第六話 帝国の騎士1
硬い板張りの廊下を歩く感覚が曖昧だ、とクレスは花束を抱きすくめたまま、促されるままに領主の館の薄暗い廊下を歩く。
少し肌寒く感じるのは気のせいだろうか、と身震いする。
応接間へと向かう一段は、領主の館には実に似合わない雰囲気と音を纏っている。
雰囲気は剣呑で威圧的であり、音は耳障りな鋼が擦れる鎧の音。足具が馬の蹄の様に廊下を鳴らし、クレスは気分が悪くなる思いだ。
一段は領主のローガンが先頭を歩き、次いで騎士団長のディルニス、クレスと続き、後ろには二人の騎士が控えていた。
先導と言えば聞こえはいいが、気持ちとしては連行されているものに近い。
「こちらです」
ローガンがドアを開けて応接室へと通される。
領主の部屋に一番近い応接室か、とクレスは案内された部屋に思い当たる。
親しい人間か、余程重要な仕事じゃない限りは、まず使われない部屋。
ローガン、ディルニスの背中が遠慮も躊躇いもなく部屋に入るのを見て、クレスは暗雲たる気持ちになった。
足を止めて心なしか抵抗をしてみるが、後ろの騎士の一人が小さく咳払いをする。
「クレス殿……」
申し訳なさそうな声色で、水色の甲冑に身を包んだ騎士が耳打ちをする。
クレスは小さく謝罪するとゆっくりと部屋へと踏み込む。
と、視線が先客を捉えた。
困惑の表情で微かに震えながら、質の良い皮張りの長椅子に座り縮こまっているネリだ。
彼女はこちらの顔を見ると、濃い鳶色の瞳から一筋、涙を溢して安堵した表情を浮かべた。
クレスはそんなネリを見て頭を槌でぶん殴られたかの様な衝撃を受ける。
「クレス……クレス、私、訳が分からなくて。突然、侍女長にこの部屋へ案内されて、騎士様が来るからって、それで……」
唇を戦慄かせ、震える声でネリは経緯をクレスへと伝える。
立ち上がってこちらに駆け寄りたい衝動を抑えているのだろう、片手を力なく伸ばすだけで、しかし、それ以上の動きはない。
代わりに涙を孕んだ弱々しい視線はクレスと、そして領主、黒騎士、弟分の両隣に控える騎士を順繰りに見遣り、怯えと困惑に沈む。
は、とクレスは小さく息を吸い込むと、震える膝に力を入れる。
怯えるな、と心の底で言い聞かせ、クレスはぎこちないながらも笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ、ネリ。騎士様達は僕に用があるみたいだから……怯えなくてもいい。大丈夫、大丈夫だよ」
「うん……うん……ごめんね。私、突然のことでびっくりして……だから……」
ゆっくりと穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
クレスの右隣、鈍色の傷だらけの鎧に身を包む騎士が小さく簡単の声を漏らしたのを耳にする。
横目でじろりと視線を送ると、騎士は小さな咳払いと共に僅かに顔を逸らした。
クレスはソファに近づくと、ゆっくりと腰を下ろして、まず花束を脇に置くと、次にネリの肩を優しく抱いてやる。
怯える猫の様に体を震わせるネリはただ哀れで、クレスは小さく唇を噛む。
彼女の小さな手がこちらの服を必死の力で握るのを感じながら、
「領主様。ネリは……家に帰すことは許されますか?」
言葉を紡ぎ、クレスの視線はネリが座るも物の反対側に置かれた、同じ皮張りのソファの後ろに控えるローガンへ向けられる。
艶やかな木目の低い机を挟んだ対面のソファには、ディルニスが無言で腕を組み、座っていた。
真紅の双眸がクレストネリに注がれているが、何を思っているかは分からなかった。
少し考えた後にゴードンはゆっくりと首を横に振ると、なるべく柔らかい声色でクレスよりもネリに配慮した穏やかな口調で話す。
「ごめんなクレス。ここに居て貰った方が都合がいいんだ。使用人を送って、グスタフとファンナにもこちらに来て貰う様に連絡をしている最中なんだ」
「そう……ですか。ありがとうございます」
クレスは父と母が来ることに安堵し、ゆっくりとネリの背中を摩ってやる。
彼女は安心した様に小さく吐息を溢して、しかし未だに震えながら顔を俯かせていた。
深呼吸を一度、クレスは視線を上げてディルニスと視線をぶつける。
四度の呼吸のあと、紅の瞳が一度伏せられて彼の口が開かれる。
右手を応接室のドアへ向け、遠雷の様な響きと共に発せられる低い声は命令の音。
「アルヴィン、シャネア、外せ」
「——はっ!」
クレスが座るソファの後ろに控えていた、シャネアとアルヴィンと呼ばれた騎士は、鋭い返事と共に左胸を拳で叩くと、甲冑の音を響かせて足早に退室した。
ドアが閉まるのを確認すると、次にディルニスは後ろに控えるローガンを見やる。
「ローガン。飲み物を貰えるか?」
「えぇ。もちろんです。用意させましょう」
領主が軽く微笑んで、ソファの間に置かれたベルを手に取って鳴らすと、一人の老執事が部屋へと入ってくる。
慇懃な一礼の後、ローガンへと顔を向けた。
「どうなさいましたか、旦那様」
「ディルニス様へ飲み物を頼む。確か良い紅茶が——」
ローガンが言い終わる前にディルニスは片手を上げて制した。
騎士団長の視線は困惑しながらも口を閉じたローガンから、老執事へと向けられる。
身を固めて身構える雰囲気を滲ませる老執事に、ディルニスは遠慮もなく注文を告げた。
「温めた牛乳があれば、それを領主含めて人数分頼みたい。準備できるだろうか? できれば——そこのお嬢さんの為に速やかに」
騎士の赤い視線は未だに俯いたままのネリへ向けられている。
老執事は一瞬呆けて、しかし心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「勿論でございます。蜂蜜はご一緒に如何でしょう? 今年の出来は格別でございます」
「大好物だ。たっぷりと頼む」
「かしこまりました。直ぐにご準備致します」
老執事は領主、騎士団長、クレスの順で丁寧にお辞儀をした後、軽やかな足取りで部屋を後にした。
妙な沈黙がローガンの応接室に舞い降りる。
クレスは領主を見やるが、彼は小さく首を振るだけだ。
隣に腰掛けるネリは老執事と同じく呆けた表情で、向かいに座る騎士を見やっている。
クレスも彼女に倣ってディルニスを見ると、彼は小さく咳払いをした。
「なんだ? 騎士が飲む物ではないと?」
「あ、いや……その……」
「先に言うが、私は苦い物より甘い物の方が好きだ」
「は、はぁ……」
精悍な雰囲気の、立派な刃の傷を走らせた面持ちの騎士が告げる言葉に、しかしクレスはどう反応すれば良いのか分からない。
それ以降黙ったままの騎士を見遣り、次にローガンへと視線を向けると、頼みの綱の領主は視線を逸らした。
どうする、と弱った様に眉尻を下げると、ネリが小さく笑みをこぼした。
「とても……とても素敵だと思います、騎士様」
ディルニスはネリの言葉を聞き、ゆっくりと小さく頷くと、表情を緩めて人懐っこい笑みを浮かべた。
「賛同してくれて嬉しいよ、お嬢さん」
◆□◆□◆□
程よい温度で出された牛乳を一人二杯ずつしっかり飲み終わった頃、応接室のドアが控えめにノックされた。
ちなみに牛乳が二杯なのは、騎士団長のこだわりで、まずは何も入れず次に蜂蜜を入れるのだ、と彼は心なしか言葉を弾ませながら、出された暖かな牛乳に舌鼓を打っていた。悔しいが確かに味の違いが楽しめた、とクレスは心の中で騎士団長のことを褒めそやす。
ローガンが入室を許可すると、侍女服に身を包んだ使用人に案内されてグスタフとファンナが入ってきた。
やや息を切らせた二人だったが、和やかに談笑する騎士と領主と子供二人を見て、ほう、と胸を撫で下ろす。
緊急事態ではないか、と二人は顔を見合わせると、侍女に案内されて、一番ドアに近い位置のソファに腰掛ける。
「領主様、騎士団長様、遅れて申し訳ございません」
グスタフがファンナと共に頭を下げると、ディルニスが片手を上げてそれを制する。
「ローガン」
「はい……席を外して貰えるか?」
「かしこまりました。御用の際はお呼びください」
老執事は首を垂れると部屋を出てゆく。
不思議な空間だ、とクレスは部屋の中を見回しながら思う。その空気はネリにも伝わっている様で、彼女の手は片時もこちらの服を離さない。
沈黙が降り立ち、それを最初に破ったのはディルニスだ。
「ローガン。司祭様は間も無くか?」
「はい。我々の馬と馬車とを比べると、到着までまだわずかに時間があるかと……」
ふむ、とディルニスは頷いたあと、視線をドアへと向けた。
「アルヴィン! シャネア! そこに居ないな?」
妙な質問の後、しかし疑問を挟むことすらせずにドアを隔てて返事が返ってくる。
「——アルヴィン・ギルバーシュ居ません!
「——シャネア・ウィンヘル居ません!」
「よし。司教様が来たらそこに居ろ!」
「——はっ!」
鎧を叩く音が響く。
クレスとネリが顔を見合わせていると、く、と可笑しそうにグスタフが喉の奥で笑う。
父の瞳は悪戯を楽しむ様な輝きを持っている。
彼はそのままドアを見遣り、次に騎士団長へと視線を向けた。
「相変わらず、お元気そうで何よりだ……騎士団長?」
「やめろ。今ここにいるのは練兵時代の三馬鹿だ」
グスタフが遠慮なく足を組むと、ディルニスが人懐っこい笑みを見せた。
騎士団長の隣に座るローガンが全身の力を抜きながら、疲れた様に吐息する。
「グスタフ、一応、子供の前だから最低限は頼むぞ」
「だ、そうだ。《無鉄砲》が言うんだ、大人しくしてろよ《鳥頭》」
「おぉっとすまない。でも、相変わらずの符号をありがとうよ《泣き虫》」
大人三人は満面の笑みでゲラゲラ笑い転げた後、拳を力強く打ち付けた。
拳がぶつかる低い音が響く中、目を白黒させるクレスとネリがいる。
二人は男三人を呆けた表情で見た後、今度はファンナを見やった。彼女は仕方なさそうに肩をすくめると、
「そう言うこと。三人は練兵学校時代の同級生。《無鉄砲》に、《鳥頭》に《泣き虫》の三馬鹿よ」