09.〈過去〉調査隊長の妻
調査隊長ルグスンの家屋がある区域は、魔法力を持たない少数派の者たちが大半を占める貧民街だ。あばら屋が立ち並び、周囲には鼻をつく臭いが立ち込めている。
ここで暮らす住民たちは、道に沿って掘られた側溝に、食材として使えない獣の部位を、窓からそのまま放り捨てる。その悪しき慣習が、強烈な腐敗臭となり、この区域を包み込む。当然、蠅の数も多い。それと、丸々と太った大きなドブネズミもそこら中にいる。人の姿を見ても慌てる様子がない。
(こんな劣悪な衛生環境では、治る病気も治らないだろう)
賢者アーカイン・ミスイールは、ようやく、ルグスンの家屋の前に到着した。古い木造建ての小さな民家だ。お世辞にも立派とは言えないが、この地域の大多数を占めるあばら屋に比べれば雲泥の差がある。玄関前の掃除が行き届いているのを見て、アーカインは安堵を覚えた。
玄関脇に小さな花壇があり、ローズマリーやセージ、ミントなどのハーブが植えられている。ルグスンの妻クレアが育てているのだろう。ルグスンが、気立ての良い奥さんと二人暮らしであることは、事前に別の調査隊員から聞いていた。二人が結婚したのは約四か月前とのことだ。
アーカインは、ドアをノックする。
「はぁ~い。お待ち下さい」
家の中から、女性の甲高い声が響く。
それほど待たずにドアが開き、その隙間からハーブの爽やかな香りが溢れ出す。玄関に現れた黒髪の女性――ルグスンの妻クレア・アーキリムは、アーカインの姿を見るなり、彼が誰なのか、おおよその見当が付いたようだ。
「賢者様ですね。こんな場所に、ようこそお越し下さいました」
「はじめまして。アーカイン・ミスイールと申します」
「はじめまして。私はルグスン・アーキリムの家内のクレアです。主人から、ミスイール様には王城で大変お世話になったと伺っております。立ち話も何ですから、どうぞ、中へお入り下さい」
家の中は、ハーブの香りで満たされていた。それでも、どこからともなく侵入してくる腐敗臭を、完全には打ち消せていない。
アーカインは、クレアに伴って、ルグスンのいる奥の部屋へと進む。ルグスンは、ベッドの上でぐっすりと眠っていた。その額には、濡らしたタオルが乗せられている。
クレアは、ルグスンを心配そうに見つめながら言った。
「昨夜は高熱にうなされて大変でした。落ち着いてきたのは明け方になってからです。今は熱も随分と下がりました」
「ご婦人は、寝ずに看病していたのですか。少し休まれた方がいい」
アーカインは続ける。
「腰の患部を確認したかったのですが、起こすのは気の毒ですね。またの機会にしましょう」
「申し訳ございません……。それと、今、ミスイール様は、腰の患部とおっしゃいましたよね?」
「ええ。それが何か?」
「正しくは、腰よりも右脇腹に近い位置です。そこが炎症を起こしているんです」
「右脇腹に近い位置ですか。と言うことは、腰椎……ええと、腰の骨を痛めたのとは違うのですか?」
「はい。違います。もっと……皮膚に近い位置が患部だと思います」
(聞いていた話と違うようだ。腰痛ではなく、皮下組織が炎症を起こした?)
クレアは、真剣な面持ちで恐る恐る尋ねた。
「主人は、洞窟内で何か感染症にでも罹ったのでしょうか?」
「確かに、感染症の可能性はあるでしょう。ただし、洞窟内で、ご主人と一緒に過ごした他の調査隊員には、現在も特に変わった様子はありません。その点が気になる……」
クレアはアーカインの話を遮った。
「ちょっと待って下さい!主人だけではなかったはずです。洞窟から戻る途中、調査隊員さんの何名かは体調を崩されて、嘔吐したり、丸一日寝込んだと聞きました。そのせいで、帰宅が一日遅れたと」
「それは知りませんでした。その時、ご主人は無事だったのでしょうか?」
「はい。その時は何ともなかったみたいです。ただ、その頃から、右脇腹に違和感があったと言っていました」
クレアは、声を詰まらせる。
「……帰宅した当日も、少し痛みがあると言っていましたが、その点を除けば普段と変わりありませんでした。まさか、こんなことになるとは……」
クレアの目から一筋の涙がこぼれる。
アーカインはしばし考え込んだ。
(後日、訓練に参加している調査隊員たちに、洞窟内での様子を聞き取り調査した方が良さそうだ)
「そう言えば、ご婦人、アーキリムという姓があったんですね。初耳でした」
「その……、アーキリムは、わたしの旧姓です。旧姓と言うのも変ですね。元々、主人は姓を持っていませんでしたからね。結婚したからといって、新しい姓に変わるわけでもないですし……」
クレアは続ける。
「主人には、何度も提案したんです。姓が無いよりましだから、アーキリムを名乗ってみたら、と」
「先日の会議の席では、ご主人は、姓を告げませんでしたよ」
「そうなんです。主人は、『貴族の姓なんか御免だ』の一点張りです。本心は、ここの仲間たちに気を遣っているんでしょうね。でも、どんなに主人から拒絶されても、わたしは引き下がるつもりはありません。主人を誰かに紹介する時は、決まってアーキリムの姓を付けるようにしているんです」
クレアの表情が少し緩んだ。
「ご婦人は貴族の出身でしたか。どうりで……」
「貴族と言っても、祖父の代で没落した下級貴族ですよ。わたしが生まれた頃は、まだ南部にアーキリム家の領地が残っていたようですが、その後、すぐに全財産を失ってしまって、貴族らしい暮らしをした記憶なんてありません」
突然、外から男性の怒鳴り声が響き渡る。アーカインは慌てて窓から外の様子を眺める――酔っ払いだろうか。中年の男が、痩せこけた犬を蹴飛ばしているのが見えた。一方、クレアは、今の騒ぎでルグスンの眠りが妨げられなかったか、心配そうに彼を見つめる。
「まったく、困ったものですね」
「悪い人ばかりじゃないんです。ここの人たちは、幼少期から、貧困と差別によって、一般常識を学ぶ機会が与えられませんでした。彼らは、こんな社会が生んだ犠牲者でもあるんです」
(確かにそうかもしれない。でも、そんな歪んだ社会も、近いうちに終焉を迎えるだろう)
人類は、日々の暮らしから大陸間戦争まで、魔法に依存してきた。魔法があって当然だと疑わず、未来永劫続くと信じてきた。しかし、全ては『ギガスタイヴ』があればこその話だ。装置が少しでも故障すれば、そんな日常はたちまち破綻する。それが実際に起こったのだ。
貴族たちは未だに、魔法力が何の意味もなさなくなったことを直視していない。そんな彼らも、『ギガスタイヴ』が破壊されたとなれば、嫌でも実感するだろう。
彼らに、魔法力という優位性が無くなったことを。
貴族も『少数派』もなくなり、人類は、横一列に立たされるのだ。