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鉄血勇者の忘却録  作者: 鹿嶋臣治
序章 辺境農夫と光の聖印
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第三話 辺境の若い農夫の話3

 景色を見ていた。

 雄大な世界の景色だ。

 白い雪原を、赤い砂漠を、深緑の森を、険しい山々を、深い大海を、黄金の稲穂を、ただじっと眺めている景色。

 記憶の底に焼き付ける様に、ただじっと、意識は雄大な美しい景色を眺め続ける。

 これは夢だ、と理解する。

 いつか見た夢、記憶の底に眠る彼方の記憶。

 いつの夢だろうか、と問いかけた所で答えはない。

 ただ景色が滲んでは浮かび上がり、意識の底に焼き付けられてゆく。

 浮かび上がる景色と共に夢をゆっくりと満たしていくのは懐かしさだ。

 あぁ、と意識の底で噛み締める様に思う。

 この懐かしさはこぼしたくない、と。

 何度掬っても指の間から零れ落ちそうとするこの愛しい感情を、救い上げようと滲む景色を必死に焼き付ける。

 窓の外の景色の様に映る世界の姿を意識に刷り込めば、こぼれ落ちる愛しさを、その手の中に取り戻ることができるかも知れない、と。

 不意に意識に声が響く。

 目醒めろ、と。

 お前にはやるべきことがある、と。

 天を奔る雷鳴の様に、大海も揺らす海鳴りの様に、大地に轟く地響きの様に、意識の底から反響する。 


 ——目醒めろ。


 激しい痛みと鋭い熱に襲われ、ぶん殴られる様な衝撃と共に意識が揺れた。





 ◆□◆□◆□





 蹴飛ばされる様な衝撃を背中に受け、全身に駆け抜けるのは鈍い痛み。

 衝撃と痛みに引っ張られる様に意識が浮上し、寝ぼけ眼のまま起き上がる。

 ざらりと硬さに驚いて手元を見ると、なぜか納屋の床に触れていた。

 なぜ、と言う疑問は、頭の上から降ってきた声が解決する。


「目、覚めたか? とっくに仕事の時間だぞ……ネリといいお前と言い、どうしたんだ今日は?」


 呆れた口調のグスタフは、未だに床の上で呆けた面のクレスに毛布を投げて寄越した。

 反射的にそれを受け取ると同時、自分がグスタフにベッドの上から転がされる様にして叩き落とされたと理解する。

 身体に走った衝撃と痛みはそれが原因らしい、とクレスはぼんやりとした顔のまま毛布と、床と、グスタフを順繰りに見やった。

 余程呆けた顔をしていたのか、グスタフは息子の表情を見て気の抜けた笑みを浮かべる。


「用意して飯食ってこい。俺は先に森のほうに行ってるから、準備できたら来いよ」

 

 曖昧な調子で返事をしてゆっくりと立ち上がる。

 

「どうした? 体調が悪いのか? それとも頭が悪いのか?」

「大丈夫、父さんより賢い自信はあるから」

「絶好調だなお前ぶん殴るぞ」

 

 こちらを心配するのか馬鹿にするのか解らない軽口を叩く父へ言葉を返すと、彼は肩をすくめて溜め息をついた。

 息子よ、とグスタフはゆっくりと肩を叩く。

 声色は先ほどとは代わり真剣なもので、クレスはゆっくりと顔をあげると、深い鳶色の瞳がこちらを見つめている。


「悩み事か? 昨日からちょっとぼんやりしてるところがあるからな……寝起きが悪いと言ってたが、それが原因か?」

「あーうん……ちょっと夢見が悪いのかも」

「夢見だぁ?」

 

 怪訝そうに顔を歪めるグスタフにクレスは続けた。


「なんか……色々な景色の夢で……うん、ずっと見せつけられてるって言うか、何て言うか……」

「乙女かお前は」

「自分でもらしくないって分かってるんだけど……こう、変なんだ。すごく懐かしく感じて」

「夢をか?」


 怪訝そうに尋ねるグスタフに、肯定の頷きを返してクレスは続ける。


「見たことない景色をたくさん見るのに、それが凄く懐かしくて……綺麗で……変だよね」

「率直に言ったら変だな。お前、まだ寝てるのか?」

「お陰さまで目は覚めてるよ。あと頭も痛い」

「そりゃぁ……変な夢を見たら頭の一つも痛くなるわな」


 グスタフは頭を摩るクレスへ気の毒そうな声をあげた。

 労わる様な表情の父親へ、成人間近の息子は青筋付きで満面の笑みを向けた。


「お優しいお父様に床へ落として頂きましたからね」

「馬鹿だなお前、俺は毛布を剥ぎ取っただけだ。お前はその拍子に寝返りを打って落ちた。良いか?」

「えぇ……人類最大の叡智は魔術ではなく、言語だと理解しました」


 忌々しく告げるクレスにグスタフは大笑いする。

 

「父との会話でまた一つ、厳しい大人世界の階段を登ってくれて嬉しいぞ息子」

「本当ですね。騎士で生き残るには、正義感よりも屁理屈が大事だと言うことも分りました」

「馬鹿だなお前、騎士じゃなくても生き残るためには、大層な正義よりも命がけの屁理屈よ」

 

 口の端を吊り上げて獣の様な笑みを見せる父親の迫力に、クレスは喉から出かかった皮肉を飲み込む。

 そう言う世界でずっと生きてきた人間が、文字通り血の滲む経験の元に発する言葉の重みに気圧されたのだ。

 口をひき結んだクレスの頭を軽く小突くと、グスタフは納屋のドアへと向かう。


「じゃ、森でな。遅れるなよ、急いでもしっかり飯は食ってこい」

「分りました」

 

 笑いながら出てゆく父親の背中を目で追って、クレスは小さく吐息した。 

 案の定と言うか、ネリは来なかった。

 そのことに一抹の寂しさを覚えつつ、仕方ないと服を脱ぐ。

 

「あれ?」


 左の袖口についた朱色に眉をひそめる。 

 やや滑り気を帯びたそれは血だ。

 ふと、クレスは左手の甲が気付かないうちに血で濡れていることに気付いた。

 いつの間に、と顔をしかめたあと、吐息する。


「納屋の床で切ったのかも。オンボロだしなぁ、ここ」


 自室代わりの小さな納屋を見回してクレスは嘆息する。 

 別にグスタフとファンナに嫌がらせをされている訳ではない。

 ネリが女性としての性徴を迎えた時期に、クレスが自発的に母屋から移ったのだ。

 親二人は何度も謝罪しながら準備を手伝ってくれたが、ネリは最後まで反発して同室でも構わないと言っていたが、家族として長年暮らしていてもクレスは血の繋がらない男である。

 そして懸念は昨晩、見事に的中したのだ。雰囲気に流されたとはいえ、まずいよなぁ、とクレスは独りごちた。

 

「かと言って母屋に部屋はないし、安息日に点検でもするかな」


 安息日の言葉に昨晩のネリの表情が一瞬にして蘇るが、後ろめたさを払い除ける様に咳払いをする。

 クレスは棚に置いてある一番清潔であろう布で手の甲を拭うと、手早く着替えて納屋を後にした。  





◆□◆□◆□





 川で時間をかけて顔を洗い、丁寧に寝癖を直して髪も梳かし、手の甲の血も念入りに洗い落とした。

 いつもよりもかなり遅く母屋に向かったのだが、見事に玄関前でネリと鉢合わせをした。

 しまったと思い見つめ合った時間は一瞬だが、彼女は驚きに叫び声をあげ、顔を真っ赤にしてその場に蹲み込んでしまう。

 何事かと目を白黒させるファンナへ、何でもない、と彼女は告げて慌てて立ち上がると、誤魔化す様にそそくさとクレスの朝食の準備を始めた。

 仕事に遅れるぞ、と言う苦笑気味の母親の小言を聴きながら、しかしこちらの朝食の準備に取り掛かってくれたのは素直に嬉しい。

 のだが、


「まぁ……予想はしてたけど」


 竈門の火力調節を誤り鍋を焦がす、石窯のパンは放置して燃やす、ついでにスープの器はひっくり返す、と言う季節が一周する間に起こるかどうかのドジを、ネリは見事に、それも同時に披露した。

 悔しいやら恥ずかしいやらで震えて泣きそうになるネリを慰めていると、ファンナが呆れた様に溜め息をついて干しパンと羊肉の塩詰が入った布袋を渡してきた。


「ごめんねクレス。今朝から調子が悪いみたいなの、この子」

「あーうん、大丈夫。珍しいもの見たって事にしとく。グルウィも包丁で指を切るって言うし」

 

 グルウィとは農耕神ゴヌボラの使者の一人で、穀物や作物を民に分け与えるだけでなく、それらを振る舞い飢えを満たす手助けをしてくれると言われる精霊。

 そんな精霊が包丁で指を切るとはつまり、運が悪ければ達者な者でも失敗をする、と言う意味で使われる。調理場や炊事を職にする者達が笑い半分に使う言葉だ。

 

「よかったわね、ネリ。代わりに夕食はがんばんなさい」

「わかった……」

「ほら、二人とも仕事に行きな。腹空かせて帰ってくるんだよ」

 

 クレスが返事と共に布袋を持って立とうとすると、ふと、ファンナが顔をしかめた。


「クレス。手の甲どうしたの? 切った?」

「あ、これ? なんか起きたら血が出ててさ」

「大変、手当てしないと」

 

 ファンナが眉をひそひそめてクレスの左手を手に取り、まじまじと見つめる。

 洗ったはずなんだけどな、と再度血が滲む手の甲を見て、ネリが慌てて布と包帯を持ってきた。

 クレスが静止する前に彼女は手早く手の甲へ治療を施す。薬草を擦り潰した軟膏を布に塗り、ズレ無い様に包帯で固定する。

 切り傷や擦り傷は雑菌の苗床となるので、畑仕事に関わる人間は少し大袈裟くらいの処置で良いとクレスは母親から教えられていた。

 ネリもその教えを十二分に受けつでいるのだが、


「ネリ……僕、これから父さんと狩りなんだ。ちょっとこれはやりすぎ……かな」


 指先まで包帯で固定された左手を見て、クレスは苦笑を漏らした。

 あ、と覚束ない手で包帯を外そうとするネリに、ファンナは盛大な溜め息をつく。


「ネリ、もう行きな。領主様の館の手伝い、遅れるよ」

「でもクレスが——」

「ああもう! 仕事が終わってからクレスに構いな! 大人なんだから、まずはやるべき仕事をキッチリこなしな!」


 母親にドヤされてネリは挨拶もそこそこに、転がる様に家を飛び出していった。

 クレスとファンナは同じタイミングで溜め息をつく。


「グスタフを待たせてるのに、悪いわね」

「大丈夫。ありがとう、母さん」


 包帯を外し、丁寧に必要な分だけ巻き直すファンナに礼を述べる。

 彼女は仕方なさそうに再度小さく吐息してから、やや含んだ笑みをクレスに向けた。


「あなた達、昨日の晩に何してたか知らないけど……早いところギクシャクするの止めなさいね」

「別に……何にもないよ」

「馬鹿ねぇ……何年母親をやってると思ってるの。大方ネリが自爆したんだろうけど」

「黙秘します」

「ありがとう。答えが出たわ」

 

 あの父にしてこの母か、と歯噛みするクレスにファンナは微笑んだ。

 

「実の()()()()()に言うのも何だけどね。私は別にネリが変な男に引っかかるくらいなら、クレスが貰ってくれた方が安心するんだけど」

「……それ、息子に言う?」

()()()()()って言ったでしょう? クレスが貰われ子だって、領民は全員が知ってるわよ」

「だからって……今言うことじゃ無いだろ」


 不貞腐れる様に言うクレスに、ファンナは強気な笑みを見せた。


「あと二日で成人する男が何言ってんの。成人して三年したら結婚を考えるなんて、当たり前よ。幸いな事にシュヴェンクフェルト領は安定してるから、早めに子供作って大きな畑を持ちなさい」

「まるで僕が農夫を志してるの、知ってるみたいじゃない」

「んー? あなたが騎士を目指すなら、グスタフはもっと張り切ってるわ」

 

 ファンナの言葉にクレスは眉をへの字に曲げる。


「やっぱり……父さん的には騎士になって欲しかったのかな?」

「グスタフの性格的にそうでも無いけど、ただ、才能は惜しいって言ってたわね。あの人、酔っぱらうと二言目には『アイツは絶対に有能な騎士になる、絶対だ。この《鉄の猟犬》なんて目じゃ無いくらいの大物だ』ってね」


 ファンナはクスクスと思い出し笑いをする。

 その後に領主様が決まって領の兵士と自警団を褒めちぎって飲み倒すの、とファンナは語った。


「別に気にする必要は無いわ。農夫やるなら、それはそれで私たちも嬉しいもの」

「ありがとう」

 

 礼を述べるクレスにファンナは微笑む。

 ちなみに、と彼女は困った眉尻を下げると、


「リーリィもよく気がつくから私は納得できるけど、そうするとネリがねぇ。駆け落ち同然でこの領に来たから、そういうのはよく分からないけどゴタゴタは勘弁よ?」

「良い加減、話題から離れて欲しい」

「ごめんね。どうしても息子と娘の事だから、気になっちゃってね」

「あーでも、なんだ。ありがと。気にしてくれて」

「どういたしまして。頑張ってきなさい」

 

 ファンナはクレスの額に軽くキスをすると、布袋を手渡した。


「成人前の男の子にキスはどうかと思う」

「良いのよ、成人しても子供は子供。お守りよ」


 気恥ずかしそうに額に触れるクレスに、ファンナは快活な笑みを浮かべた。

 背中を押されたクレスは小さく肩をすくめると、布袋を手にドアに手をかける。


「行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい。左手、気をつけてね」

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