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10/26 加筆修正しました。多少内容が変わっています。
装甲をわずかに開けて、ナノマシンスプレーのノズルを差し込む。開いた時に刺すような痛みが顎に広がる。普段ならもっと痛がるそぶりを見せるだろうけど、僕はそれよりももっと凄まじい苦痛を味わっていたせいであまり動揺しなかった。
冷たい液体が傷口に降り注ぐ。切り裂かれた細胞と血管、砕かれた骨。そういうものを接合する接着剤としての役割を果たすナノマシン。基本的な応急処置はそれで済む。もちろん顎を砕かれたのだから、後で形成手術を受ける必要はある。
次は両手。右手と左手の装甲を開きナノマシンを降りかける。その状態のまま動作を確かめる。右手は動かないけど、左手は動く。しかしかなりゆっくりとしか動かせない。デーモンに乗っている状態でないと戦闘では厳しいだろう。
装甲を閉じてミランにナノマシンスプレーを渡した。3分の1程度までナノマシンは残っている。傷口を塞ぐ程度には使える。それでもうおしまいだ。オバゾア40口径拳銃の弾はもう無い。マルファスの内部ホルスターの中にあったスプレーは使い切った。
「治癒には体力が必要です。傷はただ塞いだだけとお思い下さい」
「分かってる。どこか安全な場所を見つけて、そこで休む必要がある。そうだろ」
「はい。その通りですマスター。最低でも一週間ほど休養すべきでしょう。あなたの体はもうすぐ死ぬまでの、少しの揺らぎの中にいます」
酷い言われ様だけど反論の余地は無い。僕だって体がだめなことになっているとは思っていなかったけれど、実際に動かしてみてからその考えを改めた。いつも出来ることが出来ない。頭の奥から小さな痛みが湧き出て思考が定まらない。何度か拳銃を捨てて寝転がりたい衝動に駆られた。
デーモンに乗っている時は少しマシになったけど、それでもいつもとは違う。手足の痛みや脳みそのもやは取れたけれど、思い通りにはいかない。いくらデーモンが補助してくれても、結局物を言うのは自分の筋肉だけだ。今の僕には無い。
「ミラン、移動しよう」
『ああ』
苦しげな声が返ってくる。脚にスプレーをかけていたのだろう。段差を越えるために軽く跳躍する。今さっき応急処置を終えたばかりだけど大丈夫だろうか。不安ごともほどほどに体を引っ張り上げる。その隙間から這い出ると、太陽の光が降った。
重力偏向を行い、デーモンを発進させる。体が引っ張られるような感覚を覚える。殴られたり叩かれたときとは違う、電車が急停車した時の浮遊するような。それを受けて足取りが少し軽くなる。
嫌味なほど晴天の空の下を僕たちは歩き始めた。本当なら歩けないほど衰弱しているはずだが、デーモンはその体を操って動く。僕たちは脱出に成功した。そうして今は火星のごつごつとした丘陵を登っている。
簡単とは言わないけど、何人かの頭をかち割れば脱出ができた。アーウィン・リースの言っていたように、研究所の警備兵たちは僕たちがトンネルから出ていくものと考えていたらしい。彼が1人だったのは行動が速くて部下が付いてこれなかったのか、そもそもただの独断専行に他ならなかったのか。何にせよ幸運だった。
僕たちはそれから1、2時間ほど全力で走った。僕たちの体のことなんて考える暇は無かった。顎が軋み、話せなくなっていることに気がついたけどそれでも止まらなかった。追手が来ないと言う保証は無い。一刻でも早く研究所から遠ざからなければいけなかった。
そして何処かの隙間に隠れた。入口は狭かったけどジルがエコー検査をして、それなりに大きな空間があると分かった。初めは洞窟だと思ったけど、どうも岩が積み重なって偶然出来た隙間らしい。上から日光は降り注いでいるのに雑草や生物の気配がない。かなり新しく出来たようだった。たまにパラパラと石くずが落ちてくるのを見ると、いずれ崩落するのではないかという気分にさせられた。
今はそこから抜け出して、丘の上を目指している。全身銀色のデーモンが真昼間に居るとどこからでも分かってしまいそうだけど、何度かの戦闘と先ほど隙間に潜り込んだおかげで僕は薄汚いデーモンになった。とりあえずは光の反射を心配する必要はない。
丘を目指す理由は単純だ。見渡してコロニーを見つける。そうでなくても隠れ場所にはなるが、その場合は食料の見込みはない。大体の場合何かの工事を行った名残であるか、電気やガスの中継地点であるのが殆どだ。人が生活している場所でないといけない。
見つけてどうするのだろう、ということはまだ決めていない。僕の意見としては奪うことが最も妥当だと思う。セルは僕たちの生体端末に入っているけど、それを使えば足が付く。そうでなくともボロボロの病院着を着た人間が来たら何かを疑うのは当然だ。そこで救急車や警察やらを呼ばれたら非常に困ったことになる。
なので奪う。そうでなくとも力で脅す程度のことをしなければならない。生き残るためにはそういうことをしなければいけないことを彼も知っていて、それでもなお主張する勇気が出ない。本当に憂鬱だ。
しばらくして、丘の頂上に着いた。快晴の空と火星の切り立った様な地形が続いている。その背後に灰色の丸いシルエットが見えた。コロニーだ。
ズームを切り替えてそれを拡大する。壁が灰色のコンクリートで出来ている。天井は巨大な透明のガラスで覆われており、その中から若緑色の何かが見える。この距離だと分かりづらいが、その揺れるさまから植物だと分かる。おそらくは作物として育てられているのだろう。
植物を育てるコロニーは幾つかある。単純に作物として植物を育てたり、品種改良をした植物を試験的に育てる農場コロニー。それに様々な実験を行うために環境を設定される試験コロニーなど。この場合問題はそのどれかという事ではなく人が居るかどうか、という点にある。どちらも単純なものだったならドローンしか居ないので、僕たちが必要とする栄養は取れない。
「ミラン、あのコロニーだけど……」
『ああ、私も気づいた。あれは農業用のコロニーだ、目標にしていたものだ』
「どうして分かる?」
『下の部分に黄色い文字でHK-478と書かれているだろう』
ミランが指し示したように、そのコロニーの外壁には文字が書かれていた。HK-478。看板のように自分達のことをアピールするでもなく、それだけの素っ気ないものだ。コンクリートの壁と相まって、何か監獄のように感じる。
『あれは全北植物区系界の略称だ。末尾の数字はその細分化された気候。つまり特定の作物を栽培するのに適した気候になっているという訳だ』
「それ以上のことは分かるか?」
『HK-478はエクソダスコーンに適した栽培番号だ。荒れた気候や地質でもある程度育つ。その分味はそれほどでもない』
「ワームと同じようなことか」
僕は既知の食事を思い出す。狐色のワーム、トマト、ジャガイモ。それがスープになっていたり、炒め物になっていたりする。糧食班の努力も虚しくなるほどレパートリーを欠いた食事。
その全てがエクソダス品種によるものだ。味を考慮していない、生産のことだけを考えた品種たち。なぜ何百年か前のコンセプトに立ち戻ったのかというと、地球を出なければいけなかったからだ。かつて人口の増加が起きて、地球は金持ちだけが眠る星になった。その間にアルクビエレ・ドライブで星に降り立った人間たちに必要だったものの内、栄養を補給する役目を担ったのがエクソダス品種だ。
しかしそれを何故今でも育てているのか?僕たちのように作戦行動をするものたちが育てるならともかく、あそこはただの農場ではないのか。
「なんであんな不味いのの仲間を育てているんだ」
『種子料金のせいだ。ライセンス料金のようなものと思ってくれればいい。要するに、味の良い小麦を作りたいなら金を特定の会社に支払わなければいけない。それを払えないから、比較的安価なエクソダス品種を育てている訳だ』
「その会社は何でそんなことを?そんなことをしたら誰も種を買わなくなる」
この駁論はかなり的を射ている様に思った。しかしながらそう言われ慣れているようで、ミランはそのまま言葉を続けた。
『種子を売る会社の上には何があると思う?食品業界と畜産業界と燃料業界だ。トウモロコシは食品だけでなく餌やバイオ燃料になる……それに比べて、農家は好き勝手に作物を育てられるような存在じゃない』
「それでも、選べられない理由にはならないと思う」
『まあ聞いてくれ。作物を育てるにはコロニーが居る。気温や気候、土壌のPH値や微生物まで地球と同じ環境を作らなければならないからな。それに加えて元々土地を持っている人間が農業をやるのとは違って、土地を買わなければいけない。そこで種子料金が出てくる』
デーモンがその心情を抑制していて、口調はとても穏やかなものだった。だけどその言葉は段々と加速を始める。
『最初に種子料を払えば、コロニーひとつを貸し与えられる。それから収穫と出荷が終わって、金が入るたびにコロニーの使用料金と返済金が引かれる。利子も込みでな。返済金を全て返し終わればコロニーは農家のものになるが、莫大な量を返し切れることは少ない。まあ、貧乏な人間が働く間口になっているとも言えるが』
『エクソダス品種が安いのは植民活動の黎明期にばら撒かれたせいでもあるが、簡単に実をつけるということが最も関与している。様々な企業たちがトウモロコシを必要としている都合上、どんなことがあろうと栽培に失敗してしまうという事態は防がなくてはならない』
「……なるほど」
『ともかく、そういう巨大なコングロマリットのおかげで殆ど出回っている種はエクソダス品種になった訳だ』
何というか、どこも雁字搦めになっているらしい。地球連邦と火星軍、コロニーのコミュニティ、そして農場と会社たち。何処となく想像していた長閑ななりが消え失せてしまった。利益のために何でもするのが正しいとは思えないけれど、それを禁止するということも出来ない。いっそ全て無くなってしまえば良いのに、と思う。
そんなのは不可能だ。嫌なことはただ忘れる事だけが対処法だと僕は知っている。
『本題に戻るとすると、トウモロコシでもそのまま食べれば栄養にはなる。あれを見る限りまだ収穫の時期では無いから、住み込みでない限りは人の居ない可能性の方が高い』
「そのままか……」
「想像通り、最低限茹でなければ美味ではないでしょう」
『ああ、少し期待してたのに』
ミランが残念そうに言う。僕だってそう思う。何せ捕虜となると虫混じりのグリッツしか出てこない。
『追っ手の目を眩ますぐらいは出来るだろう。私はあそこに行った方がいいと思う』
「異論はないよ」
彼が言ったことはきっと正しいだろう。トウモロコシを生で食べることになる以外は、あのコロニーに行って何ら問題は無い。僕たちはコロニーに向かって歩き始めた。てらてらと太陽の光が眩しく、鼓動の早まるのが分かった。おそらく暑いのだろうと思った。
砂塵が装甲に当たって耳障りな音を立てた。手足の動きが少しずつ精細を欠いていくのが分かった。足が垂れ下がり、歩くたびに躓きそうになる。脱走から半日。食事はあまり支給されなかったので、実質的にはそれよりももっと栄養を摂っていない。
それでも人間というのは案外生きているもので、僕たちは歩みを止めなかった。亡者か幽霊か、千鳥足になっても動き続けることが出来る。僕は頭を撃てば直ぐに死ぬと知っているし、それは正しい。でもこうなってまで人間が生き残れたのかは分からなかった。
筋肉が動くのをやめて、体の動きの殆どがデーモンによって行われるようになった。目の前には灰色の高い壁が絶え間なく続いている。農業コロニーの外壁だ。新しい作りのようで壁にはひび割れの跡もない。高く聳え立つそれを見ると、超えていくのは不可能な様に思えた。
壁の高さはおおよそ12mほど。壁面は灰色のコンクリートで出来ている。滑らかで何の取っ掛かりもない。壁の上部には夜間用のライトが申し訳程度に設置されているが、防犯カメラは付いていない。
「入口を探そう」
僕はそう提案した。ミランもそれに頷いた。僕たちが襲撃を行ったことのあるコロニーには警備用のタレットが置かれていた。CIWSの様に一秒間に数千発の弾丸を撃ち込むような上等なものでない、ただ機関銃を撃つだけの機械。それだけでも今の僕たちにとって脅威になる。
グリア粒子は無い。僕たちを守る装甲はデーモンただひとつだけだ。加えて、武器も無い。銃器があればセンサー範囲の外から破壊することも出来ただろうけれど、今の僕たちには握り拳しかない。
それを見た時に、そういうことが心の中で巡った。コロニー内部へと続く一本道の中央にそれはあった。黒々とした柱の上に機関銃の銃身が設置され、その直ぐ隣にカメラのレンズがのぞく。それが一機。彼我の距離は1km程度。撃たれるということは無いが、どうするか。
跳んで組み付くか?いや、その前に撃たれてしまう。どう考えてもどちらかがやられるか、もっと悲惨な状況になる。やはり壁を乗り越えるか?それも跳躍力が足らない。もし無理やりに越えるとしても、そんな体力が僕たちに残っているのか?
黒々とした銃器とコンポーネントの塊が僕を見つめる。砂漠に立つスフィンクスのように僕に問いかける。手が震えているのが分かる。その揺れが抑えられてまた別の所でまたおこる。バイタル数値を確認しておくと体温が上がっている。陽射しにやられたわけではなかったらしい。38.7℃。デーモンに乗っている限りは大丈夫だと信じる。
八方塞がりの状況になった。考えている間にも体力は削られていく。都合の良い解決策は無い。無理矢理にでも解決するしかない。
「ミラン、やっぱり壁のほうに戻ろう。内部にはタレットとかは無いよな?」
『ああ。有るとしても監視カメラ程度だろう』
「なら良い。壁を越えよう」
「方法はお考えですか?」ジルが訊ねる。その言葉は一種確信を持っていた。
「ああ。分かっているだろ」
「はい。あまり推奨出来ませんが」
『どうする?どうやら話が付いているみたいだが』
「跳んで手を壁に突っ込んでよじ登るんだ。それしかない」
『それは……強引すぎないか。お前の限界が来るまでまだ時間はある。別の方法を探した方が……』
「無い。僕たちにタレットを無力化する事は出来ない。無理矢理にでもやらなければ、僕たちは生き残れない」
『……分かった。やろう、リュラ』
ミランが反対した理由に僕のことが含まれていたのは自意識過剰でないと思いたい。彼は僕の体のことを知っていて、それを考慮してくれた。別の方法を探すなら、コロニーに入っていく車を捕まえる手もあるだろう。もしそれが来たら理想的に目的を達せる。僕は身体を使わずに少し脅せばいい。
ただ、それが待っている間に来るという確証は無い。1日で来たなら万々歳、2日で来たなら僕は死んでいる。間違いなく一刻を争うべき事態の中で、そういう優しい手段を取る余裕はとうに消え失せた。デーモンが僕の頭を素晴らしく単純にしてくれた。
「こういう時には応援するべきでしょうか。マスター」
「いや、さして変わりもしないよ」
本当は彼女の声を聞くのが嫌だっただけだ。あまり脳が回らないと老人のようになって、感情が表に出てくる。デーモンに乗っているとはいえ、自分の行動を見出す要素は少ない方がいい。
コンクリートの壁のふもとにミランが屈む。両手を組んで膝の上に置き、補助体勢を整える。それを見て僕は助走を始める。ゆっくりと脚を持ち上げて下ろしてもう片方の脚を前に出す。精一杯その工程を早めようとしても、小走り程度にしかならない。
右足の裏が地面から離れて彼の両手に着地する。全身のバネを使い、空中へと跳躍する。目標は地上から3m付近。晴天の下でデーモンが躍る。残っていた銀色の部分が光を反射して光彩が飛び散った。僕は負傷を忘れたと思い込みながら拳を振った。
硬化したナノマシンがどれほど硬いのか、僕は知らない。だけども銃弾が当たって吹き出したそれがへばり付き、中々離れてくれなかったことを思い出した。銀色の金属の塊がコンクリートを砕き、握り拳を抱いて止める。その余波でできた亀裂に左手を突っ込んで自分の体をどうにかして支えた。
これでどうにか足掛かりは出来た。あとは地道に登っていくだけだ。
「ミラン、一人で行けるか」僕はボロボロの余裕を持って訊ねる。
『私は一人で大丈夫だ。お前がいつか落ちて来ないか心配だから、見守ってから行く』
「かなり心配されていますね。当然ですが」
それもそうだ。もう手が力を無くして落ちかかっている。今体を支えているのは釘のように刺した右手だけだ。何としてでも、というのは簡単だ。だけど文字通りに行えることは無い。ただの例えだからだ。それでもやはりやらなければいけないのだと思う。
左脚をやや上部に蹴り込んで足場を作る。そしてそこから体を持ち上げ、慎重にクライミングを始める。デーモンによって統率が取れた貧弱な軍隊は、命令に背くという事は無いが栄養失調でバタバタと倒れていく。与えられる集中によって手足を動かしたのでまた右腕一本で支えるという状況にはならなかった。つまり、あとは体力の勝負というわけだ。
一歩づつ手足を突き刺しながら蛞蝓のように進んでいく。自分の身体中から痛みと虚脱感が湧き、それが鎮められていく。だけどそれは無くなったわけではない。感じなくなっただけで、本当に存在するものだ。僕の体は既に限界を訴えていた。
腕を振り上げる、また脚を縮ませる幅が狭まった。全身がわなわなと震えていた。汗は出ていなかった。しばらく運動していなかったからだ。息が喘いでくるのが分かった。止まりはしない。何も大そうなことは考えていない。それでも生存の為に動くのは、昆虫じみた本能か。
ふらふらと、しかし着実に僕は進んだ。恐ろしく稚拙な行軍はミランから見れば危なっかしくて冗長なものだっただろう。ようやく壁の上に手を掛けて、僕はその上に体を引き上げた。そこは壁と全天ガラスとをつなぐ接合部のようだった。横になるという選択肢が浮かんで、すぐに消えた。ここだと直ぐに見つかる。内部に入らなければ。
自分を律するべくもなく僕は歩き始めた。眼科には地平線の近くまで広がるトウモロコシ畑があった。ファンがごうごうと鳴くと、一つの生き物のように若緑色のふさが揺れた。これだけ巨大な施設なのだから、何処かにはメンテナンス用のハッチがあるだろう。僕は壁の上をとぼとぼと歩いた。
ふと空に目をやると晴天だった。太陽が近づいてくるように感じた。それは僕が高熱の中で動いているためだったのか、よほど綺麗な空だったからなのか分からない。涼しいはずの太陽の光が肌を焼いて温めるのが分かった。そして僕は僕の倒れる音を聞いた。




