18,
「そういえば、お前ってどこの学校にいたんだ?」
「4小と3中」
「三年からR-8小学校、T-4中学校からTrappist空軍士官学校」
「聞いてねえって」
「デーモンって空軍なんだ」
僕の発言にミランは面食らったような顔をした。正式な訓練(地球同盟軍の軍学校が行うもの)を受けていないことがバレた。そう、僕はMDMASSとかいうデーモンの長ったらしい正式名称すら覚えていない。
「じゃあ、やっぱり隊長から教わったのか?」
「うん」
「なるほど、そのせいか」
髭ダルマが曲げた鉄板から作られた半球状の鍋を担ぐ。職人のような目をして、4本束ねられたバーナーの炎が頂点に達するのを見守った。基地の娯楽が昼寝程度しかないおかげで、さらに身体が膨れたように見える。
ミランは我関せずといった顔で、食事を待っている。もちろん彼は料理をすることが無駄であると思っている。それに使う材料にセルを費やすくらいなら、虫とトマトと芋でいいと考える人間だから。ただ、同時に貰えるものは貰えた方が得をするということも法則に入っている。
作戦待機室1には僕とトラヒコ、ミランがいた。ジルはいない。50m四方ほどの大きな部屋の隅に僕たちは集まり、火を囲っていた。何でこんなところで調理をしようと思ったのかと聞いたら、「やりたかったから」と彼は言った。そのおかげで自主的に掃除をすることになった。
床に落ちている吸い殻、何だかよく分からない金属片やレーションの包み紙、植物の種や砂を掃き捨て、プロパンガスとバーナーを借りた。最後にミランが顔を使って材料を分けてもらった。
作戦待機室は僕たち兵士の溜まり場になっていた。これから始まる大規模な作戦に向けて(もちろん仕組まれた襲撃作戦が終わったので、仕事がなくなったという節もあるが)準備を進めるためにここへ集められ、数日はこの部屋で作戦内容のシミュレーションをしたり、ちょっとした武器の調整を行なっていた。
僕たち傭兵の仕事のほとんどは宙域の監視や貨物船の警護で、ちゃんとした作戦に順ずることは少ない。僕たちみたいにちゃんとした教育を受けたり、装備が整っている傭兵は珍しい部類だ。そして、ここにいる兵隊は殆ど傭兵だ。どれだけ準備しても過ぎる事はないだろう。
作戦は既に伝えられていた。まずいくつかのトラックとデーモンを解体して、電子部品をかき集めてEMP爆弾を3つ作った。爆撃でまた何人か死んだので、ちょっとした工作にも駆り出される。次に部隊の編成と訓練を行った。
今回は宇宙域や空域での戦闘ではなくて、室内戦だ。想定されるのはデーモンどうしのドッグファイトよりも近接戦闘になる。閉所で行われる小規模な戦い。まず4人1組の部隊を組み、均等に物資が行き渡るようにする。物資は4人分の銃器、スマートランチャーと軽金属の幌(要するにアルミホイル)を巻いた通信用の機器を一つずつ。
銃器の方にも工作が必要になった。ライフルの銃身をショートバレルに取り替え、無い者はプラズマ切断機で銃身を焼き切った。室内での戦いに重要なのは取り回しと威力で、射程は二の次で良い。
シミュレーションは地下トンネルに続く通路の中で行われた。作戦が想定されるのもそんな空間だ。
作戦時間になれば、1つ目のEMP爆弾が起爆する。有効射程は半径150m。とても地表近くにある基地へとは届かないが、ここでの目的はエレベーターの停止だ。僕たちはデーモンを着て地下から地上近くを目指して這い上がる。そうして地下100m付近に近づくと、2つ目のEMP爆弾を起爆させたのち襲撃を行う。3つ目の爆弾は保険だ。
ヒドラオテス基地真下の地下道に悪魔たちが集まって、訓練が始まった。3つのブザーがEMP爆弾の代わりとして手渡された。1つ目のブザーが鳴ると作戦開始。僕たちは一斉にエレベーターを制圧し、天井をこじ開けて1000mを駆け上る。
1000m地点に到達したら2つ目のブザーを鳴らし、僕たちは分隊へとそれぞれ分かれる。騒音が鳴り止まぬうちに扉を力任せにこじ開け、閃光弾を放り込む。そうしてやっと、ずた袋に銃口を向けられる。
ドアの向こうの敵に対する対応だけでなくて、長い通路の向こうにいる敵やデーモンに対する対応についても練習を重ねた。基本的にはより素早く近づいて銃弾を撃ち込むだけだ。閃光弾を起点にして、デーモンの跳躍力そのまま飛びかかりカービンの引き金を下ろす。
訓練は終始このようなことを行った。マクスウェル機関からの重力制御と人工筋肉のサポートで訓練中は苦ではないものの、訓練が終わったらみんな倒れるようにしてデーモンから降りた。
警備のローテーションから外れてさえいれば、あとは暇なものだった。食事も特に変わり映えしなく退屈だった。トラヒコもそれを知っていて、自分が食事を作ることを提案したのだと思う。
彼は僕たちの中で1番料理が上手い。2番目が僕、3番目がミラン。調味料を多めに使うので、宇宙船の中では睨まれることがある。今もミランは努めて目溢しをしようとしている。
「隊長って、よく分からん人だよな」
「確かに。地球から別惑星にコロニーが出来る前の人だろ?地球に留まっていたほうが安全だった」
「戦闘機に乗っていたのは知ってる」
僕はトリチェリの若い頃の写真を見たことがある。30歳前後の写真。空中しか飛べない戦闘機の前に軍服を着た彼と、赤子を抱いた女性が写っていた。今から20年とコールドスリープの時間を入れると100年前程度にはなるのだろうか。
僕は「結婚してたの」と言った。純粋に知らなかった。意識的に彼自身のことを隠しているようだった。彼は静かに首肯した。もっとも、僕は積極的に過去を掘り返そうとしたくなかったのでその話はそこで終わった。
「へえ。平和になったからケブラーに来たのか?……いや、普通に火星のままでいいよな」
「地球同盟に異動を命じられたとか?」
「分からない。興味はないよ」
「ええ……もっとこうさ、知ろうとするんじゃないの?」
コワレフスカヤが言った。気づかぬ間に部屋に入ってきたらしい。赤い火星の土が所々に付いたこの部屋と、彼の白衣は似合わなかった。
「普通、何だか分からない人が自分の親をやっているなんて嫌だけど」
「そうかもしれない」
「つまらないなあ。兵士として教育されたんだろ?論理的に合っていたとしてもさ、親の言いなりにならない!とかも思わなかったの?」
「だってさ、リュラ」
トラヒコが口を挟んだ。もしかしたら、言いにくいことを庇おうとしたのかもしれない。ただ、それももう僕の言葉によって意識の外へと押し出された。
「いや。無かった」
僕とトリチェリの関係について言えることは殆どない。
第一次火星戦争の時に孤児だった僕を引き取り、その後ケプラー442bに移住。兵士として育て上げ、今に至る。単なる説明としてはこれに尽きる。
手を引かれた記憶はない。僕の年齢は推定20歳。丁度第一次火星戦争の時は赤ん坊だった。なぜ路傍に延々積み重なった孤児の中から僕を選んだのかは知らない。
ただ、あまり可愛くなかったことは知っている。覚えている事の中で一番古いのは、2人で食卓で囲んでいたこと。15歳の時にどういうわけかその時の写真を撮っていたことを知った。写真にはテーブルの端に座った僕が写っていた。
鏡の中の顔を丸くデフォルメしたような少年は、ぎこちなく笑った表情を作っている。お世辞にも愛嬌があるわけじゃない。(事実として、今でもこんな感じなのだから)まあ、その疑問は一旦隅に置いておこう。
このときから僕たちが普通の家族と違うことは気づいていたけど、それに対してどうこうは思わなかった。わざわざ自分が王様にならなかったことを羨むことがないように、最初から無いものに対して考えることことなんてない。
兵士の訓練についても、僕が生きるために必要なことだったと思っている。命を奪うことと、奪われることに対する是非はどうにせよ、何の技能も持たない孤児が中程度の幸せを受け取れるわけがない。
僕は彼に対して、感謝している。それは間違いない。そして仲が良い、と言えれば良いけどそうでもない。仲が悪いとも言えない。主観的に述べると微妙な関係だ。僕はトリチェリの年齢と誕生日ぐらいしか知らない。冷凍する前はどこに居たのか、趣味はあるのか、実は秘密裏に作られた軍事ロボットじゃないのか、とか聞いた事があるが、彼ははぐらかして答えなかった。
淡々と最適解を生み出す判断力と、それを実行する身体能力。いまだに衰えていないので、まだ疑っている。
はぐらかせたことに対して信頼を損ねられるほど身勝手な人間であれば、思春期らしく問い詰めることもできたのだろうか。そうして論理を超越した感情のぶつかり合いが始まって、ラスト10分で分かり合う。
だけど、中途半端に賢しかった僕はそれをしなかった。負い目があった。彼が隠す何かを見つけたとしたら、どんな事をされてしまうのか。乏しい想像力はしかし火星とケプラーの現実に裏打ちされていた。
ケプラーには火星からやってきた人間たちがいた。コロニー建設のためにやって来た、僕のように幸運ではない普通の人間たちが。建設現場へと向かう人も、帰ってくる人も見ない。こちらへと流れてくるのは菌を1匹たりとも持ち込まないように燃やした後の骨。生き残っていたとしても数ヶ月の隔離生活の末に死ぬ。
実際に悲惨な光景を見たとか、そういうことじゃ無かったけど残酷なことが起こっている事は分かっていた。火星からやって来た、建設に関わらないでいられた人間たちがデモや報道活動をしていた。コロニー建設の実態を撮影した映像が流れて、1週間の間テレビがそれだけで埋め尽くされたことがあった。(結局それがコロニー建設を止める事なんて無かった)
学校に行っても同じようなものだった。トリチェリは学校にも行かせてくれた。ありがたかったけど、これも負い目のひとつだとは思う。
一応義務教育の範疇に含まれているので、学校は火星から来た人間がいた。金のある家庭は子供を私立の学校に入れるので、むしろそれらが大多数と言っていい。そういう人間たちと僕は、何というか情熱が違う。
火星戦争を直接的に知っている者はいない。けれど、間接的には知っている。親が生きているなら火星戦争でどんなことがあったのか、よほど恨み節で言うだろう。火星に留まっていたのならその余波を実際に体験しているかもしれない。
どんなことがあっただろう。地球からやってきた意地悪で、金持ちの人間にこき使わされたとか?パンを買うのに50倍のセルが必要になったとか?それとも差別されたのだろうか?
僕には関係ないことだと思った。それを知ったからと言って僕にできることなんてないし、そうはならなかった僕が同じ考えになると思っていたのだろうか。過剰なまでの金持ちに対しての怒り、それまで達さなかったとしても金持ちは敵という共通認識ができていた。
僕はそんなに大したことをされてきた覚えは無い。火星にいた時のことなんて覚えていないし、父親が寡黙だったせいで苦労話なんて聞かなかった。傭兵の仕事は尽きることがない。トリチェリがいなくなる事は多かったけど生活に困る事自体はなかった。
それだってどうでもいいことの一種だけど、僕も一応火星出身だ。彼らはそう振る舞うことを控えめに強要した。それなりに火星戦争で財を成した家庭の子供が疎外、または嬲られるのを見たこともあった。”学校は社会の縮図”であるなら、社会がくだらないものであることを逆説的に補強している、と子供ながら考えた。
これはただ嫌だったことだけど、それゆえに自分は恵まれている方であることを自覚させるには十分だった。
性格のせいにしてしまえば簡単だ。ありふれた慰めにもならない言葉でも。
そういう訳で、僕はトリチェリとの間柄について明確にしようとして来なかった。気まずい、または知り合うだけの関係になれなくて今に至る。僕は結局、彼のことを全く知らないで生きてきた。
油を回した鍋に卵液が注がれる。白煙をあげて、油と交わる。タンパク質が不可逆的に変性して凝固する。傷ついた脳みそが2度と元には戻らないように。
数個の茶碗に盛られた米を入れて切るようにかき混ぜる。できるだけ素早く、火力を生かして鍋にくっつかないように鍋を振るうのがコツだとトラヒコは言っていた。それを忠実に守りながら彼は鍋を振った。バーナーの熱気が部屋に満ちていくようで、不思議と僕も暑苦しく感じた。
「チャーハン作るよ!」
「……今作っているけど?」
「株式美だよ」
塩とうまみ調味料を鍋の中に入れて、味を馴染ませるように鍋を奮えば完成だ。鍋一杯に出来上がったそれは、僕たち4人でも多いような気がする。
「あー、隊長を呼んでくるよ」トラヒコが言った。
「いや、僕が行く。盛り付けておいてくれ」
「いいのか。別に何かあるのだったら……」
「そうでもないよ。ただ気まずくなっただけで、瑣末なことさ」
椅子から立ち上がってドアの方向に向かって歩いていった。ドアノブを捻るとき金属の冷たさが手のひらに伝わった。通路に出るとき、部屋の会話が聞こえた。
「お前デリカシーとか無いのかよ。家族の問題だろ」
「無いね。ああいうのは、どんな形になってもとにかく向き合ったほうがいいのさ。それに」
「それに?」
「そっちの方がジルにとっていい結果になる」
「お前なあ……」
僕は結果として、耳をそば立てるようにそれを聞いた。トラヒコの声は警告というより、嗜めるような色合いがあった。あいつ、結構親交はあるんだな。自分と他人を比べる必要はないけど、それにしたって相対的にでしか自分を知れないのだから、残酷だ。
僕は部屋を出たあと少し歩いて、その扉の前に立った。曇りガラスの中で白が充満していくのが見えた。
ドアを開けて、体でそのドアを止めた。通路の冷たい空気が中の空気と当たって、変な気分にさせた。
「タバコ、辞めたら。健康に悪いよ」
「知っている。最近パッケージが段々狭くなって来ているからな」
トリチェリは紫煙を吐き出しながら、タバコの箱を見せた。赤褐色のパーケージには健康に対する警告が踊り、絵柄はほとんど分からない。ぎゅうぎゅうに詰められた、細々としたボールド体が事典の挿絵を除いているような気分にさせる。
「残念だが、喫煙をする人間には意味のない警告だ。明日のことを考えられる人間が喫むわけがない」
「どちらかと言うと、そちら側だと思う」
「そう見えるか。なら考えたくないからだ。数少ない娯楽だ、見逃してくれ」
タバコは極めて手軽な娯楽だ。タバコと火が有れば出来るし、酒ほど作戦行動に支障をきたさない。こんな状況だったら尚更欲しいのだろう。
喫煙室……もしくは作戦待機室2は紫煙の甘ったるい香りでずっと包まれている。トリチェリのようにタバコを喫う人間が沢山いるせいだ。誰かが死んで残った大量のタバコがみんなに配られたせいで、この基地は喫煙者の天国になっていた。ようやく残った嫌煙者たちが灰皿を置いて、ようやく分煙ができた。それでも待機室1で喫う奴はいるけど。
「……だとしてもさ。もう若くないでしょ」
「まあな」
「ガンで死ぬよ」
「銃弾で死ぬ方が早いさ。爆弾かな」
紫煙の中で、トリチェリが僕を見る。落ち窪んだ眼窩の中にある冷ややかな眼。僕をいくつものフィルターを通して見て来た眼。
「彼女は連れてないのか?」
「彼女?」
「ジルのことだ」
「ああ、EMPを耐えられるような機構を作るために、ずっとガレージだよ」
どうやらトリチェリとジルは面識があるようだ。彼女は興味の赴くまま歩き回っていたから、彼に会うこともあるだろう。僕の前では見せないような表情、感情。そういうものを想像するたびつらくなる。僕は彼女だからだ。
さっき吸っていたタバコを灰皿に落として、新しいそれに火をつけた。皺が刻まれた口元から紫煙が舞う。静かにコンクリートの壁の部屋に充満していく。タバコの葉が燃焼する甘い匂い。嗅いだことはある。だけど彼が好むものではない。
「リュラ、喫いにきたのか?やめておいた方がいい。健康に悪いぞ」
「どの口で言うの……トラヒコがチャーハンを作ったからさ、呼びに来た」
「ああ、いいね。ちょうど腹が減ってきた」
憂鬱なら心臓が鳴ることはない。複雑な感情を名付けてしまえば、それを本当に味わうことになる。
吐いた息が重なる。タバコの甘い匂い。燃焼したタバコの草が灰皿に落ちる。僕は体で押さえつけていたドアから離れる。わずかに軋む音を出してドアが閉まる。
「1本吸い終えるまで待ってくれるか」
うん、と僕は言った。どう切り出そうか、と思った所でもう引き返せない事を感じた。
「あのさ、子供居たんだよね」
言い訳をするべきだろうか、と考えを巡らせる。いや、家族のことを知るのにそんな大層なものは必要ではない。僕はただ気まずいだけだ。
「ああ」思ったより簡単な答えが返ってくる。
「知りたいんだ。奥さんのことでだっていいけど。一番は子供のこと」
「それはまた、どうして」
白い睫毛がかすかに動く。煙越しであったとしても、ようやく目が合ったように思う。
「オフュークスから脅された。家族と向き合わなけりゃ骨を数本無くすって」
「どいつだ、それは」
「あの赤いデーモンに乗ってる……」
「ああ、あの跳ねっ返りか」
ようやく老人らしい言葉を使ったな、と僕は瞠目した。まあ、彼女のせいだけにして仕舞えばいいのだけれど、そうはいかない。
「それはそうとして同じ任務に行った時、彼女を殺そうか迷った」
「どうしてそうなったんだ」
不思議そうに、半ば笑いながら煙を吐き出した。僕も少しだけ笑った。まあ、なかなか無い状況だろう。
「でも、結局はジルに止められた。彼女のことなんてどうでも良かったのに」
「そうか」泰然と、彼は咀嚼するように言った。
「ジルは僕だ。僕から作られたAIだから、その選択は僕がしたことと同じだ」
「そうとも言えるが」
これは真実だ。どんなに似ている人であっても、脳細胞がそっくりそのまま同じと言うことは無い。それなのにジルは僕のことをそっくりそのままコピーして、電子の中にペーストした。先天的な面だろうが、後天的な面だろうが。
彼女がやることは、僕がやること。彼女が考えることは、僕が考えること。あの時は分からなかったがその時助けるという選択が出来たのは、僕がその選択を考えていたということになる。
「その時に、僕は2つの考えがあることに気づいたんだ。人を簡単に殺すことと、助けること」
「そうだな。お前はそういう人間だ」
「どっちも正しいと思うようになったんだ。だから、僕はどっちもやりたいと思う。僕が負担になりたく無いこと、そしてトリチェリ、あなたが僕を子供と重ねていること」
「そうか」
愁いを含んだ声、のように聞こえた。心臓が鳴って、冷や汗が手を濡らすのが感じられた。
僕は彼の子供のことを知らない。聞いたこともあるけど、それだって少しだった。彼が決して言わないだろうことを僕は感じ取っていたから。
鋭く、されど動物のように縮んだトリチェリの眼。テーブルに指を規則的に当てる音。トマトスープの湯気。そういうものを僕は覚えている。「何もない。コールドスリープ中に事故で亡くなった」何となく嘘だと分かった。本能的に触れちゃいけないことであるとも、その時に学んだ。
コールドスリープ。SF映画のような超長時間航行はアルクビエレ・ドライブによって必要なくなったので、それを行うのは限られた状況になったときのみだ。中途半端な距離を移動するときや、食物を用意できないぐらい貧乏旅の時とか。
だけど、トリチェリの時はそれ以外だ。少なくとも火星戦争前にはアルクビエレ・ドライブは無かった。
どういう出来事があったのか、僕にはもう知る由はない。ただ、その出来事が彼にとって重くのしかかっているのは確かだった。時々あの眼で僕のことを見た。懐かしむように、悲しむように。それが僕が彼のことを”トリチェリ”と呼ぶ理由だ。
エヴァンジェリスタ。大仰で祝福に満ちた名前。それを呼ぶだけの資格が僕にあるのだろうか。
「それを知りたいんだ。少しで良い。後でだって。ただ、整理をつけたいんだ……そう思ったから」
「……」
トリチェリは吸っていたタバコを灰皿に落とした。アクリルガラスの中に半分ほど燃やされたタバコが横たわった。僕は何となくドアの前から退いた。
「分かった。戦いが終わってからになるが……いいかな」
「……うん、もちろん」
彼は少しだけ唇の端を吊り上げて、僕の肩に手を置いた。節くれだった、掘り起こした木の根のような手だ。彼は僕より少しだけ背が低い。ようやく、それを感じられた。
彼も少しだけ、僕と向き合うつもりになったのかな、と信じる。
「急ごう。食事が冷めるからな」




