第十三話 父と息子2
振り抜かれたクレスの拳がグスタフの頰へ迫る。
間近で振られた拳は躱せないものでは無い。
幼い頃から冒険者として泥を啜り日銭を稼ぎ、練兵として訓練に明け暮れ、騎士として命を賭して戦場を駆け抜けたグスタフにとって、振るわれたクレスの拳は子猫のじゃれつきと程度は変わらない。
上背があり格闘術の心得も多少はあるとはいえ村の自警団程度。しかも寝そべった状態で振るわれた拳の威力など底が知れている。
踏み込みもままならない、腰の捻りもない、ただ我が儘に力任せに振るわれた子供の喧嘩の拳。
グスタフは拳を目でお追い、しかし、甘んじて受け入れる。
一発貰って動揺したところで話をして、諭すことができなければ殴って気絶させる。
人と喧嘩をすることが苦手で心根の優しい奴だから、こちらが拳を受ければ何事かと困惑して耳を傾けるだろう、と目処は立っている。
だからそうした。
振るわれる息子の拳を甘んじて頰に受ける。
拳はグスタフの頰に吸い込まれ、衝撃を与える。
頰の肉と頬骨を打つ音は打撃となり、威力として遠慮なく体へと伝わる。
ただし威力はグスタフの予想を遥かに上回るものだ。
顔面から丸太に躊躇いなく激突した様な衝撃と痛みに、グスタフは情けない声を出して仰け反った。
クレスの顎から手を離し床へ尻餅をつく。
殴打の音は衝撃となり、それは威力として視界の揺さぶりと不愉快な痛みを産む。
ぐらつく視界と予想以上の痛みに目を白黒させながら、グスタフは思わず呆けた顔で頰を撫でる。
じわりと熱を持つ頰が紛れもない痛みを訴えている。
「なんだお前……この威力、おかしいだろ」
「おかしくない……ずっとこうだったよ」
クレスが体を震わせながら立ち上がる。
苦悶に歪んだ表情を浮かべ、蹴り付けられた腹を庇いながら、傍らの椅子に手を着いて体を起こす。
「ずっとこうだった、だぁ?」
「そうだよ」
グスタフもクレスにつられて立ち上がる。
思った以上の威力に動揺しているのが、自身の予想を越えて体にダメージが残っているのが分かる。
内心で舌打ちして、正面で体を真っ直ぐに伸ばそうとするクレスを見やった。
苦しそうな表情を浮かべて、膝に両手を着いて喘いでいる。
そして両手には、薄らぼんやりと淡い青い光が蛍の光の様に明滅している。左手の聖印に白い光を灯しながら。
「自警団の訓練を始めるちょっと前あたりから、他の奴よりも力が強くなってたんだよ」
絞り出す様な声と共にクレスは膝から手を離して体を起こす。
左手の聖痕からは光が消えて、浮いていた脂汗が引いてゆく。
二度の深呼吸の後、荒い呼吸が不自然なくらいに整えられてゆくのをグスタフは見る。
クレスの視線はグスタフではなく、淡い光が明滅する両手を見つめていた。
「訓練の度に人に怪我させないか冷や冷やしてたよ」
「そうかよ……そいつは驚いたな」
少しだけ寂しそうに告げるクレスの両手から淡い青い光が消失する。
「魔力だな。いつの間にそんな芸当できる様になりやがった?」
「知らないよ。気付いたらできる様になってた。岩を簡単に壊して、鉄板をひん曲げるから怖くて誰にも言わなかったけど」
僕には過ぎた力だよ、と告げるクレスを見て、グスタフは静かに腰を落とすと、
「まぁ……いいわ。長年の訓練を嫌がる理由がわかったところで、今更何も変わらねぇ。いいかクレス? 俺はファンナとネリとお前を連れて領地の外へ逃げる。再三言ったな? お前を帝国に差し出して命を買うくらいな、俺は罪人としてお前を匿って生き続ける。同じ後悔をするなら、息子が生きてる方がいい」
「それは許せない。グスタフ達三人が罪人になるくらいなら、勇者になる。唯一の家族に罪人の汚名を着せて生きる後悔をするくらいなら、僕は勇者になってグスタフ達に後悔させたと言う後悔を選ぶよ」
そうか、とグスタフは頷いた。
「少しは男の顔ができるから見直したが……話は纏まらないな。殴って縛ってでも連れて行く」
「そうなる前に、グスタフに諦めてもらう」
瞬間、クレスの眼前に黄色い光が飛び込んできた。
淡い黄色のその光が、拳を覆う魔力の光だとクレスが理解した時、横っつらに衝撃が走り気付けば床を舐めていた。
頭を揺さぶれる様な衝撃と痛みに視界が点滅する。
「お前のそれは俺も使える。冒険者家業の時に血反吐を吐きながら鍛錬した。俺が《鉄の猟犬》たる由縁は、そいつを駆使していつまでもいつまでも、戦場に立っていたからだ」
クレスは体を引きずる様に起こしながら、数歩離れて立つグスタフを見やる。
明滅する黄色い淡い光はゆっくりと暗い室内へ霧散すると、彼の両腕に紋様が浮かび上がった。
それは図形やシンボルと言うよりは、葉の葉脈の様に生物的な脈動を感じるもの。
「いいか、クレス。諦めろ。お前が唯一当てにしていた切り札は、俺も持ってる。あとは経験と覚悟の違いだ。圧倒的に俺が有利なものだ。いいか馬鹿息子、お前は——」
グスタフは言葉を切り、拳を受け止める。
殴打の音は水が飛沫をあげる音に似ていた。
黄色い光と青い光が混ざり合い、いっそ幻想的とも言える色合いで暗い部屋を染める。
振り抜かれたクレスの右手の拳をグスタフが掴み、返す動きで突き出されたグスタフの拳をクレスが受け止める。
至近距離で睨め付け合いながらクレスは口を開く。
「僕が——なんだって?」
「覚悟も何も決まってないクソ餓鬼が、騎士にも勇者にもなれると思い上がるなってことだ」
グスタフがクレスを弾き飛ばし、追うように蹴りを飛ばす。
突き出された蹴りをクレスは交差させた両腕で受け止める。踏鞴を踏んで尻餅を着きそうになるのを、腰を落として堪える。
「覚悟だったらできてるよ! 命をかける覚悟くらい!」
「そんなんじゃねぇ、命かける覚悟は騎士になった時にできてんだよ!」
グスタフの顔面を狙って振り抜かれたクレスの右腕はあっさりと躱され、代わりに左の頰へ痛烈な一発が叩き込まれる。
「天秤にかける覚悟だよ! お前の大切なものを、天秤にかける覚悟!」
「あるに決まってんだろ!」
正面、一歩踏み込んだグスタフがクレスの顎を狙って拳を振り上げる。
視界の外から急に飛び上がってきた石塊のような右手を顔を逸らすことで避け、クレスはがら空きの腹に左の拳を叩き込む。
くぐもった声が聞こえ、ついでにとばかりに振った拳は腹に突き刺さったが、クレスの脳天にも強烈な一撃が振り下ろされた。
衝撃で床に這いつくばるクレスと、重たい腹へのダメージに数歩下がるグスタフ。
無言で睨み合い、痛みに顔を苦痛に歪めながらクレスは起き上がり、グスタフは響くような鈍い痛みに咳き込む。
野外で騒ぐネリの声が聞こえ、静止するローガンの声が耳に入る。
ふ、とグスタフが短く息を吐いた瞬間、互いに一歩ずつ踏み込んでクレスが右の直蹴りを、グスタフが振り下ろす様な起動で右腕を打ち出す。
蹴りを甘んじて受けたグスタフは、しかし、そのままクレスが逃げない様に左腕で足を抱え込む。
「そう言う選択をした事がねぇから、お前はそうやって軽々しく言えるんだよ!」
グスタフの右腕がクレスの左頬に炸裂する。
一際大きい骨肉の殴打の音が響き、クレスの視界が歪む。
意識が飛ぶ、と唇を噛み痛みで気を紛らわせようとする。
崩れ落ちそうになる左足に喝を入れて、クレスは出鱈目に右腕を振った。
当然グスタフにかする事はない。
ついでだ、と言わんばかりに再度、左の頬に拳が叩き込まれて左足から力が抜ける。
クレスが背中から床に崩れ落ちるのを見て、グスタフは掴んでいた右足を離した。
「諦めろ。子供にゃ無理だ」
「……無、理じゃない……って言ってる、だろ」
「根性には合格点出してやるよ」
床の上で呻き声をあげ、四肢を捥がれた虫の様に蠢くクレスに、グスタフは呆れた様な声色で返事をした。
クレスはゆっくりと床の上に手をついて体を起こすと、覚束ない視線で立ってこちらを見下ろすグスタフを見やる。
口の中に鉄の味が広がり、顎は口を開くたびに外れそうだと痛みで訴える。
痛みと何度も脳が揺らされる衝撃に意識は朦朧としているが、目の前に立つ男からは視線を外すなと、クレスの心は訴えていた。
震える両膝に力を込めて立ち上がり、両手を膝について上体を支え、下からグスタフの顔を睨み付ける。
「じゃあお前、聞くけどよ」
グスタフは拳を握りながらクレスへと問を投げかける。
「惚れた女か愛する家族。お前、どっち取るんだ?」
「何言って、るんだ?」
「さっき言った天秤の話だ。惚れた女か愛する家族の一方だけ助けろ」
「そんないきなり——」
狼狽えるクレスに、グスタフは冷たく言い放つ。
「時間切れだ、お前はどっちも見殺しにした」
右の頬に痛みが走り、また殴られた、とクレスが思った時には床に転がって強かに頭をぶつけていた。
ぐらりと視界が大きく歪み、投げかけられるグスタフの声が遠い。
「いつだって選択は理不尽で唐突だ。それが答えられねぇ様じゃ、お前は騎士にもなれやしねぇよ」
吐き捨てる様なグスタフの言葉を聞きながら、クレスは意識を手放した。
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幼い頃の夢だと気付いたのは、黄金色の稲穂の群れの中を歩く二つの影がよく知った顔だったからだ。
鼻水を垂らして歩く幼い己自身と、そんな己の手を引く少し若いグスタフ。
ゆっくりと散歩する様に歩く二人の背を意識だけの自身が追ってゆく。
よく覚えている、とクレスは意識の中で思う。
泣いていた理由は思い出せないが、この光景はよく覚えていた。
グスタフとの会話が幼いながらに心に響いたと言うわけではない。
だが、グスタフの顔はよく覚えていた。
文句を垂れ続ける自分に、彼は愛おしそうな眩しそうな顔をしながら、珍しく、こちらを小馬鹿にする様なものではなく、ただただ、頷きながら言葉を聞いていた。
優しい表情だった。
「お前は良い奴だなぁ、クレス」
グスタフはそう言って愚図る幼子を抱き上げた。
後にも先にも、抱き上げてくれたのはこの時だけだったと思う。
男ならしゃんとして歩け、と言うのがグスタフの口癖だったし、自分自身も恥ずかしがって抱かれようとは思わなかった。ただ、ネリがいつも楽しそうに肩に乗っていたのは少しだけ羨ましかったはずだ。
「みんなで仲良くっつーのは、なかなか難しい。誰もがそうありたいと思うがな」
「どうしてできないの?」
「どうしてだろうなぁ。俺もずっと考えたてたが、結局分からなかった」
「お父さんでもダメだったの?」
そうだなぁ、とグスタフはクレスの頭を撫でながら続ける。
「俺じゃちょっと力不足だった。だから、まぁ、こうしてここにいるわけだが」
「失敗したからここにいるの?」
「年齢の割りに手厳しいなお前。失敗とは違う——そう言う見方もあるが……」
まぁ、とグスタフは小さく頷いた。
「選んだ。どっちも選んだらダメになりそうだったから、本当に欲しいものを選んだ」
「成功?」
「おう。母ちゃんと一緒だし、ネリもお前もいるからな。毎日幸せだ、大成功だな」
子供の様に笑うグスタフにつられ、幼いクレスも楽しげに声をあげる。
「みんな仲良くはちょっと俺には荷が重い」
「荷が重い?」
「大変だって意味だ。みんな仲良くは、大変なんだ」
「なんとなく分かる……」
「だよなぁ。だからお前泣いてる訳だし」
グスタフは涙目で抗議する息子の頭を愛おしそうに撫でる。
「だが良い事だ。俺はお前のその考え方、好きだぜ。ちゃんと大人になって自分でその大変を背負えるんだったら——」
言葉を切り、グスタフは少しだけ懐かしそうな、羨ましそうな、眩しそうな笑みを浮かべた。
「——お前のその大変に、少しだけ付き合ってやっても良い」
「自分ができなかったから?」
「手厳しいな本当に。だがまぁ、そうだな……託すって訳じゃないが、応援はしてやる。わかったな?」
「わかった」
内心ではよく分からなかったが、グスタフの見た事ない表情を見て、力強く頷いたのは覚えている。