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鉄血勇者の忘却録  作者: 鹿嶋臣治
序章 辺境農夫と光の聖印
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第九話 蠢く聖印2

 飛び込んできた騎士二人を部屋の外へ追い出したあと、ヒュッケンバウワス枢機卿(すうききょう)が幼子を眠りに誘う様に穏やかな声で語るのは、ここ東大陸のテオメスギリア帝国だけでなく世界エストニアに住む者なら誰もが知り得る伝説だった。

 絵本に、物語に、(うた)戯曲(ぎきょく)にと、有りとあらゆる形で世界に流布(るふ)され認知される『光の勇者伝説』。 

 世界中の人間が一生に一度は必ず耳にして、子供達へ語るお話しの定番として、盲信する大人もいれば不信する子供もおり、御伽噺(おとぎばなし)だと(あざけ)る者のいる一方で、紛れもない真実だと声高らかに語る者もいる。

 流れた歳月を数えることが途方もない位の過去、当時の風景を想像することもできな程前の時代、深淵(しんえん)の夜と(けが)れた絶望で世界を覆った闇の魔王を討ち滅ぼし、希望の光をもたらし悠久(ゆうきゅう)安寧(あんねい)に導いたと言われる伝説の勇者のお話。


「世界が再び深い闇に覆われる時、先代勇者が宿したと言われる『光の聖印(しるし)』を刻む者が現れる」


 伝説を語り終えた枢機卿(すうききょう)は、静まり返る応接室に居る面々の顔をゆっくりと見回す。顔色を伺うと言うよりは、一人一人を値踏みする、粘りつく様な不快感を覚える居心地の悪い視線。

 だが誰もが口を開く事なく、固唾を飲んで老いた聖職者の顔を見返していた。

 小さく吐息した枢機卿(すうききょう)はゆっくりと、目蓋(まぶた)が閉じられた目をクレスへと向ける。


「クレス。誇り高き騎士『鉄の猟犬』の息子。尊き力に触れ、微睡(まどろみ)から目覚めた『聖印(しるし)』を私に見せてくれるかい?」


 老婆の言葉と視線は、クレスの左手に注がれる。

 父と母の、そして騎士の視線が同じ様に向けられた。

 左手に巻かれたままの赤黒く染まった包帯とバンダナ。じっとりと(ぬめ)りを帯びた重たい水気(みずけ)(はら)んだ粗末な布は、吸いきれなかった血をゆっくり静かに床へと滴らせている。

 五つの視線が持つ感情は困惑や怪訝、そして畏怖(いふ)

 クレスの呼吸は自然と早くなり、鼓動がやけに大きく聞こえた。

 爆ぜるのではないだろうか、とクレスが無用の心配をし、左手に注がれる枢機卿(すうききょう)の視線に手の甲が妙な疼痛(とうつう)を覚える。 

 目に見えない小さな何かが(うごめ)く様な、腐肉(ふにく)をモゾモゾと這い回る(うじ)の様な動きを覚え、クレスは知らず身震いした。

 その身震いを、未だに此方(こちら)を抱きすくめるネリが恐怖と受け取ったのだろう。俯いたままの彼女は(かす)かに腕に力を込めると、枢機卿(すうききょう)へ拒絶の言葉を発した。

 けたたましく()雌鳥(めんどり)の様な、耳を(つんざ)く高い声に、部屋中の誰もが視線を向けた。

 震える彼女は、視線を受けてもなお、拒絶の言葉を口にする。


「ダメ……クレスの手には()()()()()ないよ。ただの傷……狩りで出来た、ただの怪我よ」


 そうでしょう、と青白い顔を上げたネリが唇を震わせる。

 すがる様に懇願(こんがん)する様に揺れる濃い鳶色の瞳がクレスへと真っ直ぐに向けられ、血に濡れる彼女の小さな手は、弱々しい力でボロ布と包帯に覆われるクレスの左手へと重ねられる。

 手の甲を握り込む様に、そこにあるものを隠す様なその悲壮(ひそう)な姿に、ファンナが顔を覆い震えながら俯いた。

 彼女の漏れる様な(すす)り泣きを聞いて、ローガンがやるせない表情で歯噛みして顔を逸らし、ディルニスが苦悶(くもん)に顔を歪め歯を食いしばる。

 グスタフは隣で項垂(うなだれ)れ俯くファンナを抱き寄せ、憤怒や憎悪を(にじ)ませた瞳で枢機卿(すうききょう)を睨め付けていた。


「クレス……『聖印(しるし)』を。このアズルス・ヒュッケンバウワスに、神託者(しんたくしゃ)としての責務を果たさせておくれ」

「お願いクレス……クレス……貴方に『聖印(しるし)』なんて無いの、ただの怪我よ。だって、貴方はただの農夫(クレス)なのよ?」


 目を開けた枢機卿(すうききょう)の瞳が怪しい輝きを孕んで向けられる傍ら、言い聞かせる様にネリの言葉が鼓膜を震わせる。

 さあ、とネリの言葉を無視する様に老婆が口を開く。

 クレスは一度唾を飲み込んで喉を潤すと、ゆっくりと、自分自身に言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。


「僕は……農夫です。左手に『聖印(しるし)』などありません……ヒュッケンバウワス枢機卿(すうききょう)


 沈黙は一瞬。 

 小さな頷きを枢機卿(すうききょう)は見せると、口を開く。


「で、あるならば尚のこと……その左手を私に改めさせて貰いたい」


 柔らかい言葉に(にじ)む力は強い。

 そして枢機卿(すうききょう)の後ろ、尊い者の力と称された海月(くらげ)が陽炎の様にぼんやりと形取る。

 宙を揺蕩(たゆた)う紐を(うごめ)かせて淡い朱色の光がじっとクレスを見つめていた。


「私も……できるなら加護を使いたくは無い」


 言葉と共に紐が動く。

 ゆっくりと空を泳ぎクレスを閉じ込める鳥籠の様に宙を漂う。

 周りが声を上げずに唾を飲み込んでいるだけと言うことは、恐らく見えているのは自分だけだ、とクレスは小さく歯噛みする。どう言う理屈か理解は出来ないが、枢機卿(すうききょう)が加護と言う半透明の存在は、信じられないが可視できる対象を限定できるらしい。

 もしくは、とクレスは一瞬過ぎる不安を脳裏に浮かべる。


 ——『光の聖印(しるし)』があるから見ることができるのか。


 最悪の結末だ、とクレスが苦虫を噛み潰した様な顔をすると、此方(こちら)を見つめる朱色の光が、頷く様に一瞬だけ強く光る。

 畜生と心の中で悪態をつき、鈴の音に似た小さな音色を撒き散らしながら、じっと触手代わりの紐を此方(こちら)の周りで泳がせている半透明の海月(くらげ)を睨み返した。

 頰を汗が流れ顎先に伝う。

 喉がカラカラに乾き、どうしようもなく心臓が暴れる。

 小さく吐息してクレスが右腕をわずかに動かした時、グスタフが声を上げた。


「止めだ止めだ! 帰るぞクレス!」


 ハッとして声の元へ顔を向けると、グスタフがファンナを抱き寄せたままゆっくりと立ち上がる。


御伽噺(おとぎばなし)だ、真に受けるな。聖職者でも稀に『勇者伝説』を盲信する奴がいる……その事を責める訳じゃ無いが、その盲信者が我が国の枢機卿(すうききょう)ってのは残念だ」


 失望したようにグスタフは告げる。

 長い時の流れの中で数多の国の歴史学者や思想家、部族の語り部に始まり果てには娯楽の探求者達に伝説は解釈と意訳を施され、国や民衆に最も支持を受けたものが『レインヴェルト戦記』と銘を打たれ、今現在では『聖エルム教』の聖典と並ぶ数がエストニアの世界に出版され流通している。

 聖典と同じ数が流布され人の目に晒される、真実味を帯びた架空とも言えない冒険譚(ぼうけんたん)は、エルムの教えと同じく信徒として盲信する者も多いと言う。そしてその信奉の根幹にあるのは敬虔(けいけん)な神への奉仕ではなく、消えることなく(くすぶ)る情熱と燃え上がる様な羨望(せんぼう)だ。

 過去の歴史と伝説を紐解く事に情熱を傾ける学者達(盲信者)の話では、来るべき日に備えて《光の勇者》レインヴェルトは後世の為に旅の一部始終が(つづ)られ記録された、冒険譚(ぼうけんたん)の原典たる忘備録(ぼうびろく)(のこ)したのでは無いか、と予測を立てていると言う。

 無論、光の勇者の忘備録(ぼうびろく)の存在の真偽は定かではない。盲信や妄言と一蹴し、まともに取り合わない学者も多い。

 吐き捨てる様に言葉を投げつけるグスタフに、ディルニスが険しい顔をして吠える。


「グスタフ! 貴様、枢機卿(すうききょう)に向かって少々無礼が過ぎるぞ!」

「礼を欠いてるのはどちら様だよ」


 何があっても抱き寄せられる様にファンナの背に手を添えながら、グスタフが座っていたソファから一歩を踏み出す。

 同じ様にディルニスも一歩を踏み出した。鎧の音が重く響き、ファンナとネリの怯えの声が小さく響く。

 燃ゆる業火さながらの視線のグスタフと、友人の不遜(ふそん)に怒りを露わにするディルニスの視線がぶつかる。


「座れグスタフ。枢機卿(すうききょう)の話はまだ終わっていない……座れ」

「無理だ。耄碌(もうろく)ババアの妄言に付き合う気はねぇ。お優しい騎士様、なんなら俺のことを座らせてみるか? 右足は思う様に動かないが、()()()()()を衰えさせた覚えはないぞ」


 グスタフが獣の表情で告げると、ディルニスが緊の表情を浮かべて半歩下がった。

 騎士上がりの辺境の農夫が拳を握ると、帝国騎士団長がゆっくりと柄に手をかける。

 どんどん殺気が膨れ上がってゆく二人の雰囲気に、クレスは巨大な猛犬の唸り声と静かに重く響く遠雷を聞く。


「ディルニスよぉ……人様の息子をいきなり傷つけた挙句(あげく)、嫁と娘を泣かせて謝罪も無い奴とどっちが無礼だ」

「ならば代わりに私が詫びよう。そして枢機卿(すうききょう)への振る舞いは、お前の憤怒を()んで水に流そう……だから座って話を聞くんだグスタフ」


 強い押さえ付ける様な口調の中、懇願(こんがん)する様な色合いを含ませる騎士の言葉を聞いて、グスタフは僅かに表情を緩めるが、しかし、小さく首を振る。


「相変わらずの《泣き虫》っぷりをありがとよディール。だがダメだ。俺はクレスを連れて帰る。明日もまた朝から畑仕事で、夜は愛しい嫁と娘と食卓を囲み馬鹿息子と飯の取り合いだ。枢機卿(すうききょう)を引っ張り出した挙句(あげく)にお前まで来る事態は正直、驚いたが……一晩寝て、忘れてやる。お優しいついでに、寝酒を一本与えてくれよ」

(たわ)けた事を。折れず曲がらず()りずに幾度となく愚直に挑むその姿勢……未だ健在の《鳥頭》っぷりを好ましく思うが、今回はダメだグース。練兵時代の祭でもなければ、愚かな親子のすれ違いでも無い……国の(まつりごと)に関わる事だ。戯言(たわごと)は聞かなかった事にするから、座れグスタフ」


 握られる拳に力が込められ、無骨な鎧が剣の柄を握り込む。

 いいか、とグスタフが口を開く。


「息子は騎士にならん。親父しか殴れん愚か者に、戦争で人を殺めることはできない……ましてや戦場に立つなんざ話にもならん。(くわ)を握って麦畑の世話と羊の相手がお似合いだ」


 だから、とグスタフは視線をディルニスから一瞬だけ枢機卿(すうききょう)へ向ける。

 ソファに鎮座する老婆を顎でしゃくり、


「分かったらさっさと他当たれ。お偉いお海月(くらげ)様の力を使って、どこぞの信奉者に『聖印(迷惑)』を刻み付けてこい」


 吐き捨て罵るグスタフの言葉にディルニスは唸る。


「そこまでだ。履き違えるなグスタフ。お前の息子に戦争をしろとは言ってない」

「同じことだろうがディルニス。魔物退治も戦争もよ……俺達が戦場で、一体何をしてきたよ?」

「重々承知だ。そして魔物の脅威が拡大しているのも事実だ。世界は今、『聖印(しるし)』を宿す勇者の力が必要だ……国が、大陸が争うのではなく、『聖印(しるし)』の下に団結しなければならないんだ——闇の脅威を払う為に」

御高説(ごこうせつ)をどうもディルニス。騎士の(ほまれ)だな。だがな、()()()()()、だ。尚更(なおさら)このお人好しを行かせられねぇな。それにようディルニス……魔物より恐ろしいのは、頭の狂った人間だって俺達がよく知ってるだろうが」


 グスタフの言葉にディルニスは唇を噛んで押し黙る。

 心の内側に荒れ狂う感情を押さえ付けているのだろう、数度深呼吸をして、改めて腰に下げれらた剣の柄を握り込む。

 ディルニスの表情から感情が消える。

 紅の双眸(そうぼう)には冷たい光が灯る。


「クレスの『聖印(しるし)』を確認し、認め次第、帝都へ連れて行く。グスタフ、お前の心情を思うと友人として、一人の父として掛ける言葉は見つからないが……『光の使者』の身柄を帝都へ安全かつ迅速に移すのが私達の任務だ。これは、国王陛下が下した王命であり、異論は認められない——もし抗うなら、()()()()


 クレスはディルニスから放たれる驚くほど冷たい言葉を聞いて、確かに身が震えた。

 王命。

 逆らうことを許されない、この国で最も力を持つ言葉だ。

 ここでいくら正論を並べても、正しい行いをしても、どうにもならない。

 泣いて懇願しても、何も覆らないのだ。


「そうか。話し合いは仕舞いかディルニス」

「そうだ。私もお前を罪人として追いたくはない」


 グスタフの問いにディルニスが答えると、緊迫した空気が一層研ぎ澄まされる。

 ファンナが顔を覆ってソファにゆっくりと沈み込み、ネリの(すす)り泣きが響く。

 グスタフは妻と娘を見遣(みや)り、そして此方(こちら)を見やる。小さく吐息すると、


「長い付き合いだったな、ディルニス。ここで寝てろ」

「——構え!」


 グスタフが淡い笑みを浮かべて拳を握り込むのと、その動きに合わせて半歩下がるディルニスの怒号が響くのは同時。

 扉が蹴り開けられ抜剣した騎士二人が飛び込んでくるけたたましい音と、ローガンが悔しそうに剣を正面に構える音が連なる。

 ファンナとネリが悲鳴と静止を懇う声を上げた瞬間、殴打の音と共にグスタフが吹き飛んだ。

 床から天井に突き上げられる様に押し出され、しかし不自然にくの字に折れた巨体が宙を舞い、突入してきた鈍色の騎士に激突する。

 肉がぶつかる重たい音と鋼が地を撃つ耳障りな金属音が響き、誰もが動きを止めた。

 異様な静けさのあと、ゆっくりと枢機卿(すうききょう)が口を開く。


「早まるな……《猟犬》。騎士団長も、下がれ」


 クレスの視界には、枢機卿(すうききょう)の背中に控える海月(くらげ)の紐が無数に伸びて、高速でグスタフを殴りつけていたの見ていた。

 そして半透明の不気味な紐は、ローガンにもディルニスにも拘束する様に巻きつき、部屋へ飛び込んできた騎士達にも同様の行いをしていた。

 静かな枢機卿(すうききょう)の声は、水を打った様に静まりかえった応接室によく響く。


「早まるなグスタフ。お前の言葉は何も聞かなかった事にしよう……状況をみて、よく考えて話しなさい」


 枢機卿(すうききょう)は応接室の扉の前で、鈍色の騎士と共に折り重なって倒れる農夫に冷ややかに告げる。

 身動ぎの音の後に、具合の悪そうな顔と共にグスタフはゆっくりと立ち上がった。

 悪いな、と鈍色の騎士を助け起こしてやると、首を鳴らし、不可視の海月(くらげ)に殴られた腹を(さす)りながら、


「やりやがったな耄碌(もうろく)ババァ。言う事聞かなけりゃ力づくか。枢機卿(すうききょう)が聞いて呆れるな」

「話を聞いていたかグスタフ。お前の我が儘(わ まま)に妻と娘を巻き込むな。ディルニスも言う様に、これは陛下の命だ。逆らうことは許されん。この枢機卿(すうききょう)と騎士団長はお前に許可を求めてはいないのだ……()()。これは国の命令だ」


 全身から力を漲らせる農夫の男に、枢機卿(すうききょう)は冷ややかに告げる。


「だから言ってるじゃねぇか……やなこった——()()()()


 瞬間、グスタフの横っ面が殴り飛ばされ床に叩きつけられる。

 骨肉を殴打する重低音と共に四肢を投げ出す様に派手に転がり、ファンナが悲鳴を上げて駆け寄って夫の名を呼び縋り付く。

 唖然とした表情のディルニスは、しかし憤りをその顔に浮かべると、冷ややかな瞳の老婆を振り返った。


枢機卿(すうききょう)!」

「違えるなディルニス」


 非難する声は一言で封じられる。

 老婆はゆっくりと立ち上がると、右手に持った杖の石突きで一度、床を穿つ。

 金属板が揺れ動き、鐘の音の様な音がなる。

 クレスが身構え、ネリが怯えと共に震え、しかし何も起こらない。

 枢機卿(すうききょう)は目を開けてクレスの左手を見ると口を引き結ぶディルニスへ命じた。


「陛下の勅命に背いた男とその家族は()()()()。クレスは——『聖印(しるし)』の宿主は教会で預かる孤児だ」

「お待ちください枢機卿(すうききょう)! グスタフは既に罰を受けた、これ以上はやり過ぎだ!」


 激怒の表情で老婆へと踏み出したディルニスは、しかし、何かに肩を跳ね飛ばされ踏鞴(たたら)を踏む。

 クレスの目には半透明の海月(くらげ)が鞭の様に紐をしならせ、騎士の鎧を叩いたのを認める。


「口を慎めディルニス。私は譲歩した、しかし、奴は(あらが)った……それだけだ。妻も娘も助けてやりたいが——」


 枢機卿(すうききょう)の紫の瞳がクレスを見つめ、震えるネリと未だに夫の名を呼ぶファンナへと動く。

 呻き声と共にグスタフが体を起こそうとするのを認めながら、


「——現状を加味しても、国と教会へ寄せる信頼は地に落ちる。団結が求められるこの時に不穏を(ささや)き波風を立てるくらいな、()()()()()()()事にせよ。丁度良い所に()()()()()()()()()()()()()


 ローガンが目を剥いて枢機卿(すうききょう)を睨みつけた。

 老婆はその視線を無視して再度杖の石突きで床を穿つ。

 三度目の鐘の音が響き、


「ディルニス、クレスを連れてこい。ローガンと若い騎士達は後始末を頼む」

枢機卿(すうききょう)!」

「——くどい」


 四度目の鐘の音。

 ディルニスの左の頰が張られ、一瞬体を揺らす。

 頰を打たれた騎士は踏みとどまると、憤怒と憎悪の視線で枢機卿(すうききょう)を睨み返した。


「私もできれば穏便に済ませたいが——下された王命に逆らうのであれば、致し方ない」


 クレスは見る。

 枢機卿(すうききょう)の背後を覆う半透明の尊き者が、不気味に身を震わせている。

 そして表面に所狭しと刻まれている解読不明の紋様が、淡く光を放ち始めている事に。

 あれだけはダメだ、とクレスは直感した。左の手の甲が熱を持ち、クレスの背筋を()(むし)っている。


 ——全員死ぬ。


 直感する。

 あの紋様が輝くと、枢機卿(すうききょう)と自分を残して全員呆気なく殺される。

 無音になった部屋の中には、無数に転がる肉の塊と部屋一面を覆う(おびただ)しい量の鮮血で作られた真紅の絨毯(じゅうたん)だ。

 それだけは避けないと、とクレスは夢中で枢機卿(すうききょう)へと左腕を突き出す。

 静止する悲痛なネリの声を置き去りに、クレスは左手のボロ布と包帯を引き剥がす。


「待ってください! それだけは……それだけは……やめて、ください……お願いします。騎士にもなります、貴方と共に帝都にも行きます。だから……お願いします」


 右手で何度も何度も血を拭い、左手の甲を枢機卿(すうききょう)へと見せつける。

 血が拭われた左甲の中心。重なり合う四つの環と曲線で作られた鋭利な三角形。聖エルム教の紋章にも似た刻印。

 グスタフの唸り声がやけに耳に響き、夫を静止しながら泣くファンナの声が届き、隣のネリの(すす)り泣きが耳に痛い。

 枢機卿(すうききょう)が満足そうに頷くと、半透明の海月(くらげ)の光が霧散する。ゆっくりと存在感を消す様に、限りなく透明になり景色に溶け込む様を見ながら、クレスは言う。


「父にも母にも、ネリにも手を上げないでください……騎士の方々にも、何もしないでください」

其方(そなた)の勇気と決断と慈悲深さにかけて約束しよう、『光の聖印(しるし)』を持つ者よ」


 『聖印(しるし)』を認めた枢機卿(すうききょう)は、無邪気な子供の様に(ひととはおもえない)満面の(くるった)笑みを浮かべた。

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