23,
半ば恍惚としていた。苦痛は僕の体を食んで穴だらけにしていった。フィルターを何回も通った風が柔らかく撫で付けるたび、唾混じりの空気の波が肌を震わせるたびに痛みは訪れた。それから解き放たれて、快感にも似た感覚が肌の下を巡る。
それはひとつ、断続的に襲う疼痛めいていた。痛みが波のように襲うのと同じようにそれは歩くたび、呼吸するたびに訪れる。ナノマシンが脳みそに集っている時とは違う鋭い感覚のままそれが来る。いい気分だ、と僕は率直に感じた。
内側から熱が疾り、酒を飲んだ時のような高揚感が僕を包む。頭がぼうっとしている。あまり深酒はした覚えがないので深く共感できた訳ではない。ただ気持ち悪いだけだと思っていたので、好んで酔う人間の気持ちが分からなかった。ただ、こういう気分なら味わう価値もあるように感じた。
体が痛みに対抗するようにそうしているのだろうか。もしくは痛みに慣れた為に。後者がどちらかというと腑に落ちる。人を殺す事だって慣れるものだ。だから痛みだってそうなれるだろう。
痛みから生じるマゾヒズムめいた快感を感じながら、僕は死んだ兵士のホルスターから拳銃を抜き取った。M18。標準的な拳銃だ。デーモンを相手取ることは出来ないが、人を撃つには十分だろう。スライドを引いて薬室に銃弾を送る。プラスチックと鉄で出来た冷たさが掌に収まる。
コワレフスカヤから痛みについて聞いた事がある。組織が崩れると炎症を起こし、その刺激が神経を動かして痛みは作られる。繊維上を駆け巡る信号。それをデーモンは支配する。逆にあの臓器は解放する。神経という神経をかき混ぜる鉤針。それが僕の体から作られた。
それに何となく嫌悪感を感じる。生命でも何でもないのに、それが作られたことに。一体何が嫌なのか分からなかったので、僕はまた自分自身が嫌いになった。何であれそこに論理性が無いのであれば、それは正しく無いと僕は思う。故に抱くべきではない感情だ。
「リュラ、どこまで歩ける?」
「感覚が戻っていないので分からないけど、あまり歩けないと思う」
事実として、僕の体はボロボロだ。与えられる栄養の悪さと苦痛。その前の憂さ晴らしで与えられた打撲痕と刺傷痕が残ったままだ。特にそこらかしこにつけられた青あざはまだ消えていない。数日経てば消えてしまうものとここまで向き合うことになるとは思わなかった。
僕は足を引き摺らないと歩けなかった。片方の足を上げて、もう片方の足で少しの間立つ。それを可能にする様々な筋肉が衰えている。なので片足を持ち上げずに滑るようにして動かし、それの場所までもう片方を引き摺る。腕の傷口から血が垂れて、それを踏んでリノリウムに赤い線を描いた。どんな健康効果が有るかどうかが自分の体を持って証明された。
「君はどうだ、ミラン。先導してもらってるけど……」
「取り敢えず歩けはする。お前ほど長くはやっていないからな。何処にあるかは分からないが、デーモンを目指そう」
ミランは少し振り返って僕を見た。青色の瞳に僕が映った。想像するまでもなく酷い格好をしているのだろう。
「先導する。援護はしなくていい」
彼は拳銃を天井に向けて2回引き金を引いた。すると研究機器の裏や机の影に隠れていた研究員たちが蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。優しいな、と僕は思った。そのまま研究室の狭い通路を通っている時に培養液の中に居る胎児が目についた。
胎児。実際の所、本物を見た事は無かった。性教育の教科書に載っていた写真を見た事がある程度だった。それを見た時に感じたのは、率直な生命への反応だった。つまり赤子を見るときと同じような庇護すべきもの、何か生まれたものに対する感動。
それと同時に寒気が襲った。胎児、そして僕が殺した赤ん坊。それが同じものだったとしたら、辻褄は合う。ここで生まれ、そして上階で機械に繋がれる。幹細胞培養技術を使えば細胞から生命や臓器やらを作る事ができる。それどころかその技術が発明される前から、ずっとそれは可能だった。しかしながらここでは当然のようにまかり通っている。
機器の上にニキシー管が並ぶようにしていくつものカプセルが設置されている。その中にやや黄色がかった幹細胞培養液と30cmほどの胎児がいる。何故それがまだ胎の中に居るべき状態にあると分かったのかと言うと、事前に赤ん坊を見ていたからだ。
薄れた記憶の中で、ガラスに隔てられたブロイラーたちのことを思い出す。あっちが養鶏場なら、ここは孵卵器だ。まさしくそうなのだろう。需要があって、この研究所はそれに応える事ができた。そこに倫理は関係無い。
追い詰められた者は何だってするのだと僕は思った。火星軍は今のままだと敗ける。ここ以外の全ての星が敵だから当然に。だからこそ何でもする。重力砲、巨大なデーモン、そしてこの赤子たち。倫理観をかなぐり捨てて勝利を目指す。まあ、それはどうでも良い。それを良いとも悪いとも思わない。ただ不必要に死人を増やすのは何となく気に障ると感じた。
生命を奪うこと自体にはもう何も感じていない。必要なのはそれを行う理由だ。そこに意味があるなら行うし、意味がないなら行わない。それともこれは僕が人を殺したくないが為に考えた防御機構なのだろうか?本当はただ赤子の命で遊ぶことに嫌悪感を示しただけじゃないのか。
ともかく、空想に耽る時間はない。この子たちがどうなるかなんて、僕にはどうすることも出来ない。培養液に自分の顔が反射するのを嫌って、僕はそれから目を背けた。
ようやく二重扉の前まで来て、僕たちはこの研究室から抜け出した。
「ところで道は知ってるのか?」
僕はミランに尋ねた。彼は階段や扉に一直線に導いてはくれない。迷いなく行動したのは研究室から離れる時だけで、あとは手探りのように見えた。
「いや、全く。あそこと独居房を行き来するだけの生活だった」
「じゃあ僕と同じだな、デーモンの場所は誰も知らない」
「……殺さない方が良かったか」
道が分からないのはかなりの問題だ。デーモンを見つけられない事も勿論、このまま彷徨っていれば警報が鳴ってロックダウンが起こる。そうすればみんなが扉に錠を落とし、僕たちは脱出ができない。そして通路の中で銃弾を受ける事になるだろう。
「どこかの部屋に入って質問しよう。誰でもいい。ここで襲撃があったことを知らない奴はいないだろうから」
「そうだな」
僕たちは手当たり次第に扉を開けた。幸いにも情報がまだ回っていないのか、警報は鳴らなかった。意外にも空っぽと言うか、あまり使われていないであろう機材だけを乱雑に放り込んだ部屋がいくつもあった。研究者だってこういう所は几帳面にならないのだな、と思った。
いくつか扉を開けた後、ようやく人が居る部屋に辿り着いた。本当は確定していない。だけど鍵を拳銃で壊した後に悲鳴のような音が聞こえた。ミランが目配せを僕に送る。僕は頷いた。
彼が精一杯の力を込めてドアに突撃した。ラガーマンのような猛々しさはない。瀕死の獣が倒れ込むような、精細を欠いたタックルだ。だけど、流石に兵士らしく何度かするうちにバリケードを退けてドアが開いていく。
僕は拳銃を構える。残弾数は12発。乱射することは出来ない。威嚇で終わらせるか、的確に狙うか。
そして扉が開かれる。足を引き摺りながらその中へと入った。そして扉の表面に消火器の影が躍る。
4000ルーメンの光に照らされたそいつへと引き金を下ろす。左手の指を使って、右手の人差し指ごと押し付けるように。出来るだけ多く撃ち込んだつもりだったが、たった2発だけになった。しかしながらそちらの方が鈍器を振り下ろすよりもずっと素早い。
部屋の中に悲鳴ともつかない息を呑む音が聞こえた。僕は念入りに倒れ伏した男の頭に銃弾を撃ち込んだ。その衝撃で体が少し動いて、また止まった。ひりひりした感覚が体にまだ残っている。不必要なことだったかな。
「動くな。動けばこいつと同じようになる。手を上げてゆっくりとこちらに来い。何にも触るな」
静まり返った部屋に僕のがらがら声が響く。叫び通していたから喉が枯れていた。まるでバットマンの声みたいだ。虜囚が銃器を持って現れたのだから、殆どそうかもしれない。
のろのろと、恐怖に支配された人間たちが現れる。僕はミランを助け起こしながら、彼らに拳銃を向けたままにする。視線と銃口は決して外してはいけない。
「……これで全員か?」ミランが尋ねる。
「は、はい……」
研究者たちの一人が言う。階段を降りてはいないし、彼らが白衣や作業着を着ていたのでそう思った。彼らの大半は僕の要求通りに手を上げていた。しかしながら、要求に従わない人間もいる。僕のそばに横たわる体のように。
僕は手を上げていない奴に向かって引き金を下ろした。胸に2発、頭に1発。おぼつかない指先にしては的確にそれを撃ち抜けた。案外人間とは頑丈だな、と僕は思った。
「リュラ!何をやって」
「命令に従え。そうでないとどうなるか、これで2つの例が出来たな。そこの女、手を上げろ」
ミランの言葉を遮って言う。時間や慈悲は必要でない。僕たちの生存が一番に来るのだから、それ以外は考えるべきではない。何となく体を流れる浮つきが消えて、だんだん澄んでいくのが分かる。
何かが床に落ちる。硬質な音がする。何かは分からないけど、僕たちを害する目的があったのは確かだ。僕はそいつを見る。しかめたような顔をしている。反抗的な表情だけど、その目は揺れ動いている。意志を砕けたなら良いけれど。
「……その通りだ。私たちの命令に従え。そうすれば生きて帰れる」
「質問だ。襲撃者たちのデーモンがどこに行ったか。知っているものはいるか?知っているなら立ったままでいろ。知らないやつは座れ。手は上げたままだ」
そう言うと、大半が座った。まだ立っているのは数人だった。アクセスは出来なくてもどこにあるか程度は知っていそうなものだけれど、そうでもないのか。襲撃の後すぐに人員が補充されるような、巨大なプロジェクトであるということだろうか?
「もう一つ質問だ。その場所を知っていて、さらに案内出来るか?」
そしてまた殆どが座り。立っているのは1人だけになった。青い研究着をきた女だった。黒っぽい茶髪を綿菓子のように広げて、銀縁の四角い眼鏡をかけていた。やや茶色い肌の表面には乾いた地面に似た皺が刻み込まれていた。歳をとるとみんなそういうファッションになるのかと、こういう人間を見るたびに思う。
「よし。そこの立っている女、こちらにゆっくりと歩け。残りの者は座ったままだ」
そいつの目が動揺で泳ぐ。しかしすぐにこちらへと歩いてくる。ミランが銃口を向けたのだろう。僕は変わらずに群衆たちを睨んでいる。ようやくその牛歩が終わり、目の前にその女が立つ。
「動かなければ危害は与えない。そのままでいろ」
ミランがそいつの首に腕を回し、確保する。ゆっくりと扉に後ずさる音が聞こえる。もうこの場所にいる意味はない。ゆっくりと、しかし確実に扉へと向かう。そしてその音が止まる。
「リュラ」
僕も銃口を構えたまま後ずさる。照星の上でたくさんの顔が見える。恐れ、怒り、困惑、絶望。まあ多分何もしないから安心してくれて良い。しかしながら力を持っている優位性ではなくて、単純にこんなにたくさんの顔が並んでいると面白く感じてしまう。
それは辛い時に笑うべきだと言われるのと同じだ。困難に対抗するためには脳内物質が必要で、それを簡単に排出出来るのが笑顔だったということだ。おそらく僕はその視線の中から叱責されるような感覚を抱いているのだろう。嫌な気分としか思えない。
彼らが何を考えているのか僕には分からない。感情は何となく読み取れるけれど、まさか逆上して襲ってくるとは思えない。復讐したいけれど不可能な状況で、僕だったらどうするだろうか?彼らときっと同じだろう。いくつもの感情が渦巻いてるとはいえ、結局出力される行動は同じだ。だからきっと同じだ。
蝸牛のような遅さで、僕はようやく扉に辿り着く。ミランが扉を閉めて捕まえたままの女性に語りかける。
「先程尋ねたデーモンがある場所へ案内してくれ。嘘を付かなければ危害は加えない。その場所に行ったら解放する」
「え、ええ……約束してね……」
「ああ。必ずだ」
中弛みした声でそいつは言う。研究着の袖口から青白い手の甲が見えた。ぷくぷく膨らんでいた。何もかもが中途半端に腐って煮えたシチューみたいだ。
彼女の言葉に従って歩き出した。僕たちが入った部屋のすぐ近くの角まで向かい、そしてすぐにその歩みが止まった。兵士の足音だ。
「隠れろ!」
叫び声を掻き消して発砲音が鮮烈に響く。地下に埋め立てられたこの研究所内では音がよく響く事に僕は気がついた。デーモンが気を利かせてシャットアウトした情報のひとつを僕は今全身で味わっている。
照準を一瞬だけ敵兵に合わせる。体をさらけ出しているので、チャンスは少ない。欲をかいたら蜂の巣にされるだろう。グリップに力を込めて引き金を下ろす。1回、2回。銃弾が放たれると同時に襟首に手を突っ込まれて廊下の角に引きずり込まれる。
数秒前に僕がいた所に銃弾が通る。それに加えて念入りにもう数回。僕は3回引き金を引くつもりだった。だけど指がその重量に耐えきれなかった。左腕の手首から肩にかけて、懐かしい衝撃が残っていた。
「何やってる!隠れろと言っただろ?!」
「遭遇したからしょうがないだろ。来るぞ」
「クソッ」
久々に彼の汚い言葉を聞いたな、と僕は思う。いつも澄まし顔を気取ってはいるので珍しく感じる。
敵兵が持っているのはMP5。僕たちが持っているM18と同じ弾薬を使える機関銃。おおよそ200年前からある銃だが、色々とマイナーチェンジを繰り返して今も使われている。まあ、デーモンや宇宙船に兵器技術が注ぎ込まれた為に進化する必要が無かったシーラカンスとも取れるのだが。
とは言え、もちろんMP5の方が性能は高い。射程距離や装弾数、連射速度。殺傷能力では間違いなく勝てない。僕たちが勝っているのは?数くらいだ。警備兵はたまたま遭遇したのか1人だけだった。相手の銃口は1つ。僕たちには2つ。だからやるしかない。
銃口を角から向ける。3発打つ。顔は出していないので狙いはつけれない。しかしながら敵兵はそれに反応して引き金を下ろす。ミランが横目で僕を見る。変な目だ。
M18の装弾数は17発。あと1発。攻撃は出来ない。しかし彼の気を引ければいい。ミランの弾丸はまだ残っている。隙を付ければ僕たちの勝ちに繋がる。僕はリリースボタンを押し、マガジンを引き出す。計算は合っていた。
「爆発するぞ!」
僕は出来うる限りの大声で言う。本当は普段こんな事は言わないけれど、騙されてくれればいい。マガジンを全力で角先の通路へと投げる。発砲音がして、銃弾が僕の傍を通り過ぎる。
そして窓へと帰る頃、一瞬後ろへと下がろうとする警備兵が見えた。僕は笑った。
ミランが角から飛び出して、警備兵へと発砲を行う。1回。2回。3回。そして4回。油断なくとどめを刺す。そしてようやく廊下の中の残響が消える。どうやら成功したようだった。
「リュラ……2度とするなよ。心臓に悪いというものじゃない」
「成功しただろ。意図を汲み取ってくれて良かった」
「よく感謝してくれ」
「ありがとう」
この言葉には全く何の意図もなく、ただ感謝の気持ちでしかなかった。彼は呆れたような顔をした。
どろどろとした何かが彼の後頭部と膝から滲み出た。それぞれ違った色合いだった。血液と脳漿、または漿液が混じった液体。死に行くものたちから現れるもの。それをしばらく照星越しに眺めていた。
そういえば、と女性を見る。どうやら腰を抜かしていたようで、僕たちが遮蔽に使っていた角から全く出ていなかった。かちかちと歯の根がなる音の方が悲鳴よりもよっぽど良い。ミランが彼女を助け起こして死体に指を差す。
MP5を硬直した指の間から持ち上げて、僕は動作するか確かめた。防弾ベストのポケットに予備の弾倉が入っていたのでそれごと持っていくことにした。防弾ベストでも衝撃は殺せないので、骨折やら雑多な外的損傷を起こす。まして胸部と背部以外の場所を防げはしない。腕や腋、腿に侵入した弾頭が動脈を傷つけて失血死するという事もある。
警備兵は銃弾を4発受けた。逃げていくなか、1発目と2発目の銃弾が体制を崩す。3発目の銃弾が膝裏に命中して転倒。そこにミランが冷静に4発目を後頭部に撃ち込んだ。僕が言ったのは手榴弾を投げる時の符号だ。彼はそれに騙されてくれた。相手も脱走兵が武装している、という報告があったら警戒するはずだと思った。
無謀でしか無かったけれど作戦が成功してくれてよかった。さて、ようやくデーモンに会うとするか。
「ここです……」
彼女が案内したのは1階上のガレージだった。記憶を辿ってもこの場所に覚えはない。研究所内に沢山あるうちの1つなのだろう。特に両開きの扉の横に付いたカードリーダーは珍しく思った。ミランが彼女から手を離す。爪先の細かい出血が彼女の研究着を汚す。
「ここに入れる権限は持っているのか?」
「ええ、はい」
震える指先で胸元のネームプレートを取り、その裏に挟まれていたカードを取り出す。見るからに階級が高そうな警戒色をしている。簡単に兵器にアクセス出来るのだから、相当に地位は高いのだろう。もっと丁重に扱った方がよかっただろうか?
そのカードが差し込まれるとランプが緑色に光り、扉が開く。内部は僕が見たガレージとほぼ一緒だけど少し違う。黒いデーモンが何台も並んでいる。そのいくつかは装甲が外されたりされていて、中には殆ど原型を留めていないのもある。
「こ、これでもう私は帰してくれるのよね?」
「ああ。振り返らずに走ってどこかに行け。ほら」
銃口で背中を小突く。すると彼女は不恰好に走り出した。最初は足が絡まりそうだったのが、遠くに行くに連れて滑らかになっていった。笑いそうになるのを僕は堪えた。
僕たちは使えるデーモンを探すことにした。黒色に塗装されたままの機体は目立つだろうが、この状況であるなら関係ない。ましてそれが銀色であろうとも。




