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鉄血勇者の忘却録  作者: 鹿嶋臣治
序章 辺境農夫と光の聖印
9/20

第八話 蠢く聖印1

 三度の音が響く。

 木材を打つ鉄の音。

 騎士が応接室の硬いドアをノックする音だと気付い時、ディルニスは声をあげた。


()()()()()()?」

「——はっ! アルヴィン・ギルバーシュ()()()!」

「——はっ! シャネア・ウィンヘル()()()!」


 部屋の外に()()()()()騎士達を確認すると、ディルニスはやや疲れた面持ちでソファを立ち上がった。

 無骨な足音を鳴らしながら、己が座っていたソファの背もたれ側に回り込み、ローガンと並び立つ。

 言葉を求めるファンナとグスタフの視線を振り払う様に、騎士団長は扉の外に立つ二人の騎士へ声をかける。


「ご案内しろ」


 返事と鎧を打つ音が響き、足音と共に部屋の前に立っていた騎士の気配が遠ざかってゆく。

 (ひづめ)の様な足具の音が遠のいていき、応接室には沈黙が降り立つ。

 ディルニスとローガンはソファの後ろに直立不動の姿勢を保ったまま、話す事はない、と言葉を介さず語る様に沈黙してじっと目を伏せている。

 それが分かっているのだろう、グスタフは足を組み替えて苛立(いらだ)たしげに溜め息をつき、ファンナは息を潜めたまま夫の腕を震える両手で握っている。

 重苦しい雰囲気に耐え切れない、とクレスがネリの肩を抱く力を僅かに強めた時、三度の音が扉から響く。

 先ほどと同じ、鉄の鎧が硬い木目を叩く乾いた寂しい音。


「アズルス・ヒュッケンバウワス枢機卿(すうききょう)、アルヴィン・ギルヴァーシュ入ります!」


 告げられた仰々(ぎょうぎょう)しい名前にグスタフが顔を歪めた。

 苦虫を噛み潰した様な表情をした後、司祭じゃないのか、と喉の奥で唸り声をあげて、しかしそれ以上何も言わずに沈黙する。

 ドアが静かに開けらて、傷だらけの鈍色(にびいろ)鎧を着込んだ騎士を従えた小柄な老女が姿を表す。

 長い年月を肌に刻んだ小顔には片眼鏡。伏し目がちな目から(わず)かに覗く瞳は濃い紫色で、不思議な光が揺れているのが伺える。

 床まで届きそうな程に長い(くす)んだ灰色の髪は、淡い朱色の布で五つに分たれて(まと)められ、尻尾の様に揺れている。

 豪奢(ごうしゃ)ではないが、一目見て高貴な身分と分かる神聖を具現した緋色の聖職者服。

 寄り添う様に右手に持つのは飾り紐や宝石の類が意匠(いしょう)された金色の杖。


 騎士達が持つものとは異なる種類の威圧感。

 聖職者特有の清らかなものの筈なのに、言いようもない程に近寄りがたい雰囲気が部屋に満ちる。

 枢機卿(すうききょう)と呼ばれた老婆が部屋に踏み入ると同時に、空気が動いたとクレスは感じた。

 狭い歩幅に合わせて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、彼女の視線に合わせて()()()()()()()()()()()()()


「ありがとう、若い騎士殿。下がって良い」

「——はっ!」


 穏やかだが物言わさぬ意思の様な力強さが言葉にある。

 鈍色の騎士は礼の動きの後、足音を残して執務室を出て行った。


「ヒュッケンバウワス枢機卿(すうききょう)此方(こちら)へ」

「ありがとう騎士団長殿。年々、身体の自由がきかなくてね」


 ディルニスが枢機卿(すうききょう)と呼ばれる老女の手を引いて、皮張りのソファへと案内した。

 彼女はゆっくりとした動作で腰掛けると、目蓋を開けて順繰(じゅんぐ)りに部屋の人間達の顔を見やる。

 重く濃い紫色の、飲み込まれそうな錯覚を抱く不思議な淡い光が灯る瞳。

 瞬きの度に淡く揺れる光が、(しずく)の様に瞳から(こぼ)れ落ちそうになる不思議な瞳。

 視線は泳ぐ様に動き、まず顔をしかめるグスタフを、次に緊張した面持ちのファンナを、怯えるネリを見て、最後に硬い顔つきのクレスへ向けらえる。

 そうかそうか、と彼女は頷くと、右手に持った杖の石突きで床を打つ。

 飾り紐と意匠された宝石、そして何かの模様が彫り込まれた金属板が揺れて、小さな鐘の様な音が鳴る。

 軽やかな音色は何の前触れもなく、音に耳を澄ませていたクレスの脳を容赦無く揺さぶった。

 額を槌で殴られた様な衝撃が突き抜け、くぐもった声が漏れ出た瞬間、左手の甲に燃え上がる様な熱が生まれる。

 焼けた鉄が押し当てられた、熱の中に鋭い痛みを感じた時、肩を抱かれるネリが叫び声をあげた。

 ひ、と言う驚きと怯えを混ぜた声が漏れ、次いで目の前の現実を拒絶する言葉が悲鳴として放たれる。


「いやぁ! クレス、クレス! 血が……血が出て……!」


 ネリはクレスの身体にしがみつくと、髪をまとめていたバンダナを慌ててクレスの左の甲へ押し付ける。

 巻かれた包帯も押しつけられたバンダナも、到底、受け止め切れない量の血が滲み出していた。

 湧き出す様に止めどない赤い(ぬめ)りは、鳥肌を立たせる様な感触と妙な温かみを孕んで、腕を伝い肘へと流れ落ちてゆく。硬い布地の粗雑なズボンに大きな赤黒い染みができるのを見て、ネリは涙を溢れさせる。


「テメェ!」


 弾かれる様に立ち上がったグスタフは、しかし時間が止まってしまったかの様に突然動きを止めた。

 歯を食いしばり犬歯を剥き出しにして枢機卿(すうききょう)を睨むが、彼の体は凍り付いてしまったかの様に動かない。


「お黙り狂犬……辛いのは少しだけさ」 


 枢機卿(すうききょう)が静かに告げると、グスタフは押さえ込まれる様にゆっくりと元の席へと座り込む。

 いや、とクレスは痛みのせいで徐々に(にじ)んでゆく視界の中で確かに見る。

 何者かがグスタフの体を無理やりソファへと()()()()()()()


「こ……の……!」 


 グスタフは憤怒に燃えた瞳で老婆を見遣(みや)り、不可視の力に(あらが)おうとしていたが、行動は虚しく体を震わせるだけに止まっている。

 ファンナはただ驚きに目を見開き体を震わせて口元を覆い、ネリは止めどなく血が流れるクレスの左手を抑えながら、悲痛な声で祈りの言葉を捧げ続けていた。


「おいローガン! どうなってんだテメェ、説明しやがれ! ディルニス、クレスを助けろ! 黙ってんじゃねぇ! ディルニース!」


 鉄の棒で面白半分に脳をかき混ぜられる様な頭痛、上も下も分からない程に乱れ狂った視界の中、父親の咆哮(ほうこう)を耳に聞く。騎士団長との怒号とも引けを取らない迫力にクレスは妙な頼もしさを覚える。

 捻れる歪む視界の中で、クレスは名を呼ばれた騎士二人が、なお険しい顔で事の成り行を見ているのを見つける。握り込まれた騎士の手が震えている事を父に伝えようとしたが、口から漏れるのは言葉ではなく、音だ。

 苦悶の音。

 腕を抑えるネリの力が強くなった気がした。


「だからお黙り。すぐに済む」


 枢機卿(すうききょう)の冷ややかな声が響き、グスタフの目の高さまで上げた左手の指先を横一文字に動かす。

 途端にグスタフの怒号が途切れ、くぐもった空気が唸る音だけが生まれる。

 ファンナの(すす)り泣く声と、ネリの嗚咽(おえつ)が耳に届く。クレスの心には恐怖と困惑を超えて怒りが滲み出す。

 頭は荊棘(いばら)で締め付けられるかの様に痛みが増していき、左手の甲は燃え落ちてしまいそうな位に熱い。

 身体の中を這い回る不愉快な痛みと骨の芯に(まと)わり付く様な異常な熱が、辛い辛いと心に大きな悲鳴をあげさせる。

 そして何より辛いと心が訴え叫ぶのは、隣でネリが泣きじゃくる姿を見せつけられている事だ。

 一心不乱にクレスの名を叫ぶ少女の声を耳にしながら、クレスは点滅を繰り返す視界で正面を見据える。

 濃い紫の不気味な光を持つ枢機卿(すうききょう)の双眸と、その華奢な体を包み込む様な()()()此方(こちら)へ値踏みする様な視線を向けていた。


 視界が白く途切れたと感じた時、唐突にクレスは雄大な景色を見る。

 身体中を駆け巡る痛みや不快感を忘れるほど、まるで意識に焼き付けろと言う様に脳裏に鮮烈な情景が蘇る。

 どこまでも続く高い空と、抜ける様な青空の下に広がる岩の山脈。

 燃える様に輝く太陽と、焼けつく日差しを持つ広大な砂漠。

 煌く銀色に染まり、凍て付く空気を孕んだ風が吹き荒ぶ雪の平野。

 深い群青と共に命を抱き抱える、揺籠の様な荒々しい大海。

 鬱蒼としながらも生命を受け入れ、芽吹きの胎動を見せる深い森。

 夕暮れの穏やかな朱色の輝きの中、黄金色に輝き風に揺れる稲穂の群れ。


 夢に見た景色だと直感する。

 そして何の仕打ちだと困惑する。

 心まで痛みと熱に晒され、父は怒り、母は震え、守るべき少女は悲しみの底に沈んでいる。

 渾々(こんこん)と心に滲む怒りに呼応する様に意識から景色が掻き消える。

 途端、思い出させるかの様に、神経を引き摺り出す様な凄まじい激痛と、爛れて崩れ落ちる事を望むかの様な熱が左手の甲で暴れ回る。

 決して消えるなと刻む様に、痛みを忘れることが罪だと言う様に、切れ味の悪い刃で何度も肉を抉られる錯覚。

 悲鳴にも似た苦悶の声が口から漏れるのと、ネリが泣きながら身体にしがみ付く感覚が強くなるのは同時。

 嗚咽を漏らしながら震える体で痛みに悶えるクレスを抱きしめ続け、血が溢れる左手を懸命に抑え続けている。

 耳に届くのは祈りの言葉だ。

 主神エルムの名を何度も呟き、自身の命と引き換えにしてでもクレスを助けて欲しいと懇願(こんがん)する祈りの言葉。


 ふと、クレスは真っ白な視界の中で()()を見る。

 ゆっくりとネリの体へと伸びてくる、半透明の不思議な紐。

 視界に認めた瞬間、言葉では到底(とうてい)言い表せない怖気(おぞけ)と、()せ返る様な腐敗(ふはい)の臭いに首筋が震え、白く染まるクレスの視界が色を取り戻す。

 血が滴る左手には罰の様な痛みと熱。

 首筋を蛇の様に這い回る怖気(おぞけ)

 (まと)わり付くのは嘔吐(おうと)必至の腐敗(ふはい)の臭い。


「やめろ……」


 クレスが唇と喉を震わせて声を絞り出す。

 向かいに座る枢機卿(すうききょう)が眉を潜めた時、半透明の不思議な紐がネリに触れた。

 鎖を引きちぎる様な無骨な音が頭の片隅で響き渡り、何かが崩れた感覚を得る。

 その感覚に名前をつける前に、クレスの体は動いていた。


「——その子に、触るな」


 押さえ付ける手を跳ね除け、クレスは躊躇(ためら)うことなく左手で不愉快に震える紐を掴む。

 果実を潰す様な感触と、卵の殻が破れる様な乾いた音が耳に聞こえた後、半透明な不思議な紐は絶命を拒む蛇の様に、クレスの手の中でのたうち回った。

 蠢く不快感を掌に感じ、のたうちの衝撃と動きに左手が震え、見境なく血が飛び散る。

 構うものか、とクレスは握り込む力を強くする。

 ひ、とネリの小さな悲鳴が聞こえ、心の中に怒りが燃える。


「お前…ネリに何をしようとした」


 淡い光を撒き散らしながら手の中で暴れ回る紐を、クレスは迷う事なく机に叩きつけた。

 乾いた破砕音と共に机が陥没し、布が吸いきれなかった血が跳ね、同時に手の中の半透明の紐がぐったりと力を失うのと見届ける。

 クレスは右手で震えるネリを掻き抱いたまま枢機卿(すうききょう)と呼ばれた老婆を睨み付け、しかし、自身の目が認めた衝撃に声を失った。

 声を失ったのは、部屋にいる誰もが同じだった。 


「何かありました——」


 そしてそれは、クレスが作った破砕音に慌てて部屋に飛び込んできた騎士二人も同じだ。

 あ、と呆けた声をあげた騎士二人は、しかし、素早く柄を握り鉄が(こす)れる音を引き連れて軽やかに抜刀した。

 硬い音ともに鋭い鈍色の光が(ひるがえ)って切っ先が枢機卿(すうききょう)へと向けられる。

 揃った動きで奏でられた硬質な音に弾かれる様に、ローガンとディルニスも剣を抜く。


「——魔物か」


 ディルニスが呟く。

 騎士達の視線と切っ先の先には、枢機卿(すうききょう)身の丈を軽々覆う巨大な()()()()()()()()ががいた。

 陽炎の様に頼りない、薄らぼんやりとした月に似た光を閉じ込める、淡く光を滲ませる半透明。

 天井にまで届く大きさの、床に広げられた絹の布の様に広がる体を構成する一部と思われる部位の表面には、加護や祝福あるいは呪詛の類を意味するであろう、鈍い発光を繰り返す紋様が所狭しと刻まれている。 

 広げられた布の様な体の影から覗く、何本もの様々な太さの半透明の紐が部屋を漂い、ある紐は枢機卿(すうききょう)(まと)わり付き、ある紐はグスタフを押さえ付けていた。

 蛍の様に淡い光が宙を漂い、半透明の存在を生物である事実から遠ざけており、一層不気味に見せている。

 広がる布の様な部分には淡い朱色の輝きがあり、半透明の中をゆっくりと漂う様に移ろっている。


()()()()()()。そして剣を下ろしなさい」


 枢機卿(すうききょう)が静かに告げるのと同時に半透明の紐が勢いよく伸び、騎士達の剣に巻き付いた。

 驚きに体を硬直させた騎士達は、しかし、ゆっくりとその切っ先を床へと向けてゆく。

 いや、とクレスは動きを直視しながら思い直す。

 床へと()()()()()()()()()

 騎士達の抵抗も虚しくゆっくりと、巻き付けられた紐に引き摺られる様に切っ先は床へ。

 各々の剣先が首を垂れる様に床を向いた事を見届けると、枢機卿(すうききょう)は静かに口を開く。


「この海月(くらげ)は、私が加護として持つ『尊き者』の力の一端さ……何も恐れる事はない」


 告げられる言葉と共に、騎士達に巻き付いていた紐が解かれる。 

 突然押さえ付けられる力を失った騎士達は身を崩し、膝をつき、手元から剣を取り落とす。

 床に剣が転がる硬い音が響き、同時に半透明の海月(くらげ)は応接室の景色に(にじ)む様に姿を(かす)ませてゆく。

 ふと、クレスは左手を見やる。

 吹き出す様に溢れていた血が徐々に止まり、代わりに甲に鼓動の様な物を感じる。

 徐々に引いて行く痛みと熱に荒い呼吸を繰り返しながら、目の前で起きる許容範囲を超えた現実の不可解さに震えるネリを、改めて右手で強く抱き寄せた。

 さて、と枢機卿(すうききょう)は伏せていた目を再び開ける。

 深い闇の底の様な濃い紫の瞳が、真っ直ぐにクレスへと向けられた。


「剣を収め、皆が席に腰を落ち着けたら話しましょうか」


 穏やかな、しかし有無を言わさない迫力と共に言葉が紡がれる。

 枢機卿(すうききょう)の口から流れる言葉は、否応なしにクレスの心を焼いてゆく。


「クレスよ……誇り高き騎士《鉄の猟犬(グスタフ)》の息子。お前が左手に宿した誉高(ほまれだか)き『聖印(しるし)』の話を」

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