Epilogue
「……人ばかりだ」
「そうですね。ざっと43人が確認できました」
「歩くのも嫌になりそうだ。脚が取れていたら良かったのに」
「幹細胞培養技術を所望するのなら、今度こそ貯蓄が無くなりますよ」
そう、久しぶりに見た口座には5000セル程度しかなかった。僕がA&Aで5ヶ月丸々働いたのと同じぐらいだ。何も使わずにいてそれだった。
高彩色の服を着た人々が雑然とした船の中を歩き回っている。ぐちゃぐちゃと店の看板や空調のパイプ、人がふたり通るには狭い道。少し視界を上に傾けると、野放図に伸びた階段と軒。白い煙があがって誰かが五徳にやかんを乗せていたようだった。ケプラー442bのコロニーとは比べものにならないほど人が生きている。
僕はボイラーユニットの中でC.ワームが繁殖していた時のことを思い出した。元々の種であるミールワームと同じく、本当に何でも食べるから食料は問題ではなかった。昆虫を育てるのに1番の障害になるのは熱だ。ボイラーユニットにはそれがある。
サーモピレーのメインユニットには空調設備は無いので、外付けのサブユニットを接続して配管を繋げていた。それまではよくあることだけど、半世紀前の古ぼけた設計のおかげで2~3セクションほど遠回りをしなければいけなかった。
僕たちは億劫になって最低限の頻度でしかそこへ行かなかった。幸いにも冷暖房の切り替えはコンソールで可能だった。その扉を開けたのは3ヶ月後、警備任務が終わった後のことだ。
それはひどい光景だった。床には余すところなく、配電盤やパイプにも芋虫が群がって蠕動していて。そいつらは濃い茶色の殻を床に散乱させて、栄養を失って死んだ仲間の体を食っていたりしている。ブーツの爪先を見た時にはブロックごと焼き払った方がいいと思った。僕たちがそれの処理をした時はもっと。
C.ワームは船内を温めるための熱の中で壁材やシーリング材を食べてすくすくと育ち、好き勝手に繁殖していた。どこから入ったのかは分からない。整備スタッフか僕たちの誰かの服に卵が付いていて、それが落ちたのだろうという結論になった。
僕の視界にはぼやけた人型だけがある。ざわざわとうごめいて、何か空虚な音を発している他人たち。初めて見た人間なんてのはそうだろう。何回か会うとその人間の仕草が分かってピントが合っていくんだ。僕にはこの雑踏は色のついたミールワームたちにしか見えない。
まるで人類の破滅を願っているようだ。富裕層から吸引した脂肪があれば完璧だ。僕はついに落ちるところまで落ちて、そうなってしまったのだろうか。
ちょっと壁にもたれかかって周りを見渡した。真っ白いドレスシャツ、蛍光を発するパーカー、両親のいる部屋から出てきたようなTシャツ。作業着らしきものを着ているのは警備員ぐらいだろうか。
「僕たちが戦っていたあいだ、こいつらは何をしていたのだろう。いや、想像はつくけど……」
「SNSに残存するメディアから推察はできます。言うなれば昼ごはんに気まぐれにラーメンを食べに行けるような生活、でしょうか。あなたが思い描くものと同じですね」
「ありがとう。成長は認めるけどあなたって呼ぶのはやめろ」
普通に暮らしてきたような人々。いや、事実としてそうなのだろう。地球同盟軍はかつてあったはずの国家が集まって出来たものだった。今では企業たちの巨大なコングロマリットとほぼ同じだ。
地球以外の星は誰も所有権を保持できない。国家もそうだ。しかしながら自分自身によって追い立てられた人類にとっては、この宇宙憲章は足枷になるものだった。だから限定的にそれを免除できるような仕組みを作った。コロニー内では国家の干渉の無い自由な経済活動を認めた。
ともかく地球の企業たちはコロニーを手に入れた。あくせく国が老人たちのために資源を運んでいる間にはインフラや福祉とか金にならない事業を行い、経済活動はそれ以外の企業に任せるような企業が現れた。これだけ聞くと普通の国と変わらないけれどそれが全て統一されて、かつとんでもなく巨大になったらどうなるだろうか。
端的に言うとそのようなことが起きた。これ以上のことについてはミランに聞いた方がいい。まあともかく、サイバーパンク的な世界に僕たちは生きている。
こいつらは仕事をしていたのだろう。僕たちだってそうなるはずだった。ただ最終目的に戦争が設定されただけの仕事。人が沢山生きていれば需要は際限なく増えていく。ノア級の中に居れば仕事はぽこぽこ溢れてくるだろう。飲食、小売、プログラミング、広告、あとは僕の蒙昧さを披露するだけなのでやめておく。
怒りが肌から滑り落ちていく。こいつらがまるで一仕事でも終わった風な顔をしているのは気に食わないけれど、それだけなんだ。火星の中で死んでいった人間を悼む義務なんて無いやつらのために、みんな戦ったのに。
僕は怒るべきだろう。この戦争の中にいて、殺して殺されかけた人として。自由意志という題目に誤魔化されて大きな力の流れに飲み込まれていって、そして死んだ人間たちを敬わない者たちを。ただ、そんな思考にはなれない。
彼らにも彼らなりの事由があってここにいる。戦争は戦争だ。リュドミラのように奪われていたら、どうなっていたかは想像に難くない。そういうものだろう。僕たちは結局のところ、彼らと同じように自分のために戦ったとしか思われない。
きっと疲れているだけだろうと思う。こんな当て所のない思考したところで無意味だ。人混みは嫌いだから。ノア級宇宙航空母艦の内部に僕は居た。サーモピレーと違って、船もこんなに巨大だとほぼ街と言っていい。宇宙船が停まっているドッグまでの道は人で埋め尽くされている。
本来ならそれは駅のように振る舞う。何処か別の植民星に行きたいと思ったらいちばん近くのノア級へと向かい、アルクビエレ・ドライブで行きたい星系の空母への切符を買う。そしてドッグに船を停めればいい。そうすれば何秒とかからずに無限の距離を移動できる。
ただ、火星戦争でその船が一堂に会した場合はどうなるか。答えは簡単で、最初にノア級がそこへと跳んだ時と同じ方法を使えばいい。アルクビエレ・ドライブでこの巨大な船を持っていくのだ。
僕は何かの資料でしか見たことがない。船が何百隻も収容できる超巨大船がワゴンに積み立てられた映画のように、空間から消失するのだ。出力が保つのだろうか、と素直な感想が浮かぶ。けれど、ノア級はアルクビエレ・ドライブを連続・並行して行える。直感を捨て去れば不可能ではないと考えられる。
僕と同じような思考を巡らせた人間は多かったらしい。ノア級をそれぞれの星系へと再配置するためにワープさせる。そしてついでに戦争で集まった人間たちも運んでしまえばいい。もちろん、すぐに行える事ではない。まず出現する場所の計算に1週間。収容と無料航行の情報を発表してから2週間の猶予時間、計3週間を経てケプラー442bへと跳び立つ。
そうした時間の間僕はずっと寝ていた。失血性ショック直前でノア級に担ぎ込まれ、大量の穿刺針と呼吸器で着飾って2000セルほどをベッドの上で払い続けながら。あとは幹細胞培養技術で手足を作ったという請求書を渡されて手当は無くなった。いっそのこと目覚めなければ良かったのに。
というわけで、僕は突然として日常に戻ってきた。順当に肥えていった社会とは別に、後に残った何かがあるわけでもない、ただ失いつづけた結果としての最低限の自分が残っていた。だからドクサしか考えられないのかもしれない。
「ジル、戻ろう」
「良いのですか。まだ出航までかなり時間がありますが。また、マネキンに着せられた衣類を購入する程度の出費は可能です。率直に言うと、そのコーディネートは好みではないです」
「……あー、いいや」
憂鬱さが思い立ったことを押しつぶしてしまったんだ。そういえば、そうだ。僕は火星で着ていた明るい灰色の作業着と病院の人が厚意でくれた薄緑色のパーカーを着ていた。奇妙な組み合わせだ。工場に住んでいるのだろうか。でも他に着る服がない。
僕はそう思って、出港までの間に区画をひとつ下ってきた。この混沌にも形容できそうな街に。でももういい。頑張って服屋に辿り着いても、きっと疲れるだけだろう。生ごみを詰め込んだ匂いがする。
絶望は部屋に篭って縄を縛り付けたり、グラスをたくさん傾けることだけじゃないんだ。自分のやりたいことを消してしまえば、それがそうだ。きっと僕のこれからには、こんな小さな絶望がついて回るのだろう。きっと死ぬことはないそれが。僕はその中にしかいることしか出来ないように選んだんだ。
「いいんだ。疲れたよ。脚に血が溜まるような気がしてる。それにケプラーでも服は買えるさ」
「……そうですか。了解しました。私は貴方の思考を尊重します」
「そうか。じゃあ、戻ろう」
サルファイエローのボットが揺れる。階段に向かって脚を伸ばして、体を持ち上げていく。僕も同じようにする。
僕は来た道を帰って、ドッグへと戻った。通路をいくらか歩くと船体外部へと着く。船が入港する外側とアルクビエレ・ドライブを使用する最内部は区画を買い取ることは出来ない。それなので人が降りてくる中内部が必然的に人気になるというわけだ。
いくらか道幅が広くなり、キャットウォークの間から宇宙船がいくつか覗いた。さらに向かうと最内部へと通る巨大なチューブが見える。おそらく船を輸送させるためのものだろう。それの終点には立体船渠がある。これもまた巨大で、鋼鉄の籠のようなひとつひとつ全てに船舶が収められているのが見えた。それらだけで数百隻もあるだろうけど、大型のタンカーなどは見当たらないのでもっと区画は広いはずだ。
ここへ初めて来た時には統制され尽くした景色が見えて困惑した。だけど慣れれば落ち着く。けたたましくなるアラームは入港の時に鳴るものだが、それぐらいの音は聞きなれている。時折に動くドックは遠く、何か巨人の内臓を見ているようだった。
受付まで辿り着いた。周りには僕と同じように喧騒に疲れたか、何かの事務仕事や申請を待っている人間がいた。僕も同じようにして青色のベンチに腰掛けた。色褪せたプラスチックのそれはとても座りごごちが良いとは思わないけど、それは問題じゃない。ジルが何か言いたげにして排気音を多くした。
少し息を整えたあと席を立って自販機に向かった。手の中に再度埋め込まれた真新しい生体端末からセルが送られて、20秒強ほど待つとコーヒーが出来る。あいつらはどこで休憩しているんだ?僕はカフェでコーヒーだけ飲むぐらいならこっちの方がいい。それどころか自分の部屋でインスタントでいいのに。
沈んだ視線に発光ナノマシンで出来た線が見えた。船から降りてきた人を誘導するためのものだ。溝に流し込んで受付の真下ではビニールに包まれた安っぽい実用性が矢印になっている。ここはずっといい。
ここには必然性しかない。ノア級の内部だけでなくて、コロニーの市街地とも違う。それらは誰かが規定からはみ出して、それからどんどんと狂っていったように感じる。ジェンガを基礎から間違って積み立てたのに、それでも崩れないようにする。接着剤を使って固めて釘で打ってそうして出来た歪な構造物が街だ。
心はそんなものを否定する。もう友達も居ないなら言っていいや。形態は機能に従えばいいのだけど、そういうこともできずただ無骨になった方がいい。何だって無機質になって心を捨てられたらいいのに。
「やあ、生きてるか?」
「どうにか。どうしてここに。誰にも言ってないのに」
「偶然さ」
「私が連絡しました」
「……口裏ぐらい合わせた方がいいぞ」
後ろから声がかかった。足音に注意を払うべきだった。久しぶりにミランとジル以外の声を聞いた。熱くて苦いだけのコーヒーを無理やり飲み干して、オフュークスの顔を見た。随分人相が良くなったな、と思った。3週間前と言うよりかは最初に会った時のことを僕は思い出した。
あの時はまるでこの世界全てを憎んでいます、とでも言いたげだった。眼窩の中には暗い緑色が存在するだけだった。今はそれ以外のものがある。目付近の僅かな緩み、例えば目尻やまぶたとかが緩んでいるとそう感じられるのだろうか。
今も状況としてはあまり変わってないようには思える。自分を取り巻く何かが終わったとして、それを希望と言うべきかなのか。僕はそう思わない。きっとこの先には絶望だけが蒔かれていてどうしようもないのと同じで、自分が変わっても何も変わらない。
まあ、それは調子の悪い僕だけがそう思っているのだろう。彼女はそうでないらしい。
「やあ、ジル。挨拶ぐらいしたらいいと言ったのは君じゃないのか」怒っているのではなくて、意地悪げに彼女は問う。
「ええ。騙しておくのはここまでで結構ですので」
「確かに」
どうやら彼女を呼んだのはジルらしい。それもそうだろう、あと5時間で千数光年を渡る船に用向きがあって来るようには思わない。
「随分早い到着になったのは想定外でしたが、特に変なこともせずじっとしてくれたのは良かったです」
「悪口言ってんのか……はあ、別れの挨拶ができなかっただけでこんなことするのか。少し心残りはあったけどしょうがなかったんだ」
「私も数週間昏睡していたやつにわざわざ文句を言いに来たんじゃないさ。そうとも、その挨拶のために来たんだよ」
真っ直ぐ見られると面食らってしまう。
「でも意外だ。正直、あんたがこういうことをするタイプだとは思っていなかった」
「まあね。そうだろう。恩があるし、言わないわけにもいかないからな」
「君を殺さなかったこと。あれってバトンを貸した時点で終わってたんじゃないのか……」
「ん、あ〜。細かいな……そういうことを考えてると早死にするぞ」
笑えない冗談だ。軽く誤魔化された気がするけど、こういうときには追求しない方がいいらしい。まあ通常の人間にそうしてどういう事になるかは知らない。
少しの会話の切れ目にブザーが鳴った。あと5時間。船が入港するには少し短いように感じてしまう。きっと燃料を入れて、受付で申請を済ませたら少しの間コーヒーを飲むぐらいの時間しか残らない。それが終わったらあとは別の星系だ。本当にそれだけのために彼女はここに来たのか、と疑ってしまう。
今になって彼女が分からなくなってしまった。数ヶ月前は分かりやすかったんだな、と思う。爆弾とか弾丸と同じで、そんなものには近づかなければ良いだけだから。笑顔とは言わなくとも、僕は毒気のない表情を見ると不信が勝る。やわらかいものに包まれた刃物に似ていて。
「エングラムの人たちには上手く言っておいてくれるか」
「そうだな、君が会いたがっていたとでも。そういえば、アダムには会ったか?」
「連絡はついてるが、会ってはいない」
戦争が終わってすぐのサーモピレーはひどいものだったらしい。シェイカーの中にプロテインと水を入れて振ったとでも例えようか、ちょうど蛋白質の塊たちが崩れてしまった。そしてあまたの死のなかに居て、それでも彼は生き残っていた。
僕が治療を終えたあとにジョン・アダムは電話をかけてきた。彼の言葉から抑揚は消えていた。平坦な言語で、特別報奨金をもらえるように便宜すると伝えてきた。僕は彼の症状がCSRであると知っていた。デーモンに乗らずにいればそうなる。
今すぐは無理だろうけど、病院に行って診断書をもらったほうがいい、と彼には行っておいた。アダムはああ、とかうん、といった胡乱な言葉しか返さなかった。後は事務的なことをいくつか話して通話は終わった。ミランも同じようなことを言ったらしかった。
「多分、あんたにもそのうち連絡が来る。声を聞けばそうするだろうが、病院に行くよう言っておいてくれ」
「心配だな……あと、コワレフスカヤには何かあるか、ジル?」
会話を急に振られた事に驚いて、というよりかは想定外の事態だったようだった。何かの言葉の切れ端を引っ込めて、彼女は奇妙な合成音を出した。数人の人間が一斉にしゃっくりをすればそのような音になる。
「完全に忘れていました。いえ、もう私が意識的にデータやスクリプトを書き換えたのかは分かりませんが。とにかく青天の霹靂です」
「ひどいな。シャトルが一人乗りじゃなかったら絶対に来ていたぞ。これを渡せとさ」
オフュークスは青色のチップを取り出した。ブルーブレイン20TB、僕が買ったAIが入っていたのと同じ記録媒体。きっと使われなかったAIたちのゆりかごだったもの。結局のところ僕以外で商品を買った人物はいたのだろうか。
「”連絡先と次回の更新プログラム”だそうだ」
「ストレージいっぱいに詰まっていそうですね。今の演算機能では解凍は難しいと思うのでケプラーに帰ってから開きましょう、マスター」
「まあ、そうだな」
僕は彼女からそれを受け取った。現実的にはTB規模のデータを弄るにはデスクトップでないと難しい。今の段階では何がどれだけ書き込まれているかは知る由もないが、きっとジルの言う通りだ。チップをジルに刺すとき裏面に、”ありがとう”と汚い字で小さく書いてあったのが見えた。
「それから君には、エングラムの社員たちから感謝の言葉が届いてる。言おうか?」
「やめてくれよ。僕は褒められたことをした覚えはない。必要のない人間たちを切り捨てたやつに、どうして感謝なんて出来るんだ」
「そうだな。君はそう言うだろうと知ってたから、こっちもチップがある」
彼女はもうひとつ、灰色のメモリーチップを取り出した。僕は嫌々ながらそれを受け取る。義理はそこまでで、開きはしないけれど。
「彼らには君の美辞麗句を想像して言っておく。ま、ここの船よりかは時間が残ってるだろう」
「GJに戻らないのか。会社は?」
「私も君と同じで非合法な存在でね。退職金を貰って一方的にリストラさ」
「いいな。僕はKIAを受けた時の保険金だけだ」
まあ、それももう殆ど使い切ってしまったけど。
「それでも自由になった。私はこれから火星に向かう」
「危険だぞ。前でさえそうだったのに、これから更に……僕でもわかる」
「犯罪統計によると、銃器による殺人発生率が60%ほど登録されていますね」
「分かってるさ。それでも故郷だからな。それに仕事は山ほどあるさ。君は?」
僕はそれ以上聞く気は無かった。簡素な質問とその回答で、オフュークスの心のうちに垣間触れたような気がしたからだ。それ以上踏み込む権利は僕にはない。まあ戦争後の極端な治安の悪さなんてのは、彼女にとってすれば他愛のないことだろうと思う。
彼女は少し表情を変えた。微笑をたたえた顔のようだったけど、それが憐れむように感じられた。何についてだろうか。僕はそれから目を離さずに会話を続けた。
「ケプラー442bに戻る。トリチェリとトラヒコの葬儀をしないと。それに仕事を探さないとな」
「ミランの会社に戻ればいいだろ?」
「いや、傭兵は辞めるんだ。何か普通の仕事を見つける」
今度は彼女が黙る番になった。ジルが所在なさげにモーター音を鳴らした。それも少しの間だけだ。
「そうか……非難する気はないが、残念だな」
「どうも。これからは平和に生きると決めたんだ」
かなり噛み砕いて言えばそうなるだろう。これまでの僕はトリチェリのために戦っていた。彼から与えられた知識を活かして、近くでそれを見せるために。それはもう出来ない。そして自分のことを無くしてみれば今や何の理由だって感じられない。だからもう良いんだ。
壁の時計には16:23の文字が刻まれていた。19時が抜錨の時間だ。会話ってのはやけに時間を浪費するものだな、と思う。
「もう行ったほうがいいな。じゃあ、さよならオフュークス」
「ああ。また会おう。リュラ」
暗黒が過ぎ去って、また暗黒が来る。
毒々しい色の星雲、キラキラと輝く銀河、消えかけの赤い星。宇宙を彩るための全てが目の前にあるように感じられた。きっと宇宙に出たことがない人間なら、視界が良いとは言い難いサーモピレーのコックピットからでも感動させられる。あいにく僕たちは見慣れているんだ。
「ミラン、交代の時間だ」
「ん、もうそんなに経つか……」
僕はミランに後ろから話しかける。マクスウェル機関によって与えられた床を踏みしめながら、僕はコックピットへと近づく。写真立ては無くなったけれど、それでも懐かしい景色だ。
サーモピレーのコックピットは古風な見た目をしていて、操縦桿やレーダーのオレンジ色が飛行機のそれを思い出させる。システムもそれに準じるように誰かがいないと一般航行は出来ない。だから僕たちはケプラーに着くまでの間交代制で運転を続けている。
ノア級の巨体のせいで、植民星のすぐそばに現れることはできない。それどころかどうにか影響の少ない場所を探すと大抵は何にもない場所になる。サーモピレーは軽くなったけれど、それでも2、3日は運転しないといけない距離だ。
「不思議だな。やっと戻れるのに、あまり感慨はない。A&Aに戻れば感じるかな」
「どうだろう」
「人ごとだな。まあお前がどうすることでもないが、こっちは面倒ごとが多いんだ」
「ごめん。死んだ人間が戻るわけにもいかないからさ」
「いや構わない。金はきっちり踏んどるつもりだからな」
そう言って彼は笑った。いつものように整った顔に笑みだった。それでも僕でもないのにひどく空虚に見えた。ケプラーに戻ってから1週間後に葬儀があることも一応言っておこうと思ったが、これ以上傷付けるように思えたので黙った。ムルソーのようにして軋轢を生むのは嫌だ。
僕はトラヒコの顔を久しぶりに見た。エンバーミング処置を施され、シリコンで埋められた顔。かつてよく見ていたものと同じだった。死人の顔はよく見ている。人の顔から血色や表情が失われるとどうなるか、理解しているのでショックは受けなかった。
僕がそれを見たのは昏睡から目覚めたあとのことだ。それを受け取っていたミランはもっと以前から見ていた筈だけど、納体袋を開ける時の顔は沈痛なものだった。僕は死体が届くこと自体幸運だと思っていたけれど、それは言わなかった。
トリチェリの遺体は無い。僕が焼き切ってしまったし、僅かに残ったそれも基地に地球同盟の捜査が入っているので取りようがない。トラヒコは比較的軽度な戦争犯罪の捜査しか行われなかった市街地で死んだために、すぐ戻ってこれたのだ。
2人の葬儀は僕が手配しておいた。トリチェリはカトリック方式で土葬、トラヒコは日本の方式に則って火葬する。トラヒコは特段宗教を信仰してはいなかったので彼の両親に方式について訊ねた。彼の思い出話を切り落とす枝葉にすれば、彼らはそれを提示してくれた。僕も出来ればルーツに従ったほうがいいだろうと思った。
それからは2人の親類や友人たちに連絡を送った。目覚めて直ぐのことだった。出航までの時間は3日だったけれど、ほとんどトラヒコの知人たちだけだったのでさほど時間は掛からなかった。父は僕と同じで友達が少ない。
「申し訳ないけど、頑張ってくれとしか言えないな。飯は何回か奢るよ」
「やった。忘れるなよ……」
彼はあくびをひとつ、大きなものをしてから船内後部へと戻っていった。突貫で入れたベッドはよく軋んで寝心地がいいとは言えない。
「ジル、後どれぐらいだ」
「621kmでケプラー442b軌道エレベーターまで到着します。規定速度で巡航しますと32時間14分掛かりますね」
「デーモンならあっという間なんだけどな」
「私もただのナビゲーターに飽きてきたと感じています。映画はありませんか」
「あいにく、このサーモピレーにはそんな機能はない」
船体AIを乗っ取っているんだから、そんなこと訊ねなくとも分かるはずだけれど。彼女の会話能力は日に日に成長してほぼ人間と変わり無くなってきているということか。
僕は代わり映えのしない宇宙に向き合う。操縦桿を握ってもし船やデブリが来れば避ける。この航路は整備されているので滅多にそんなことは起きない。単調ではあるけれど楽だ。宇宙は孤独だ。何の音もしない、僕と星の間を熱が伝わることはない。それが心地良かった。
目の前の計基盤にはちょっとしたフィギュアが置かれてあった。トラヒコがまあまあ周りに配慮したものを置いて、ミランが貰い物の芳香剤を置いて。もちろんメーターを飾るようなものはない。あくまで視界だとか実用に問題ない程度の小さなインテリアだった。それらはもう無い。
脱出の時に捨てられたからだ。非難したい訳ではない。たくさんの人を救い出す上で、あれは必要なことだったのでしょうがない。今ここにあるのは無機質な計器だけ。そこでふとスノードームのことを思い出した。計基盤には見当たらなかったのに、船をひっくり返した時には見えたということはグローブボックスにでも仕舞っておいたのだろうか。
僕は指を滑らせて、下に備え付けられたそれを開いた。さほど何かを入れるような設計になっていないようで、恐ろしく小さい。船検証も入れられないんじゃないか。スノードーム一個入るのが関の山だろう、と思っていると指先に何かが当たる。
プラスチックのパッケージの感触。僕はそれを取り出してみる。透明な包装に包まれたチョコレートだ。小さいから引っかかって出なかったのだろうか。誰がやったのか大体の目星はついているけど、僕は一瞬目線を下げて確認した。それには”食べるなよ!寅彦”と書かれてあった。
「は、ははは……」
なぜ笑ったのか、僕は分からなかった。チョコレートは元の場所に戻しておいた。あとで捨てよう。覚えているだろうから。




