない。傷のあった場所で血がナノマシンの瘡蓋を濡らしていた。誰かが治療したのか。

 その代わり、かすかな疼きを感じる。僕はシーツをめくって体を確認する。簡素なインナーとパンツ。やや大きめのそれは患者着ではなく、どちらかと言うとパジャマのように感じる。開閉できるようになっているスリット等の利便性がない。さらにそれを脱ぐと腹部から胸部にかけて傷跡が残っていた。

 銃弾が突き刺さった痕ではない。注射痕に似ている。黒ずんだ点がいくつも連なっていて、それの周りは赤く腫れている。注射をした時にできる傷と同じ。それでも僕がそう断定しなかったのは鎮圧用ナノマシンについて知っていたからだ。

 僕は何回かそのカートリッジを見かけたことがある。中身が見えるように透明になったプラスチックの入れもの。ほとんどは使い切りのシリンジ型で、ごく稀に空気銃に使う水筒のようなタンクが廃棄される。

 それに入っていたのは最新型の中枢神経に侵入が許可されている種類のナノマシン。それが大気中に秒速100m以上で発射されると硬化して弾丸を形成する。そして人体に入ると融解して脊髄の伝導路を遮断、脳機能を抑制して一時的な昏睡状態に陥らせる。投与から2、3時間後には体内で分解されて健康な体に戻る。

 なぜこんなに詳しいかと言うと銃売り場で終わりなく宣伝されていたから。そして誰も手をつけていなかったのを覚えている。理由は簡単で、銃よりも安全で銃よりも高価だったからだ。

 だからよほど意識の高い警備会社でない限り使われない。鎮圧対象の権利を考えなければコストパフォーマンスで銃弾に優るものはない。それかスコポラミンの代わり。僕はその少数派だったらしい。ますます意味が分からなくなってくる。僕をそこまでして留めおく理由は何だ?

 ベッドから出て周りを見渡す。もしかしたらと期待したが、ジルの降りてくる時計はない。間抜けな奴だったらただの時計と思ってくれただろう。まさか話したわけ……どうだろうか、彼女は最近とてもおしゃべりだから。あれが壊されても実存には問題無いが、オペレーターが居なくなるのは少し面倒だ。

 時間はそれほど経っていない。僕の体には昏倒の跡がない。今まで沢山倒れてきた身から言わせてもらうと、それの後には手足が引っ張られているような妙な感覚がする。長い間寝ていると筋肉や神経が衰退してしまう、と医者は異口同音に言っていた。

 僕は僕自身の感覚を信じることにする。どうせここには推測を裏付けるような材料もない。いよいよ楽しくなってくるような狂った状況じゃないか。

 ベッドから出る。リノリウムタイルの冷たさを感じる。床は清掃が行き届いていて、埃は見当たらない。アンバー色の扉は触らなくともその重さが分かるほどに物々しい。ドアノブを捻ると簡単に開いた。

 廊下は暗い。曲がっていくそれの壁に照明が連なっているのが見えた。ますます病院らしい。最近は光も浴びることが少なくなってきたのに、こういう暗い場所ばかりに居るな。また新しい冷たさを感じながら、僕はそろそろと歩く。

 生きている中で最も非現実的な状況に置かれている。夢だと思いたいけれど、あいにくまだ見たことがない。僕の脳は現実を濾過することを許さない。

 遠ざかる光に照らされて、扉がいくつか並んで見える。軽く触れると合金の感触が返ってくる。僕が入っていた部屋と同じようだった。引いてみるが開かない。隣も同じだった。

 僕が行ったカラオケのように使われていない施設のようには思えなかった。埃が積もっていないのもそうだけど、奇妙な使用感があるというか……例えば照明のカバーについたかすかな汚れだとか、ドアノブの擦り減りだとか。今はただ使われていないだけのように感じる。

 しばらく進むと、この施設が円形に出来ているのが分かった。ベッド側を中心にして部屋が配置されており、その端にはおそらく階段がある。行き止まりには部屋とは同じ質感のドアがあった。ひどく鈍重な金属扉。暗くて分からないが、きっと素っ気ない色をしている。

 僕は考える。反対側にはきっと出口がある。僕の思考へとかなりダウンサイジングするなら、完全に出入りできないようにするということは考えられない。虫を捕まえておいてただ餓死するのを眺めている奴が居るだろうか。いや、よっぽど恨みを買っていればそうなるか。

 僕はひとつの可能性に行き当たる。つまり、僕が殺した人間の関係者による復讐だ。火星での戦争とそれによってグリーゼにきた人々。コミュニティを築くのには最適だ。そして火星で好き勝手にやってきた僕がいた。これまでに起こったことの不可解さも劇の不手際だと考えれば比較的辻褄は合う。

 彼らは僕を出来るだけ苦しめて殺したい。だから誘拐して、どこかの廃施設に閉じ込めた。

 ああ、どうぞ。やればいい。好きにしてくれればいい。そう思う。

 かすかに笑った。無意味な妄想だ。たまたま最近起きたことを繋ぎ合わせてそれらしき論にしているだけだ。ほんの少し感覚を取り戻してくる。そうとも、思惟は後にしておけばいい。ここには現実しか存在しなくていいのだから。

 踵を返して僕がいた部屋の方向へと戻っていく。考えるべきは警備がいるかどうかだ。そしてそうだった場合、僕にまず勝ち目はない。銃は無い。そして左腕はまだ負傷中だ。神経は傷ついていないけど信頼することは出来ない。

 ぺたぺたと歩いた。光が近づいて、また遠ざかっていく。僕の部屋には誰も居なかった。居ても困るだけだけど。

 黒い道の中で痛覚が少しづつ戻ってくる。左腕の痛みはゆっくりと短慮をなじるようにつきまとう。冷えていく足先も相まって不快だった。

 暗い廊下の曲がり角から音が聞こえた。ガスが噴出するような音だ。咄嗟に口と鼻を衣服で覆う。ガスは空気よりも軽かったり重かったりするが、ナノマシンは全て重い。僕への手口から後者だと考える。

 さすがに脱走には気がつくか。出来るだけ早くここを出なければいけなかったが、運が足りなかった。そしてまたコインの裏面が出る。

 誰かの影が前方に見える。わずかばかりの光が反射して白衣を映し出す。シルエットは何処か女性的で、背は僕よりも頭ひとつふたつ程度小さい。おおよそ警備兵のようでは無かった。僕はすぐに駆け出した。また何かが噴出する音が聞こえた。

 暗がりでもきらきらと舞うそれは見える。ナノマシンの霧は僕の突進よりもずっと速くこちらへと迫る。自己飛翔可能なんて高級品をよく使うな。

 目の前で何かが形を変えた。ナノマシンの硬化現象。散布された粒子どうしが寄り集まって線をつくり、それを編んで面にする。生成は一瞬の間だけで、泡沫のように霧のなかで現れては消える。空中にできた樹が僕の身体に突き刺さっていく。


「よく眠れたかい、坊主」

「さあ。最近は汗まみれになっていることばかりだ」

 また目覚めた。体を動かそうとしても出来ない。ベッドにはぎちぎちにベルトが巻き付けられていた。擦り切れ、なめしも所々禿げたそれは久しく使っていないように見えた。

 目の前には女性がいた。白衣の袖口から樹木のような手が見えた。短く切り揃えた金髪と控えめなピアス、シンプルなサングラス。白衣の中には黒いドレスシャツ、金色の尾錠。やり手の医者か、研究者のように見える女性だ。彼女はベッドに腰掛けて無感動にこちらを見つめている。

 状況を整理しようと周りを見る。さっきいた部屋と同じようだった。緑色一色の端正なさまだ。きっと似たようなものが沢山あっただろうから、僕が居たものと同一かは分からない。

「たっぷり500単位相当ぶちこまれたのに、元気だね。代謝がいいらしい」

「たまにそういう奴もいる」

「そうとも。アンタが今されてるみたいに、ぐるぐる巻きにしなけりゃベッドから出てしまう奴もいたさ」

「何のことだか知りたくもないな」

 くつくつと彼女は笑う。しわがれた顔にまた皺が出来る。コーカソイドらしい白抜けた肌に染みが見える。高い鼻もそれらしい。ひとしきり笑うと不敵な、自信ありげな顔に戻る。ひとまず、僕は彼女から情報を聞き出すことにする。

「それで、説明はようやくしてくれるのか。誰もどうしてかしてくれなかった」

「良いだろう、ここはラウンケル社のグリーゼ581d支社。アンタは今から3時間前に私たちに誘拐された、というわけさ」

 ラウンケル社。最近勢力を伸ばしている軽化学工業会社だ。ナノマシンをメインに取り扱っていて同業他社と比べればやや小規模。それでも僕の勤め先よりもずっと巨大な企業だ。それが僕なんて木端を欲しがるか。

「私はネリー。ネリー・デーンホフ。アンタの名前は知ってるさ、リュラ・トリチェリ」

「そうか。苗字は忘れてくれよ。嘘をついてる……と思いたいけれど、わざわざこんなに治療をしてくれる所を見るとそうじゃないんだろうな」

「物分かりがいいねぇ。嫌いじゃない。ま、疑っててもそのうちに知る事になるだろうさ。アンタに打ちこんだのは新型のヘミクリプト。痛かったかい」

「まったく。気づいたらベッドの上だ。鎮圧用ナノマシンか」

「そうともさ。硬化したナノマシンは繊毛を使って神経系統を遡り信号をブロックする。患者は眠りに入ったように鎮静できる。わざわざ銃弾を撃たなくともね」

 言い慣れた様子で彼女は説明を終えた。僕からすれば銃弾の方がコストパフォーマンスの面で良いのではないかと思う。僕に打ち込まれたナノマシンはきっとぞっとするような値段がするのだろう。

「ダフィット・クラインを殺したのは想定外だったけど、良い実験になった。感謝しようか」

「あいつは仲間だったのか?地球同盟軍が?」

「珍しいことじゃないさ。何処の企業でもやってる。あとは特別なものを注入すればいい」

 神経系統に作用するナノマシンはさして珍しくないが、行動を操れるというものは聞いたことがない。それでも僕は彼女の言葉から説得力を感じた。きっと企業らしく実験段階のものを使っているのだろう。

 あの時にカラオケにいた女性もそれを打たれたのだろう。もしくはバックアップか。どちらにせよこれで疑問はある程度解消された。

「アンタの述べたことは地球同盟に送信してある。あとついでに辞職も提出しておいた」

「馬鹿じゃないのか。勝手にやりやがって」

「好きにわめきな。変わりやしないんだ。あとはサインをしてくれれば終わるとも。さあ、協力してもらおう」

「はあ……そこが分からない。何であんたたちみたいなのが僕にこうして手間を掛ける。PMCと契約すればいい」

「危ないことしたいのさ。そうだろ?第二次火星戦争のヒーロー」

 僕は途轍もない気持ち悪さをその言葉から感じる。彼女はまた笑みを浮かべる。鋭利で嗜虐的で、本当に楽しげで。僕が感情を変えるのを楽しんでいるようだった。がたがたとベッドが揺れた。

 ここまでされるとネリー、彼女の言葉にも信憑性が湧いてくる。むしろこの状況だと疑いでは無くて現実逃避の方が近いだろうか。コミックの悪役のように待ってもくれない強引なやり方。傲慢な人間でないと企業では成り上がれない。

「違うな。誰がそんなことを言ったのかは知らないが間違いだ」

「そうかい?それなりに火星の間で有名らしいがね。銀色のデーモンは殺しても殺しても生き返り、戦場に帰ってくるとさ。リュラ・トリチェリ。銀色のパーソナルカラー。アンタのことだろう?探すのは大変だったんだがね」

「苗字を使うな。あれはステルス塗料が足りなかっただけだ。それだけであんなに目立って、あんたみたいな奴に名が知られるのか」

「フフ、トリチェリ。どうやらこの姓に執着してるみたいだね。そりゃいい。アンタに用があるのはそれだ」

「何?」

 耐えきれなくなって、彼女の曲がった口端は哄笑に変わる。僕はそれを殴り潰してしまいたくなる。そんなことをする必要は無いのだが、そうすれば静かになるだろうから。久しぶりに感じた苛立ちは、ただ不快なだけだった。

「早く言えよ。それ以外のことは必要ない」

「あら、良いのかい。アンタの生殺与奪なんてのは私の思いのままだ」

 彼女は白衣のポケットからナノマシンの注射器を取り出す。何度も見たことがある拳銃型。何度も実際に打ったことがあり、打たれたことがある。篭められた真っ黒いカートリッジの中に入っているのは碌なものじゃないはず。だからどうしたのだろう。

「いいかい。アンタにはもう選択の余地はない。私たちに協力してもらう」

「うるさいぞ。どいつもこいつも僕を何とも思ってないくせして、利用だけしようとする。気に食わない」

「そうかい。これの中には伝達性ナノマシンが入ってる。アンタの体の中にあるナノマシンを全部溶融させる命令をインプットされたのがね。これを打ち込まれたらどうなるか、分かるだろう?」

「生物性の外殻が壊れて金属中毒か?さっさとやれよ。殺したいなら言葉なんてのは不要だ。やれよ」

 口端は上がったままだった。まぶたがやや動くのが分かった。顔の筋肉が歪んでさらに変な形をつくる。サングラスの中の瞳は知ることが出来ないけれど、それを見たら怒りに満ちていると表現できるだろうか。ともかく、僕にはそのように感じられた。

 僕からすれば殺されたとして、特に何事も無い。これまでやってきたことと同じだ。そう判断できるのだけど、父親について知らなければいけないことが外側からやってきた。

珍しく僕には手札があった。もちろんここで使えるものだ。だから彼女の得意であろう功利的な思考へと挑発することにした。

「出来ないんだろ。理由は分からないが、僕が必要だという訳だ。脅しはやめろよ。対等な立場で話をしよう」

「何を言うかね。ベッドに寝かされてるのはアンタだ。ひとり殺したところで、ちょっと勿体無いぐらいでしかないさ」

 プラスチックとシリコンで出来た接触部。冷たさはすぐに混じっていく。久しぶりの感触だ。

 引き金に指をかけたまま、ネリーは僕を見つめた。サングラスの奥の瞳が真っ直ぐに僕を貫いている。左手は注射器に添えて保持していた。笑みは今も浮かべたままだけど、さっきと比べると随分控えめになった。もう少し体が動くなら始末できるのだが。

「言っておこう。僕が死ぬと、お前も死ぬぞ」

「今更になって命乞いかい」

「嘘じゃないさ。僕は人工衛星を持っている。中身は知ってるか」

「いいや」

 初めて彼女の声の調子が変わった。ねばついた地声が聞こえる。いよいよ喜色も保たなくなってきて、不快そうに歪んだ唇。

「量子サーバーさ。運営しているのはAI……高性能でね。そいつは僕が死んだらここへと落ちてきて心中するぐらいのことは出来る」

「フン、そんなつまらない引っ掛けが通用するとでも?アンタが死んで、AIが気づくとでも言うのかい」

「そうさ。クラッキングぐらい簡単にできる。僕を殺して、そして後始末をするときにひとつの記録も残さずそうできるかい。人の裏切りもある。少しでも情報が漏れれば天から10tの物体が落ちてくる」

「……」

「僕のことを調べていたんだろ。なら衛星のことは知ってる。でも中身は知ることが出来ない。妄想と捉えるかは勝手だけどさ」

 全て本当のことだ。自家用のコンピューターでは到底フルスペックを発揮できなくなったジルのために僕は人工衛星を買った。途方も無い値段に見えたけど、どうにかローンを組むことが出来た。現在はマイニングから運用費用を引いたのが多少プラスになっているぐらいか。それでも購入費用にはまだ届いていない。

 まあ、そこは問題にならない。重要な点は僕が爆弾を手にしているということだ。

「そうやって自分だけが優位に立とうとするな。ここに居るのは2人の人間だけだ」


 硬い足音が廊下に響く。ぼろぼろになったジャケットから焦げた糸屑が落ちてくる。誰かが掃除するのかと思うと気が重くなった。

「目的地はまだ先さ。歩きながら話そうか」

 スリッパを叩く足さえ不機嫌そうに聞こえる。ネリーは僕に衣服を返してくれた。さすがに洗ったりする暇はなく、血がべっとりとついたままだった。

 彼女がカードをかざすと扉が開いた。想像していた通りの階段を下ると真っ直ぐに廊下が続いていた。先が見えないほど長い、無機質に照らされた道だ。まったく想像していなかった。

「それで、協力する気になったかい」

「内容による。もしコロニーを滅ぼす程度のことだったら地球同盟だって黙ってない」

「ちょっとした調査さ。秘密裏に行いたいからね、アンタみたいな誰も気にしない人間が必要になる。人工筋肉について知識はあるかい」

 値踏みするような視線をサングラスが隠していた。対して僕は何もしない。聞かないことには何も出来ないという姿勢が付け上がらせるのだろうか。非対称的な言葉は次々と降りかかった。

「死体を凍らせて筋肉を売る。傭兵なら誰でも小遣い稼ぎにやってることだ」

「まあそこまでだろうね。今でもそれは昔と変わっちゃいない。だが最近、妙な筋肉が流通するようになった」

「妙?」

「ああ。話はここからさ。最近になってから人工筋肉の痙攣が相次いで報告されてきた。アンタも知っての通り、人工筋肉ってのは人間と同じように、故障のリスクを抑えるためにわざわざ違う人間の遺伝子を使ってる。需要が絶えない訳だね」

 僕たちがやっていたちょっとした仕事。人工筋肉のための組織採集。死体を凍らせて売る理由のひとつがそれだ。パフォーマンス的に考えるならアスリートの筋肉を使えば良いのではないかと思ったことがある。その答えは人間がランダム性に満ちていることと需要がかち合っているせいだ。

 個人としての生存ではなく、種族としての存続を目的とするなら肉体にはばらつきがあった方が良い。運動の出来る個体、出来ない個体。賢い個体、そうでない個体。ある伝染病に強い個体、弱い個体。ランダムに降りかかる世界の出来事に対して、それらのうちどれかが生き残ればいい。

 そうしてランダム性に満ちた人体は飽和していく僕たちが求める機械そのものだった。耐久性に優れた筋肉、瞬発力に優れた筋肉、汚染に耐性のある筋肉。枝分かれしていくニーズに合わせて必要になる筋肉は違っていく。そして不具合に対応するためのバックアップも必要になる。だから人間のランダム性が必要になった。

 僕たちの集めた遺伝子のうち、1つでも使えそうなものがあれば良い。どうせ機械のパッケージングを剥がしてわざわざ遺伝子検査を行う奴なんていないし、もしそうしても企業の資金力には敵わない。そうして僕たちのつくった死が機械になっていく。

 それが人工筋肉の大まかな事情だ。逆に言うとこれ以外のことは知らない。僕はネリーの言葉に耳を傾ける。

「問題の人工筋肉を解析すると複数の遺伝子が混ざっていることが分かった。本来単一の遺伝子のみを使われるはずのそれからね」

「混ぜ物を使うのは犯罪組織の手口だ。安物をつかまされたんだろ」

「ま、その可能性が無いとは言わないがね。ここまで広範だとそれで片付けられない」

 ため息でも聞こえそうなほど呆れて彼女は言う。きっと何回も考えられうる原因を洗い出したのだろう。

「それに、その中にアンタの養父がいた。エヴァンジェリスタ・トリチェリの遺伝子。もう死んだ人間が筋肉を売るかい?」

「そうだな。僕が殺したからよく知ってる。あれはサンプルのひとつも回収出来ないほど炭化していた」

 彼女は怪訝そうに僕を見た。流石にそこまでは知らないか。

 僕は彼の葬儀を4年前に行った。タバコと写真を棺桶に入れて埋めた。彼の住居からは大切そうなものはそれ以外に見つからなかった。今も軽い棺はケプラーの大地の中で無意味に眠っている。

 葬儀を1年待ったのは検証が終わるまで遺体は渡せないと地球同盟軍に言われたからだ。結局帰ってくるものはひとつも無かったのだけど。赤熱化したグリア粒子は瞬く間に人体を炭化させて、デーモンの内側にこびりつかせてしまった。僕は期待していた。

「だとしたら、死人の遺伝子が流通しているのは何故だ」

「さあね。アンタの役目はどんなことをしてでもそれを調査することさ」

 ネリーがひとつの部屋の前で止まる。もう一度カードをかざし、開いた扉の向こうに銀色のデーモンがあった。マルファスにもサブノックにも似ていない。どことなく生物的な曲線を多用したそれは獣の死骸のようだった。

「殺して、殺して。その先にあるものを見つけるのさ。出来るだろう?」


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