舞台裏01 エレノア(1)
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エレノアが前世の記憶を思い出したのは、彼女が十六歳の誕生日を迎えた日だった。
夜の帳も下り、ふと暗くなった外に視線を投げたときのことだった。
「エレノア?」
窓に映る自身の顔に、妙な既視感を覚えた瞬間、エレノアの頭の中に前世の記憶が奔流のように流れ込んだ。
くらりと眩暈がしたエレノアは、その場にしゃがみ込んでやり過ごした。
少しして眩暈が落ち着いたことを確認してから、エレノアは立ち上がり、側にあったソファーへと座り込んだ。
大量の記憶を思い出したせいか、ずきずきと痛み出したこめかみに手を当てながら、エレノアは目を閉じて考え込む。
エレノア・ゴードンはゴードン男爵の庶子だ。
昨年までは母と親子二人で、平民として王都の下町に住んでいた。
母親はその刺繍の腕前でもって仕立屋で働いており、エレノアも小さな頃から母親に刺繍を習い、将来は同じ仕立屋で働く予定だった。
そのまま下町の誰かと結婚し、平民として一般的な人生を送るものだと思っていた生活が一変したのは、母親が暴走した馬車に轢かれて亡くなったときのことだった。
懇意にしていた下町の人たちの手助けで、何とか母親の葬儀を終わらせた、その日。
エレノアの元に、身なりの良い壮年の男が訪ねてきた。
男はエレノアの父親だと名乗った。
自分が貴族の子女だなどと俄には信じがたい話だったが、どこからか母親が亡くなったことを聞いた男は、エレノアを引き取りに来たという話だった。
母親が生きていたなら断っただろう提案を、唯一の肉親を亡くしたばかりで憔悴していたエレノアは、よく考えもせずに受けた。
エレノアが提案を受けたことを後悔したのは、割とすぐだった。
王都にある男爵家の屋敷に着き、出迎えた男爵夫人と嫡男の視線に冷たいものを感じたとき、自分が歓迎されていないのだと悟ったからだ。
事実、玄関ホールでエレノアを紹介された夫人と嫡男は、すぐさま自分の部屋へと引き上げていった。
それ以降、二人がエレノアと関わることはなかった。
それからのエレノアは家庭教師と話す以外は、ほぼ一人で過ごした。
男爵令嬢として家に恥をかかせないようにと家庭教師は付けられていた。
しかし、男爵家として比較的下位に存在したゴードン家では、エレノアには専属の侍女は付けられず、朝夕の身支度のときと、食事のとき以外は使用人が側に付いていることもなかったからだ。
そして、勉強時間以外の時間をエレノアは与えられた自室で過ごしていた。
最初に挨拶をしたときの男爵夫人と嫡男の様子で、下手に屋敷を彷徨いて彼女たちの目に付き、これ以上の不興を買うことを恐れたのだ。
なにせ、下町で住んでいた集合住宅の部屋は父親の手によって既に解約済みだ。
その上、後ろ盾もなく、刺繍ができると言っても見習い程度の腕であったエレノアには住み込みで働ける場所を探すことも難しかった。
見つけられたとしても、碌な勤め先ではなかっただろう。
下町で仲良くしていた近所の人に助けを求めれば、あるいはいい働き口が見つけられたかもしれない。
しかし、今よりも生活が良くなるとは思えなかった。
多少窮屈な思いをしても、今の生活の方が恵まれている。
独り立ちする前ではあったが、そのことをよく理解していたエレノアは、屋敷を追い出されることを恐れていた。
そのような状況だから、誕生日といえども普段と生活は変わらない。
一日、家庭教師から教えを受け、それが終わったら自室へと戻り、部屋で代わり映えのしない夕食を取る。
それだけだ。
部屋にいるのは自分一人で、前年までは毎年母親と細やかなお祝いをしていたなと懐かしく、そして寂しく思うだけだった。
ここまでの話は、今まで実際にあった話だ。
ここからは、思い出した前世の記憶にあった話だ。
前世の記憶には、エレノアと同じ名前、同じ境遇の女性が主人公の恋愛ゲームが存在した。
一年の間に、王都の様々な場所で出会う貴族令息と親密度を上げ、親密度が一定値を超えるとハッピーエンドを迎えられるというゲームだ。
親密度を上げるには、出会う回数と、そのときに表示される会話や行動の選択肢のうち最適な物を選ぶことが必要だった。
また、貴族令息との恋愛模様を楽しむだけでなく、要所要所の場面を切り取ったスチルと呼ばれるイラストを集めるのもゲームの醍醐味となっていた。
ゲームで相手役として出てくる貴族令息は六人。
第二王子のヘンリー・ラクサローム、騎士団団長の子息で侯爵子息であるデイモン・ゴダード、大臣の子息で同じく侯爵子息であるエリオット・マクネアー、王都で最も大きい商会の会長で男爵子息であるパスカル・エイマーズ、宮廷魔道師の子息で伯爵子息であるカルヴィン・アシュトン、それから隣国の第三王子のシリル・ハーバートだ。
六人のうち、シリルはいわゆる隠しキャラと呼ばれるキャラで、他の五人のうちの誰かとのハッピーエンドを一度見てからでないと相手役として登場しない人物であり、ヘンリーと人気を二分していたキャラだった。
ラクサローム王国では王族が最も地位が高く、貴族の爵位は上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となっている。
そして、例外はあれど、基本的には伯爵家以上とそれ以外とで参加できる社交場が分かれていた。
そういった王国貴族の常識に照らし合わせれば、一介の男爵令嬢が親しくなれるのは男爵子息であるパスカルと、辛うじて伯爵子息であるカルヴィンくらいだろう。
しかし、ゲームでは王子や侯爵子息とも身分を超えた付き合いができた。
期限内に親密度が一定値を超えなかった場合のノーマルエンドでは友人で終わるが、ハッピーエンドではそれぞれと結ばれるのだから、まさにシンデレラストーリーと言っていい。
「同じ名前だ……」
エレノアが今いる国の名前はラクサローム王国。
国王には三人の王子がおり、第二王子の名前はヘンリーだ。
第一騎士団の団長はゴダード侯爵で、長男の名前はデイモン。
同様に内務大臣はマクネアー侯爵で、長男の名前はエリオット。
エイマーズ男爵も、アシュトン伯爵も存在する。
それぞれの長男の名前はゲームと同じだったはずだ。
家庭教師に教えてもらった、この国の貴族の名前の中にゲームと同じ名前の人物がいることに気付き、エレノアの胸に何ともいえない気持ちが湧き上がった。
急に頭に流れ込んできた記憶は信じがたい内容で、戸惑う気持ちの方が大きかった。
しかし、戸惑いは徐々に別の感情に塗り替えられていった。
まるで、先程までの人格が、前世の人格に塗り替えられていくように。
少しして、エレノアの胸を占めたのは喜びだった。
それというのも、記憶にあった同名の主人公が出てくるゲームは、エレノアが前世で大好きだったゲームだったからだ。
「これって、ゲームの通りに動けば、ヘンリーと結婚できるってこと?」
エレノアにとって、ゲームに出てくるヘンリーは最も好きなキャラクターだった。
背が高く、金髪に青い瞳で、甘い顔立ちをしている、いかにも王子様らしい外見もさることながら、親密度が高くなるにつれて甘くなる言動も前世のエレノアには堪らなかった。
この国の常識に照らし合わせれば決して結ばれないどころか、声をかけることさえ憚られる身分差が存在したが、この世界がゲームの世界であるならば……。
側から見れば、ゲーム通りの世界に主人公として生まれ変わったなどというのは随分と都合の良い考えだ。
少し考えれば、そう思い込んで行動することが、どれほど危ういことかわかる。
けれども、ここにはエレノアを諌めるものは誰もいなかった。
何より、目が眩んでいる状態のエレノアは気付いていなかったが、エレノアが思い出した前世の記憶は十四歳までのものだ。
それに引きずられたのか、表に出てきた前世の人格も十四歳相当のものだった。
親の庇護下で、今と比べれば遥かに甘やかされていた人間の危機管理能力は先程までのエレノアよりも低い。
そのことに気付かないまま、エレノアは自分に都合の良い未来に思いを馳せた。