第一話 辺境の若い農夫の話1
「ほら起きて。もう日が昇るよ」
体が揺すられている。
それが此方の目覚めを促す行為だと気づいた時、微睡の底に沈み込んでいた意識がゆっくりと浮上する。
眠りの淵にしがみ付く意識を引き剥がす様に、ゆっくりと、だが強く抗議する様に体が揺すられた。
「今日は珍しくお寝坊さんなんだね……少し早いお祝いが原因かな?」
クスクスと笑う軽やかな声にゆっくりと目を開ける。
横向きに広がる世界の中、楽しそうに揺れる鳶色が此方を見つめていた。
それがベッドの縁に顎を乗せ、寝ぼけ眼の此方を見やる少女の顔だと気づくまでに数秒。
気恥ずかしさと驚きが迫り上がってくる感覚を覚え、あ、と小さく声を漏らして慌てて身を起こす。
少女はベッドの上で飛び上がる様にして起き上がった此方を見届けると、ベッドに乗せた顔に笑みを濃くして立ち上がる。
彼女は此方が胸に掻き抱いた毛布をはぎ取ると、それを手早く綺麗に折りたたみながら口を開く。
「おはようクレス。まだお酒が残ってるの?」
仕方なさそうに告げる少女は簡素な硬いベッドの上に毛布を置くと、口元を弓の形にして手を伸ばす。
ぼんやりとベッドの上で惚ける少年クレスの髪に触れ、盛大に跳ねて自己主張する寝癖を撫で付ける。
数回撫でても主張は止まらず、少女は目を伏せて小さな溜め息をついた。
彼女は未だにベッドに座り込むクレスを見ると、心配そうに覗き込む動きを見せる。
「大丈夫? 頭痛い?」
「あーうん……大丈夫、ちょっとぼんやりするだけ」
「畑仕事できる?」
「そこは心配しなくても大丈夫。ありがと、ネリ」
軽く頭を振りながら礼を述べるクレスに、ネリと呼ばれた少女は愛くるしい笑顔を浮かべた。
「すぐに朝食の準備ができるわ。ちゃんと顔を洗って、寝癖を直してくるんだよ?」
「あぁ、うん。わかった。また後で」
あと、とクレスは自室から出ていこうとするネリを呼び止める。
彼女は足を止めると小首を傾げてクレスを振り返った。鳶色の瞳は何事かと此方を探る。
クレスは少しだけ唇を尖らせると、
「あと三日で成人なんだから、子供扱いは止めてくれると嬉しい」
「ふふっ……年下の癖に生意気。自分で起きられる様になってから言ってね」
君がいつも起こすんだろ、とクレスが文句を言い切る前に、彼女は軽やかにステップを踏んで踊る様にドアから出て行く。
虚しくドアが閉まる音にクレスは小さく溜め息を付くと、自己主張する寝癖に触れながら小さく呟く。
「……なんの夢だっけ。なんか、凄く懐かしかった様な気がするんだけど」
◆□◆□◆□
畑作業や狩りの際に着ている厚手の服に着替えてから、寝床にしている納屋の裏手にある川で顔を洗い、手早く寝癖を直して母屋に向かう。
ついでに鶏小屋を覗いて卵を産んでいないか確かめると、二個ほど転がっていたので手早く回収する。
声高く鳴いてこっちを見る鶏と視線がぶつかり、クレスは眉尻を下げて肩をすくめた。
「ごめんよ。でも、代わりに君たちは野犬に襲われることはないだろう?」
何かを訴える様な視線を投げかける鶏に謝罪をして鶏小屋を後にする。
抗議する様な甲高い鶏の声を背に受けながら、クレスは挨拶と共に母屋のドアを開けた。
「おう、いつもより遅いな馬鹿息子。飲み過ぎか?」
椅子に座って矢尻の調子を確かめる男から挨拶の代わりに罵倒が飛ぶ。
楽しそうに歪められた厳つい顔には人懐っこそうな笑みがある。が、左目には光がない。額から顎にかけて長い、一本の傷痕が奔っていた。
「ごめんなさい、父さん。飲み過ぎっていうか……なんか寝起きが悪くて」
「かー! 成人祝いの翌日くらい、飲み過ぎで起きられませんくらい言えよ! 俺の息子だろうが」
小さく吐息を吐くクレスに父と呼ばれた男は、大袈裟に片手で顔を覆い芝居がかった動きで天井を仰ぐ。
つまらんな、と肩を揺らす父親にクレスは吐息混じりに口を開く。
「仕事があるから難しいかな。それに僕の成人祝いは三日後だよ」
「細かいこと言うなどつき回すぞ——本当に飲み過ぎで起きてこなくてもどつき回すが」
「母さん、コレもう酔っ払ってる?」
家長をコレ呼ばわりとは何事か、と唇を尖らせる男をクレスは指差しながら、小さな石窯で作業をする母へ尋ねる。
ネリと同じく明るい茶色の髪をバンダナでまとめた女は苦笑した。
彼女はクレスが差し出した卵を受け取ると、礼を言いながら口を開く。
「どうかしら? でも昨日こっそりお酒を飲んでいたみたいだから、もしかしたら残ってるかも知れないわね。ねぇ、グスタフ? 私、成人祝いまで我慢なさいって言ったわよね?」
「クレース! 謀った——あ、違うんだファンナ確かめただけだ、必要なことだったんだ!」
仕方がない人、と母親に文句と共に耳を引っ張られる父を横目に、クレスは彼の隣の席に腰を下ろす。
心なしか嬉しそうに耳を引っ張られる父親を横目に、
「謀ってません。自業自得だと思います」
「成人間近で生意気になりおって……」
「偉大な父の教育の賜物だと思っていますよ?」
「聞いたかネリ。将来クレスは時代を動かす傑物になるなぁ!」
「ふふっ父さん、小馬鹿にされてるの気づかない?」
野菜と腸詰のスープをテーブルに置く娘の言葉に、なるほど、とグスタフは頷くと隣に座るクレスとどつきあいを始める。
今日こそ泣かす、引退させてやる、とテーブルの上のものを台無しにしない様に、慎重かつ本気で殴り合いを始めた父と弟分を横目にネリは吐息する。
毎朝飽きないわね、と小さく笑みをこぼし、椅子に座りながら台所で石窯を覗くファンナに声をかけた。
「母さん、こっちは大丈夫」
「ありがとう——ほら野郎共! 焼き立てのパンひっくり返したら尻を蹴り上げてやるからね!」
はい、とキレの良い返事と共に男二人は殴り合いを止めて、背筋を伸ばして椅子に座り直す。
お行儀よく両手を膝の上に組み、石窯からファンナがパンを食卓へ運ぶ様子を、同じ動作で追い、同じタイミングで顔を輝かせる。
親子ね、とファンナが大笑いしながら席につくと四人は揃った動作で胸の前で手を組む。
小さな咳払いの後、グスタフが口を開く。
「尊き者エルムよ、日用の糧を与え給う感謝を祈りと共に捧げます。今日も我々をお導き下さい」
数秒の沈黙の後、グスタフは両手を叩く。
「さ、食うぞ! モリモリ食べてバリバリ働くぞ!」
◆□◆□◆□
テオスメギリア帝国シュヴェンクフェルト男爵領。
エストニア東大陸にある最大の騎士国家に所属する、パン作りに適した小麦と品質の良い羊毛、牛乳やチーズが特産品の長閑かな土地だ。
優秀な自警団と憲兵達のお陰で魔物の被害も少なく、領民たちは畑を耕し麦を始めとする作物を作るその傍らで、広々とした土地に羊と牛を放って生活を送っていた。
クレスの父であるグスタフの家に羊や牛はいないが、少し広めの麦畑を領主であるシュヴェンクフェルト卿から与えらている。
日の出と共に起き出して、日中は畑の手入れや新たな土地の開墾を行い、たまに父と連れ立って森に入り狩猟を行うのがクレスの日常だ。
また何日かに一度、村の若者達や自警団の人間は集まってグスタフから剣術や対人格闘術の指南を受ける。
元々帝国の優秀な騎士であったグスタフは、剣に始まり弓や槍等の扱いにも非常に長けており、領内の若者達の指導を買って出ていた。
現役時代に赴いた魔物討伐の際に友人を庇い右足を負傷し、騎士を続けていくことができなくなり引退したそうだ。その友人と言うのが現シュヴェンクフェルト領主であり、騎士時代は日々、切磋琢磨しあった仲だと言う。
クレスは右足をやや庇う様に歩くグスタフを横目に、並んで畑に向かいながら長閑かな町並みを見やる。
馴染みの道具屋や小料理屋を始めとする商店が軒を連ね、通りの中心には小さな教会が一つ。寂れていると言う訳ではないが、とりわけ栄えている訳ではない。商店よりもむしろ畑と動物の囲いの方が多いくらいだ。
隣を歩く大柄な男は鍬を肩に担ぎながら、左目に奔った傷痕を指先で触っていた。
「そう言えばよ」
グスタフが欠伸を噛み殺しながら言う。
クレスが父親を見ると、彼の視線は慌ただしく店の準備をする商店に向けられていた。
「お前、十五になったら……成人したらどうすんだ?」
「元帝国騎士、《鉄の猟犬》と呼ばれた父としてはやっぱり、息子に騎士の道を歩んでほしい?」
田舎生まれの帝国騎士《鉄の猟犬》グスタフの名前は、帝都の練兵学校ではちょとした語り草になっているとのこと。
何年か前に自宅でベロベロに酔っ払った領主が、恥ずかしがる父を押しのけて誇らしげに語っていたのを思い出す。
夥しい量の返り血に塗れ、ボロボロに傷つき退路を無くしても決して絶望に折れず、獰猛な獣の如き咆哮と共に身の丈程ある戦斧を振り回し、逃げ惑う魔物を執拗になぎ払う姿。
その不屈の戦士としての在り方を鮮烈に見せつけてから、グスタフは《鉄の猟犬》と騎士仲間から呼ばれる様になったらしい。そして田舎から帝都に出てきた少年達の間で、同じ田舎出身で騎士にまで上り詰めた《鉄の猟犬》は今でも一つの到達点にされていると言う。
クレスには話の真偽は定かではないが、今でも目に焼き付いてる、とこぼす領主の目は少年の様に輝いていたのを覚えている。その後に決まって、父親が気恥ずかしそうに笑い、生き残りと出会いと友情に、と二人で杯を空にする。
凄い努力をしたんだろうな、とクレスは隣の父へ視線を向けると、彼は、そうだなぁ、と小さく唸りながら眉から顎へ傷を触る。
考え事をしている時の癖だ。
「別になんでも良いな。それにお前は剣を握るの苦手だからなぁ……そりゃ元騎士としては、息子が騎士の道を進んでくれたら色々と手助けはできるが、何やるかとか、何になるかとか、お前が決めりゃ良い話だしな」
「父さんはずっと騎士になりたかったの?」
「なりたくてなった訳じゃない。俺の村は貧しくてな……それに魔物にも襲われて家族は生きてるかも分からん……それに毎日生きるのに必死だった」
「そう……なんだ」
「あぁ、別に話すことじゃないしな。十二の時に剣一本で放り出されて、冒険者とか傭兵の真似事して、成人する時に練兵学校に転がり込んでって感じだ」
「生きるために騎士になったの?」
いや、とグスタフは首を横にふる。
「悪運の賜物だな。兵士になった年の、遠征兼ねての兵練でたまたま魔物の群れに遭遇してな……冒険者紛いの経験が生きて、命からがら生き残った……後にも先にも、あれほど恐ろしい経験はなかったな。まぁ、それで腕っ節を買われて騎士になれたのは行幸だった」
「何年か前に、領主様が話してたやつだね」
「よく覚えてるな」
クレスが言うとグスタフは苦笑を漏らした。
内容が鮮烈だったのもあるが、農作業を行い狩猟を楽しみ母に叱り飛ばされ縮こまる姿の父とは、まるでかけ離れた人物像だったからと言うのもある。
「まぁ、なんだ。少し話が逸れたが好きにしろ。お前の人生だ。農夫になるのも良い、騎士になるのも良い、何か別の道に進むのも良い」
グスタフはクレスの燻んだ茶色の髪を盛大にかき混ぜ、尻尾の様に肩に垂れる髪を引っ張る。
やめろ、と暴れるクレスの肩を組むと楽しそうに笑みを見せた。
「自由に生きろよ我が息子。まだ十五だ……悩んで、選んで、お前の後悔の無いように生きろ。お前の可能性、お前の未来、お前が欲するままに、だ」