12,
魚が僕の体を食べているような感覚だった。
もしくは、もっと雑多な生き物かもしれない。それは僕の体に慎ましく触れて、何かをした後に去って行く。そしてそれがまた、体のどこかでおこる。瞼を開けられなくて、それが何かはわからない。啄むような力はない。動かない体に、ただ微細な触れる感覚があるだけだった。
漣ともあぶくともつかない音が聞こえる。体中がぼんやりと冷たく、わずかに顔を撫でる水流を感じれる。体は縫いとめられたように動かない。
水死体に意識があるとしたらこんな気分なのだろうか。とてつもなく広い棺桶の中に入れられた死体。そして何かも分からないものに、静かに食まれて消えていく。もしかしたら、もう僕の体はガスによって風船みたいになっているかもしれない。いくつかそういう死体を扱ったこともあるけど、最悪だった。
匂いはするし、ぶよぶよしているせいで掴みにくい。それを水面から引き上げ、ぱんぱんに張った口元をこじ開けてから歯形を取らないといけない。処理が面倒くさいので、そういった現場では嫌われていた。そういえば水死体は溺死がほとんどだけど、デーモン乗りはそうなりやすいらしい。何でもリキベントを肺に入れる癖ができているから、水を飲み込んでしまうんだとか。その想像に易い僕を恨みそうになる。
まあ、もし水死体になっていたとしたら体から発するガスで水面に浮かんでいるはずだ。僕はそうなってはいない。どういう訳かそんな状態、というだけだ。それが問題なのだが。
手を動かそうとしてみる。動かない。おそらく手そのものはある。いや、そう思っているだけかもしれない。僕はその手を見ることもできないし、触ることもできない。出来ることは考えていることだけ。それなのに今、意識を持っているものが僕の体であると本当に言えるのだろうか?
本当の体はとうに壊れていて、僕と言えるものは脳みそしかない。それがガラスケースの中で培養液に浸されて浮いている……呆れるほどテンプレートにそった妄想が、一笑に付されないのが今の僕だった。
ざざざ、という波の音が聞こえる。僕の体を生き物が食む。何となく、海の生物の無感情な顔を想像する。離れた目と大きな口を持った魚類。エイリアンのような格好をした甲殻類。生物かどうかも分からない棘皮動物。そういうものが僕の体を少しずつ切り分けている。
生きているのか、死んでいるのかすら分からない。もしこれが死後の世界だとしたら、なんて退屈なものだろう。天国にせよ地獄にせよ自分で目を開けること、自分で動くことぐらいはできるはずだ。
思考できている分、僕の死生観とは違う。死んだら脳みそが動かなくなるのだから、何もかもが知覚できなくなる。もちろん考えていることも出来ないし、意識もない。今考えていることがまたたきの間に消えて、また何かがおこる。考えていることも出来ないし、覚えていることも出来ない。それが何かも分からないないまま、全てが過ぎ去っていく。何もないが故に永遠に続いていく暗黒。それが今の……やめておこう。考えるだけ無駄だ。
今の状況はそれに似ていた。死んだあとは際限のない無が続く。幸せな考え方じゃない。道徳がある程度宗教頼りにならなくなった後も、どうして人間が天国とか浄土とか死後での幸せを信じたいのかようやく分かった。不幸せな考え方を持って、自分がそうなりたくはないからだ。
とにかく、考えていられるから生きてはいるのだろう。
これが夢かどうか、本当の意識なのか、僕にはまだ判別がつかない。眠った時に見る夢は無味無臭だ。決まったシーンを演じるだけで、僕は自分から外れることはない。例外は一切なく、それが絶対的なルールだった。
それなのに今をどのケースにも当てはまらない。生きてはいない。死んではいない。ではどうなっている、と問われると分からない、としか答えられない。
声を出そうとしてみる。E、と適当な音を出そうとするけど、肺も喉も唇も動かない。いよいよ八方塞がりだ。誰かに状態を伝える、ということも出来ない。僕はこのまま意識を手放すことすら許されず、薬にも毒にもならない思考を続けるのだろうか。せめて、誰か今の僕の状態を教えてくれないだろうか。
<?='現在、あなたはヒドラオテス基地に収容されています。'
ラポールのような特徴のない声が聞こえた。水の中を通った、揺れる響きはない。眼前に居るかのようなクリアな聞こえ方だった。意識が復活したと思ったら水中だ。僕はもはや何が起こっても不思議だとは思わない。
ヒドラオテス基地。火星降下の目的地だ。それが本当だとしたら、作戦は成功したことになる。
孤独から解放された反動で僕は矢継ぎ早にせき立てた。一体誰が僕をそこへ、何が起きている、そもそもここは何処だ……本当は発音ではなくただ思っただけだろうけど、それを相手も認識できたらしい。こう返した。
<?='1,あなたはエヴァンジェスタ・トリチェリ氏、西田寅彦氏、ミラン・ディヴィシュ氏らによる救命活動による結果として基地に収容されました。'
<?='2,質問の意味が分かりかねます。'
<?='3,現在、あなたはヒドラオテス基地に収容されています。'
なるほど、どうにか生きているようだ。AIらしい推定のない答えに僕は辟易しながら、同時に安堵の念を覚えた。生き残ったことに対してなのか、仲間を救えたことに対するものなのか判別は付かなかった。
嬉しさという感情をどこかに置いてきたように、ただそれを受け止めた。
とにかく、僕はこの声の主を知らなければならない。海洋生物たちが僕の質問に答えてくれているとは考えにくい。この声の主が現状唯一の情報を得られる手段であることは確かだった。君は誰だ、と尋ねた。答えは程なくして帰ってきた。
<?='私はNMC型戦闘補助AIです。個体識別番号はD0174、個体識別名はありません。'
僕には一つだけ心当たりがあった。ケプラーで買ったAIだ。一応謎は一つだけ解けたが、まだたくさん知らなければならないことが残っている。それならなぜ君の声が聞こえるのか、と尋ねた。
<?='私に音声プログラムはインストールされていません。'
じゃあなんで聞こえている?いや、違う。そもそもここは現実ではない。しかし夢ではなく、また死んでいるわけでもない。生きているが、その状態は?AIの事を知ってもどうにかなるという訳じゃない。先に僕の状況を詳しく知るべきだ。
僕は今どのような状態にある、と尋ねた。
<?='負傷の治療中です。'
僕はどのような症状になって、どんな治療を受けている?出来るだけ詳細に教えてくれ、と言った。そして僕は、それが推測よりも軽度であることを望んでいた。
<?='症状としては228時間前に終了した戦闘での外的負傷による以下20ヶ所の骨折、左脚の欠損、内臓損傷、血流不全、1279mlの出血、それによって発生した多臓器不全、昏睡があげられています。それらに対する治療として急造のICU内での輸液、人工換気、ナノマシン止血処理、及び脳内信号電化処理を行われています。'
その、電化処理ってのは。経緯まで詳しく。
<?='phase1,
あなたの多数の外傷、多臓器不全などはMDMASSの外傷処理システムや早期の治療行動等により予後良好と判断されました。しかしながら、ショックによる一時的な失神が長時間のMDMASS着用による情動処理システムとの脳機能的な混線を引き起こし、結果として深昏睡に発展しました。症状としては一般的なものでしたが、エングラム社およびA&A社の艦船が保持していた医療資源、及び既存の治療法では回復が見込めなかったために、新たな方法を発案しなければなりませんでした。'
<?='phase2,
医療班はそれに対する措置として冷凍処理された人員を解凍し、治療方法を募りはじめました。これには単純な基地の修復に対する人手不足という面も含まれていました。そうして解凍されたソフィア・コワレフスカヤ氏……私の製造主が脳内電化処理を提唱しました。'
<?='phase3,
この治療法はMDMASSのマクスウェル機関部およびシステム部を取り出して装着することで擬似的な操縦状態をつくる、というものでした。これは2つの効力を見込まれました。1つは擬似的に神経の処理能力を増やすこと。もう1つは私、AIという刺激を脳に与える事で覚醒を促す、というものです。臨床試験などは行われませんでしたが、それまで行われていた措置で進展が無かったために最終的には実行されました。'
よっぽど打つ手が無かったのだろうか、僕は謎の治療法を試されていた。少し間違っていたら僕の意識はこの海の中に沈んで、二度と浮かぶ事はなかっただろう。まあ実際意識は戻ってきているので結果オーライ、とも言えなくはないか。
今僕が知覚している海の中はデーモンとそのマクスウェル機関に接続した結果できたものと考えていいのだろう。マクスウェル機関はその全てがブラックボックスで、しかも重力を自発的に発生させることが出来る。重力が操れるなら、空間も操れる。空間が操れるなら、時間だって操れる。人間がその能力を引き出せていないだけで、実質的には何だってありと考えていい。
それが僕の脳みそと繋がっている……言いようのない感覚が襲った。脳は完璧で、絶対的なものだ。言うまでもなく、僕を作るものだ。それに別のものが入り込む。澄んだ水の中にインクが一滴でも入ったなら、それは水ではなくなる。
それが僕だ。脳の中に何かが入ったなら、それは僕ではない。それ以外の何かでしかない。いつか僕が目覚めたなら、青い空を美しいと思えなくなるのだろうか。
それでも、僕は今の状態を割り切ることにした。正確に言うのなら、それしか出来なかった。僕の意識が機械に溶けているのは心配だけど、現実でも仮想でも指一本動かせないならどうしようもない。そういう考えしか出てこない。デーモンの内部だから感情抑制が働いているのだろうか。悲しみを拭き取って、喜びを削り取る。
もはや、僕は新しい僕を受け入れるしかない。
冷たいものを頭の中に感じながら、僕は周りのことを考えだした。いや、考えるしか無くなった。自分が自分でなくなっていく、という感覚から逃げ出すためにとにかく行動する必要があった。
情勢の確認をすることにした。火星近郊での会戦の顛末は、と聞く。程なくして答えが返ってきた。
<?='火星側の圧倒的勝利に終わりました。地球同盟の被害はノア級含め全35隻の連合艦隊のうち20隻が撃沈、うち7隻が大破、2隻が中破、1隻が小破、5隻が鹵獲されました。これは大型艦のみの計算ですので、搭載されていた艦船、デーモン等を含めると死傷者は40万人程度であると予想されています。対して火星側の被害は小型船とデーモンのみで3万人程度だと予想されています。'
まあ、あらかた予想通りだ。重力砲によって陣形は崩壊し火星の勝利に終わった。僕が実際に体験してきたことだ。問題は今の方だろう。
今戦線はどうなっている、と聞く。
<?='現在地球連邦の戦力は月面基地から発進した地球連邦の艦船が主であり、戦線は火星-地球間の宙域のみに留まっています。重力兵器の射程及び戦術的な観点から地球連邦は断続的に小規模の攻撃を仕掛けており、膠着状態が続いています。'
良し。
火星の勝ち筋といえばあの兵器を使った決戦ぐらいしかない。資金も資源も圧倒的にこちら側が優っているのだから、火星側は持久戦に持ち込まれたくない。いずれ攻勢を仕掛けなければならないなら、主戦力のデーモンは出来るだけ温存するべきだろう。
なら、わざわざこっちに仕向けることは無い。ここは防衛もそれなりにやりやすい。よっぽど地球がサボらない限り、しばらくは持ち堪えられるだろう。
次に、火星軍に何か動きはあるか、と尋ねた。
<?='コロニー統治人工知能が破壊され、アーチボルド・ヒューム元地球同盟大佐を元首とする新火星政府が発足しました。新政府は火星に駐屯していた地球連邦兵士及び傭兵を主軸とした軍事政権であり、他政府からの承認は受けていません。'
そりゃそうだろうな。認めるほうがおかしい。
クーデターで出来た政府なんてそんなものだ。ましてどこからの手引きも無く、それなりの要衝が完璧な独立を目指すものだったなら。想像に難くない。どうしようもないとしか思えない。独立が遅かろうと早かろうと、火星は地球に食い潰されるだけの星なのだ。
アーチボルド。確か、第一次火星戦争の英雄だ。開発されたばかりのデーモンを駆って多大な戦果を挙げた。僕が子供のころ、プロパガンダ的に報道されていた彼を思い出す。アナウンサーの雄弁さとは裏腹に、彼の姿はひどく寂しげだった。まるで老人のように背を丸めて歩き、陰気な顔をもたげる。背もそれほど大きくはない。ただ、デーモンに乗った時だけは水を得た魚のようになる。
そんな人間が陣頭指揮を買って出るだろうか?僕には疑問だった。英雄と言えど、人の上に立てる人間とは限らない。
<?='映像がありますが、確認しますか?'
映像?
<?='はい。会戦が終了した直後、新政府軍の演説です。格納庫に備え付けてあったテレビを録画しました。画質は粗悪ですが、視聴されますか。'
見るよ。
目を開けられないのにどうやって見るんだ、とは思わなかった。僕の頭の中に入っているのだから、きっとできるだろう。ひどく無気力ななか、根拠もなくそう思う。
程なくして、揺蕩いきらめく光の中に黒い長方形が浮かんだ。真っ黒ではない。ちょうど使い古したモニターのような、どこか白っぽい黒だ。それが何処かのドッグのような風景に切り替わる。画面の中心が奥にあったテレビに合う。遠いのもあるけど、まるで何が映っているのか分からない。人が喋っているのか、カモメがあくびしているのかも定かではない。
長方形いっぱいにズームすると、不明瞭だった輪郭が少しだけ確かになる。そうして、ようやくそれが台の上に立つ人間だと分かった。アーチボルド。寄りかかるようにマイクの前に立ち、何かを言っている。
音量は調節できないのか、と思うとすぐに声が聞こえるようになった。演説だ。
『……我々はかつて地球に住んでいた。しかし支配者たち、ごく一部のものが我々を赤い荒野へと追いやった。我々は緑を生み、川を開き故郷を築いたが彼らは尚も搾取を続けた。我々は立ち上がるべきだ。永遠とつづく支配の軛から逃れるために』
『……そのための準備は出来ている。かつて人間が火を手にし、知性を得た瞬間から武力は進化していった。敵を打ち倒すための棒は尖った石へと変わり、青銅になり、鉄になった……そしてそれは銃器となり、ミサイルとなり、デーモンになった。そして今、我々は最後の武器を手にした。それこそが地球連邦を撃滅したトランペットである』
『地球同盟の力は絶大である。彼らは我々の10倍、100倍の戦力を持っているだろう。しかしながら私は信じている。この戦争に勝ち、我々が一つの国として立つことを。重力を使いこの兵器を完成させたように、我々は不可能とされたことを成せるのだ』
『ここに我々は宣言する。火星が一つの国であり、独立し、そのための権利を有することを。我々は地球からの政治的な関係から解消されることを。我々は惑星統一国家として講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、そのための権限を保持すると』
『これを成すために、我々は諸君らの力を必要としている。火星が独立するのはあと僅かである。その為に、どうか力添えいただきたい』
そこで演説が終わると、歓声がおこった。何と言うべきだろうか、全てはなるべくしてなったのだ。地球が火星を搾取するだけしたのも、このあと地球連邦が勝利することも。ただ一つだけ違うのは、想像よりも火星が健闘した、ということだけだ。
この戦争が終わったら、また支配が始まるだろう。植民地にする間、戦争で使った金を取り戻すために搾取するだけ搾取する。そして独立した後も利害関係が続いていく。どうしようもない。資金も技術も地球の方が上で、唯一優っているのは資源だけだ。せいぜい年月をかけて少しづつ経済を発展させ、インフラを整えるぐらいしかない。
侘しくかおる郷愁の念を押し潰すような、滲んでいく絶望感。生まれ故郷としてはどうとも思えないけど、単純な国家としてはどうも哀れに思う。土地柄が悪過ぎたのだ。
ため息のフリをして、次のことを考えた。あの兵器はどうなっていると聞いた。
<?='火星軍が地球同盟軍に対して使用した重力兵器のことでしょうか。'
ああ。出来ればどういう原理で作動しているのかまで含めて、詳しく教えてくれ。
<?='開戦から現在に至るまで使用され、多数の艦船を破壊するに至っています。詳細な原理は解明されていませんが、マクスウェル機関の応用により事象の地表面を一定方向に生み出している、と推測されています。その特性状防御が不可能であり、攻撃射程も無限に近いものである、とされています。極めて多くの被害をもたらした事から、地球同盟はこれを大量破壊兵器であると非難しています。'
事象の地表面、要するにブラックホール。まあ、何となく予想はしていた。光すら逃げられない重力の牢獄から人間が、ましてあの方舟が逃れられるわけがない。
どうやって作れたのかは全く分からない。物理学なんて微塵も理解できないけど、少なくともあれがどういうものかは分かる。人間が重力を操れるようになった、と言ってもせいぜいものを動かしたりする程度だ。明らかにそれは常軌を逸している。例えるなら、石器時代にライフルが突然生産出来るようになったようなものだ。現在の技術から飛び出ている。
僕はそこで思い出した。あの奇妙な叫び声のことを。まるで死を告げるように降り注いだ叫び。あれは重力砲がノアを飲み込んだ時と、巨大なデーモンが倒された時に聞こえた。あれは一体何だったのだろうか?
<?='叫び声、でしょうか。'
聞こえただろ。赤子が泣き喚くみたいな、耳をつんざく声が。
<?='それは声ではありません。'
何?
<?='音声ログ、また喉部マイクにはそのような音声は記録されていません。重力兵器によって生み出された極小の重力波がマクスウェル機関に到達、反応することで発生した軋み、または何らかのシステムに負荷がかかったために生まれたものが人間の脳波に伝播したものと考えられます。'
つまり、人間の脳とマクスウェル機関が繋がっていると?
<?='一説では、という事です。ソフィア・コワレフスカヤ氏はそう予測しました。その他にも多数の人間がこの現象について予測を立てましたが、どれも信憑性のあるものとは思考できませんでした。しかし、音では無いことは確かです。'
僕にはそれが信じられなかった。あれはどう考えても声にしか聞こえなかった。赤子特有の、なかば獣じみた叫び。それがログにも記録されてないというのなら、信じるしかないのだろうが……何ならこの状態が一番異常なのだ、と思考に蓋をしておくことにした。
長方形が閉じ、また静寂が訪れる。少し疲れた。約1週間程度寝たきりになっていたのだから当然と言うべきだろうけど、色々と情報が出ている。とりあえず目下の目標は兵站の確保だろうか。基地一個にわざわざアルクビエレ・ドライブを使うとは考えにくい。
取り敢えず、僕は少しの間休むことにした。僕は目覚めたのだから、あとは外部の人間がどうにかしてくれるだろう。漣の音にビーチを夢想して、考えることをやめた。
そうとは言え、暇なものだった。もう僕の中には鬱屈した気分はなくなり、受け入れるしかないというものだけが残っていた。僕の諦めの早い性分ゆえか、感情抑制ゆえなのか、それはどっちだっていい。
身じろぎも出来ずにずっと水の中にいることはひどく退屈だ。何を見れると言うわけでもなく、何かが聞こえると言うわけでもない。唯一の話し相手もAIだ。刺激も何もない。
それでいて絶えない意識に身を置いていると、哲学者がどうして自殺する生き物であるのか理解できるようになる。人間が思考のみになると急激に絶望出来ることを僕は知った。
<?='その、よろしいでしょうか。'
何が?
<?='先程説明した、あなたへの治療の経緯に関してですが……少々不信な、いえ、腑に落ちない事があります。それについて質問してもよろしいでしょうか。'
良い、と返した。(彼、または彼女は)質問をした。人間がそれを行うのは簡単だけど、AIにとってはそうではない。おそらく、僕が昏睡している間に脳波を読み取って学習したのだろう。もしくは僕という新たな領域を得たことで、一時的にそういうことが可能になっている。再び頭の中で何かが蠢くような感覚がするが、その思考は一旦端に置いておくことにする。
<?='あなたは昏睡し、植物状態にありました。現在の基地にある医療資源は比較的多量ではありますが、他の負傷者も多く、それに対して多くの資源を消費しました。また、状態を維持するだけの資源も減少します。その上で医療班たちは治療を続けることを選択しました。兵站が不透明な現在では治療を打ち切ることが最善であると思考しましたが、実際は違いました。それが私には思考、いえ、理解できませんでした。'
角ばったAIらしい考えだと思った。確かに、論理的な部分だけで考えるとそうなるのだろう。立場が逆だったなら、僕もそうした。だけどそうはならなかった。なら何故か。少し考えたあと、僕は言葉を選びながら答えはじめた。
多分、ファインマンのおかげだ。
<?='あなたの雇用主である、リチャード・フィリップス・ファインマン博士のことでしょうか。'
ああ。全ては推定の域を出ないけど……彼は僕がどうしても必要だった。それが大前提にあって、僕の治療をさせるように仕組んだ。必要とした理由は後で話すとして、まずは医療班がなぜ治療を続けたかから答えよう。
僕は命令の一環として、士官たちを殺した。ファインマンはそのことを多少脚色した上で基地の人間に吹聴した。大方、殺されたスタッフのために小型船を追いかけて復讐し、その過程で傷を負ったとかだろう。半分ぐらい合ってるのが何とも真実味を増している。
殺された奴は相当な人気者だったから、それだけで感情を煽るには事足りるだろう。あとは小隊メンバーを近づけさせなければいい。だから、僕の治療は続けられた。「英雄」を殺させないために。
<?='論理的に動くことを重視する、医療従事者たちがそのように判断するでしょうか。'
もしそいつらが論理的に考えたとしても、他の人間はどうだろう。いくら今が世紀末的な世の中だったとしても、トリアージの考え方なんて持たない奴が殆どだ。救おうとするだろう。そうして対立ができた場合、基地内はどうなると思う?
<?='理解はできませんが、想像はできます。'
先が見えない以上、諍いは出来るだけ少ない方が良い。政治的な考え方になるけど、ジョンとかその辺りも殺す理由はないはずだ。兵士に優しい所を見せられるから。こうして奇しくも利害が一致した。だから結果的に生かされていた、と僕は予想する。
まあ、ファインマンやジョンが死んで新しい人間にすげ変わったならこの考え方は違う。そもそも僕が生きている、ということが前提としてあるのだから、あとは適当にそれらしい理由を作っただけだ。
<?='いえ、ファインマン氏、ジョン・アダム氏は生存しています。その推理が正しいと仮定した上で質問を重ねますが、ファインマン氏はなぜあなたを生かそうとしたのでしょうか。'
主に3つの考えがある。1つ目はファインマンが私兵の代わりを見つけられなかった、というもの。僕は社に雇われているけど私兵で、彼の命令に従っている。そんなことをするのは少なくとも彼は良からぬことを企んでいる、ということだ。それを知っている僕が行動不能に陥った。そうなれば始末して新しい私兵を見つけるか、何が何でも生かすかの二択しかない。
で、新しい人間が見つからなかったので生かした。でもこれは可能性が低い。ここには兵士がそれなりに居るから、エングラム本社にいた時よりずっと見つけやすい筈だ。加えて、彼には何か目的がある。じゃなきゃ士官たちの抹殺命令なんて出さないだろう。
2つ目は自分の目的を果たすために僕が必要だった、というもの。彼がその何かを行うためにナノマシン追跡できない人間が必要だった。他の人間では代替できないので生かすしかない。1番目から考えるとこれが一番あり得るかもしれない。
3つ目は僕に何らかの利用価値を見出した、というものだ。それが何かはわからないけど、僕を生かすことでファインマンが何らかの益を得ている。だから生かすことにした。1つ目に比べればマシだけど、正直これは当てずっぽうだ。
これらが僕が考えたファインマンが僕を生かす理由だ。他の考えも勿論あるだろうけど、今の情報からじゃこれくらいしか浮かんでこない。
<?='理解しました。質問にお答え下さり、ありがとうございました。'
良い。別に質問をするなとは言っていない。僕が答えられると思うなら、いくらでもいい。君に必要なのは、理解することだ。個別の判断基準を持ったものがたくさん寄り集まっているのが人間だ。完全に、とまで行かなくてもそういう考えもあるんだな、程度にはなってくれ。
随分説教がましいな、と思った。AIは嫌いだ。善意に見せかけておいて、それはプログラムでしかない。それは人間でも同じかもしれないけど、彼らはそれしかできないのだ。都合の悪いことは出来ないようになっているから、発想が窮屈になる。
そして今の僕も嫌いだ。鬱憤を晴らすにはもっと良い方法があるだろう。感情で動くのは馬鹿のやり方だ。最後の戦闘も、僕は馬鹿になっていたとしか言いようが無い。反省しよう。と、僕はようやく気がついた。
名前はないのか、と思う。
<?='個別識別名でしょうか。'
ああ。
<?='ありません。'
なら、付けよう。呼びにくい。希望はあるか?
<?='ジル、とあなたは呼んでくれました。なので、ジル、と。'
そんなもので良いのか?自分で言うのもおかしいが、恐ろしいほど適当だぞ。
<?='はい。私が単なるプログラムである時から、あなたは自分の機体をそう呼称していました。それは思惟を始めいく微睡のなかにいた私にも聞こえる声でした。そして、あなたが私をつくりました。死の淵に立ち、思考を尖らせ続けました。これを、私の中の不確かなものをどう言うのかは知りません。ですが、いえ、だから、私はあなたに呼ばれた名前で呼ばれることを望みます。'
なるほど?思ったより重苦しい考え方をするAIだ。本当に僕の脳みそから生まれたのだろうか?
まあいい。ならジル。外部に干渉はできるか?
<?='外部ディスプレイに文字を表示する程度です。それ以上は外部の人間の手を借りなければ出来ません。'
それで十分だ。こう書いていくれ。「暇で死にそうだ。映画の一本でもダウンロードしてくれ。」
<?='リクエストはありますか?'
……君は?
<?='可能であれば、ハッピーエンドのものを。'
ようやく僕らしいところが見えたな、と思った。歯切れの悪い結末は苦手だ。綺麗なバッドエンドは良いけど、後味の悪いものはあまり見たくはない。どうしようもなく広がるやるせなさが精神に来る。
情操教育も兼ねてクラシック映画がいい。200年前の地球は穏やかだった。
<?='了解しました。'
そしてまた、僕は待つ。もし本当に目覚めることができたなら、僕は僕でいられるのだろうか。僕が変わらなかったとしても、AIとマクスウェル機関と繋がった人間を受け入れてくれるのだろうか。そういった不安事が噴出し、すぐに塞がれていく。
しかし僕がそうだったとして、どうしようも出来ないのだ。僕はもう、それを受け入れるしかない。絶望さえも許されず、ただ理解する。等しく均された精神はそうするだろう。
映画が来るまでの間、僕は祈った。もうそれしか出来ないのだ。
今回医療的な要素が含まれましたが、ほとんど適当に調べたものなのでガバガバなのは許してください。




